日本の音楽史に爪痕を残すアーティストの功績をたどる本連載。今回は1991年にRCサクセションを解散し、ソロ活動がメインになってからの
文
君が代パンクロック事件
1980年代を疾走した新生RCサクセション(RC)は、90年にアルバム「Baby a Go Go」を発表すると、恒例のクリスマスライブを最後に自ら時代に幕を下ろした。そのアルバムに「Rock'n Roll Show はもう終わりだ」という収録曲がある。こんな歌詞だ。
Rock'n Roll Show は
もう終わりだったら終わりだ
この街のRockは もうウンザリだ
なんだよいちいちめんどくさいんだ
ギターを鳴らして歌いたいんだ
(「Rock'n Roll Show はもう終わりだ」より)
かつてアルバム「カバーズ」で反核や原発問題を歌ったところ、所属レコード会社の東芝EMIから発売中止になってしまった清志郎。彼にしてみれば、この「Rock'n Roll Show はもう終わりだ」の歌詞にある通り、ギターを鳴らして歌いたいだけだった。もうコリゴリだったはずだ。しかしそれからおよそ10年後、またもや発売中止騒動に巻き込まれてしまう。
デビュー25周年を機に結成された忌野清志郎 Little Screaming Revueが1999年9月に発表したミニアルバム「冬の十字架」に、日本国国家「君が代」のパンクアレンジが収録されている。これが問題になった。ちょうどこの頃、日の丸を国旗とし、君が代を国歌と定める国旗国歌法案が議論されていた。発売を中止したレコード会社ポリドールは、このような見解を発表している。
“政治的、社会的に見解が別れている重要事項に関して、一方の立場によって立つかのような印象を与える恐れがあり、発売を差し控えた”
またもや大人の事情によって清志郎は歌を取り上げられそうになったのだ(その後、インディーズレーベルから発売)。「週刊金曜日」99年10月15日号の坂本龍一と筑紫哲也との鼎談で清志郎は、「君が代」についてこう述べている。
“法律で「君が代」が国歌だと決まったということは、アメリカと同じになったということじゃないですか。だったらジミヘンが、アメリカ国歌をやっているんだから、僕が「君が代」をやったっていいじゃないかと思ったんですよ”
日本の国歌をただカッコいいアレンジで歌いたかっただけで、彼に政治的な意図はない。このパンク「君が代」はこれ以降、ライブで最大に盛り上がる1曲となった。歌詞が「苔のむすまで」に差しかかると、清志郎はいつも「ムース! ムースまで!」と叫び始める。すると最前列のファンがムースを差し入れ、清志郎は頭中を泡だらけにする。そして、「スプレー! スプレーまで!」「ポマード! ポマードまで!」とエスカレートしていく。なんとたわいのないパフォーマンスだろう。
「TOKYO FMにとって最低で最高な存在」
ソロとしての活動を続ける一方で、清志郎に激似の別人物とされるZERRYが率いるTHE TIMERSも過激な活動を続けていた。そもそもTHE TIMERSの活動が始まったのは1988年のカバーズ騒動が発端だ。アルバム発売の中止を受けて清志郎は、今後何を歌にしてはいけないかをレコード会社に確認したという。「原発問題と皇室の侮辱」と答えるレコード会社に対し、「マリファナは?」と聞いてみたところ、「それは問題ない」という答えが返ってきて、それで結成したのが“タイマーズ”であった。
95年にリリースされた最終アルバム「不死身のタイマーズ」では、問題作「あこがれの北朝鮮」を発表する。北朝鮮はとっても平和で素晴らしい国であると、逆説的に批判した曲である。北朝鮮の拉致問題が広く社会に知られてからは、ソロのステージでも清志郎は頻繁に歌い、オーディエンスの喝采を浴びた。
03年には、清志郎らしいこんな“事件”もあった。この年の4月、ラジオ局FM東京(現在はTOKYO FM)が開催している音楽イベントに清志郎は出演していた。本来であれば「スローバラード」を歌うところで、予定にはない「あこがれの北朝鮮」を演奏したのだ。驚いたのはFM東京だ。何しろこの音楽イベントを生中継していたのだから大慌てである。
そもそも清志郎とFM東京には因縁がある。カバーズ騒動を受けてFM東京は問題になった曲ばかりか、THE TIMERSのアルバムすべても放送禁止としたのだが、トドメを刺したと言われるのが、山口冨士夫率いるTEARDROPSに清志郎が歌詞を提供した「谷間のうた」。これすらもFM東京とその系列のFM仙台で放送禁止にしたために、ついに事件は勃発する。
