GLIM SPANKY

あの人に聞くデビューの話 第4回 前編 [バックナンバー]

GLIM SPANKY、デビュー前夜を語る

業界の大人に敵対心を抱いていたあの頃

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音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く「あの人に聞くデビューの話」。この連載では多種多様なデビューの形と、それにまつわる物語をじっくりと掘り下げていく。第4回はデビュー10周年を迎えたGLIM SPANKYをゲストに迎え、バンド結成からメジャーデビューに至るまでを振り返ってもらった。

取材・/ 松永良平 撮影 / 相澤心也

数年前、突然知らない人からTwitterにDMが届いた。以前に僕がブログに書いたエミット・ローズ(アメリカの伝説的宅録シンガーソングライター)についてのエピソードを読んだ反応を書いてくれていて、とてもうれしい内容だった。だが、びっくりしたのはその差出人。「はじめまして。GLIM SPANKYというバンドをやっております松尾と申します」とあった。えええええ! それがきっかけで、音楽やカルチャーへの自分の愛情が彼らの作品にしっかり表現されていることに好感と興味をすごく持ったし、いつか取材の機会があればと思っていた。インタビューを読んでもらえればわかるが、ギタリスト亀本寛貴の発言も相当に面白い長年の名コンビ。その2人が歩んだデビューへの道のりは、頑固で不器用でまっすぐでたまらない。