89年、フジテレビ系の生放送番組「ヒットスタジオR&N」に出演したTHE TIMERSは、予告なしで突然「FM東京♪ 腐ったラジオ おまんこ野郎 FM東京♪」と歌ったのだ。これらの出来事についてTOKYO FMの社員は、こう語っている。
“清志郎さんはTOKYO FMにとって、最低で最高な存在です。直訳するとロックです。社内では未だにあの歌のことを、みんなうれしそうに話しています。それを聞くたびに、清志郎さんって本当に愛されているんだなあと思います”
(「TV Bros.」臨時増刊「みんなの忌野清志郎」より)
しかし、過激な歌やパフォーマンスの印象が強いタイマーズであるが、決してそればかりではない。今もセブン-イレブンのテレビCMおよび店内で流れているThe Monkeesのカバー曲「デイ・ドリーム・ビリーバー」も、実はそんなTHE TIMERSが発表した後世に残る名曲だ。
もう今は 彼女はどこにもいない
朝早く 目覚ましがなっても
そういつも 彼女とくらしてきたよ
ケンカしたり仲直りしたり
(「デイ・ドリーム・ビリーバー」より)
表向きは恋人との別れの歌に聴こえるが、清志郎が亡き母へ捧げたバラードである。この曲は89年のエースコックのテレビCMから始まり、11年から現在までは、セブンイレブンのテレビCMとしても歌い継がれている。清志郎ファンではない一般の人にとっては、もっとも有名な曲だろう。
RC時代の“愛”と言えば男と女のラブソングが多かったが、解散後の彼はそれだけにとどまらず、家族の愛をも曲にした。ソロになって直後の91年に発表された「パパの歌」もよく知られている。糸井重里の作詞によるこの楽曲は、清水建設のテレビCM曲として制作され、のちに好評を得てシングルとしても発売されて大ヒットした。昨年11月に発売されたアルバム「ベストヒット清志郎」は、そんなデビューから18年までのCM、映画、ドラマのタイアップ曲が集められている。これから清志郎を聴いてみようという方にはオススメの1枚だ。
晩年のソロ3部作から読み取れるもの
若き日の清志郎はアメリカのソウルシンガー、オーティス・レディングを敬愛し、そのバックバンドも務めたBooker T. & the M.G.'s(M.G.'s)にとても憧れていたが、それからおよそ20年後の1991年の秋、ソウルの聖地、アメリカのメンフィスで、そのM.G.'sと共に1枚のアルバム制作を始めることになる。清志郎が夢を叶えた瞬間だ。
彼らの出会いは、中野サンプラザホールだった。The Blues Brothers Bandのライブを観にいった清志郎は、舞台監督の招きで楽屋へ入れてもらい、バンドメンバーを紹介される。それがM.G.'sでギターを弾いていたスティーブ・クロッパーと、ベースを弾いていたドナルド・ダック・ダンだったのだ。彼らに誘われ、清志郎はアンコールに飛入り参加する。10代の頃から憧れていた2人との共演だ。あちらこちらから「キヨシロー!」の歓声が飛び交い、場内が騒然となる。その後の展開を、清志郎はインタビューでこう答えている。
“呼び屋の人が一緒にツアーやったらどうかって言うわけ、 M.G.'sと。それで「ああ、いいね」って盛り上がって。でもツアーやるならレコード作った方がいいんじゃないかって俺が言ったんすよ。じゃあ作ろうってことになって(笑)”
(「bridge」04年2月号より)
こうして冒頭で述べたようにM.G.'sとのレコーディングが始まり、その地の名前を冠したアルバム「Memphis」が92年3月に発売された。テネシー州メンフィス市からは名誉市民の称号も授与され、そしてこのレコーディングを通じて親交を深めたスティーブ・クロッパーとは、清志郎が亡くなるまで交流が続いている。それから2年後の94年には、MG'sが17年ぶりにニューアルバムを発表しているが、ひょっとしたら「Memphis」が影響を与えたのかもしれない。
RCの再結成も絶えずファンから切望されていた。それはもはや叶わぬ夢となってしまったが、清志郎の晩年のソロ3部作を聴くと、そのチャンスはもう目の前まで来ていたのかもしれないように思える。
03年11月にリリースされたアルバム「KING」に「Baby何もかも」という名曲があるのだが、これがまさにRC時代を彷彿とさせる、ソウルフルな、清志郎風に言えば“ブ熱い”ラブソングなのだ。この曲を聴いてRCファンは清志郎が原点回帰を果たし、いよいよ活動再開の狼煙を上げたのかと胸を高鳴らせた。それにアルバムタイトルも意味深だ。長きにわたり“KING OF ROCK”と称された清志郎が、あえて自ら“KING”と銘打って、R&Bに戻ってきたかのようなアルバム。覚悟なのか開き直りなのか、清志郎らしいユーモアなのか。
05年3月、次のアルバム「GOD」が発売された。これはデビュー35周年を記念したアルバムで、ソロ時代の金字塔とも言える名曲「JUMP」が収録されている。「KING」から「GOD」。“王”から“神”へとなった清志郎は、次はいったい何者になるのだろうか。
06年10月に出された新作アルバムのタイトルは「夢助」だった。「デイ・ドリーム・ビリーバー」を日本語に訳せば、“白日夢を見る人”なのだろうが、清志郎が訳せばそれはきっと“夢助”なのだ。彼にとって、それは神より偉い存在なのだ。プロデューサーはM.G.'sのスティーブ・クロッパー。レコーディングスタジオは、カントリーミュージック発祥の地、ナッシュビル。クロッパーと一緒に、敬愛するオーティス・レディングに捧げる「オーティスが教えてくれた」を作った。清志郎にとって、このレコーディングはまさに“夢”のような時間であったはずだ。
そしてこのアルバムで特筆すべきは、何より清志郎とチャボ(仲井戸麗市)がひさしぶりに共作を果たした新曲「激しい雨」が収録されていることだ。
【DVD「ブルーノートブルース 忌野清志郎 LIVE at Blue Note TOKYO」から「激しい雨」。2008年2月】
Oh 何度でも 夢を見せてやる
Oh ダイヤモンドが 輝いてる夜の夢
RCサクセションがきこえる
RCサクセションが流れてる
(「激しい雨」より)
これはRCサクセション復活への布石か!? と、ファンであれば誰しもが歓喜したはずだ。ファンにとってもまさに夢のよう。ところがその喜びも束の間、06年7月、忌野清志郎が喉頭癌であることを発表し、休養のため音楽活動を休止する。
ロックン・ロール・ショー~FINAL~
しかし、清志郎は不死身だった。いや、不死身かに見えた。喉頭癌に倒れた清志郎は2008年2月10日、奇跡の復活を遂げる。日本武道館で1万3000人を超えるオーディエンスと共に行われた「忌野清志郎 完全復活祭」には、チャボはもとより、RC時代のドラマー新井田耕造も参加していた。このステージにリンコさん(小林和生)がいてくれたら……RCサクセションの復活まで、もうあと一歩だった。
09年5月2日、忌野清志郎、永眠。その密葬の様子を新聞が報じている。
“都内の自宅から清志郎さんの遺体を運ぶ車が、密葬会場に向けて出発すると、晴天の上空に虹が2本アーチを架けた。雨上がりの空でもないのに…。気象庁に問い合わせても「極めて珍しい」という現象は、カラフルなメークと衣装で観客を酔わせた「清志郎ルック」の名残のようだった”
(「日刊スポーツ」2009年5月4日より)
清志郎が、虹を渡って逝ってしまった。今年はあれからちょうど10年になる。先日の5月4日、東京・日比谷野外大音楽堂には、清志郎ファンが一堂に会していた。忌野清志郎にゆかりのあるアーティストが出演するライブイベント「忌野清志郎 ロックン・ロール・ショー」に参加するためだ。会場の熱気もさることながら、チケットを取れなかったファンが、せめて音漏れだけでもと、野音を二重、三重に取り巻いていた。ライブの最後にチャボが空に向かって呼びかけた。
「聞いているか忌野、そろそろ戻って来いよ」
清志郎が死んで10年が経った。しかし、10年経った今も、彼の存在は色褪せていない。最後にこの曲を残して筆を置こうと思う。
【DVD付きアルバム「THE TIMERSスペシャル・エディション」より「偉人のうた」】
そもそもこの連載企画は「音楽偉人伝」であるが、「“キング”とか“カリスマ”とか、勝手なことばっか言ってウルセーよ。それで死んだら“偉人”かよ」とニヤニヤしている清志郎の顔が浮かぶ。
<終わり>
- ハギワラマサヒト
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元キリングセンス、臓器移植芸人。ライター。中学生よりRCサクセションのファンとなり、亡くなるまで忌野清志郎を追い続けた。「TV Bros.」臨時増刊「みんなの忌野清志郎」にライターとして参加。肝硬変の末期に清志郎からもらった応援の色紙が家宝。著書に「スキスキ・コンビニ」「僕は、これほどまで生きたかった。」がある。
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ハラカズヒロ(原タコヤキ君) @harataco
今回の書き手は、闘病の際に清志郎本人から励まされた経験を持つ“臓器移植芸人”のハギワラマサヒト/忌野清志郎(ソロ編) - 音楽ナタリー https://t.co/tJn8rj43TG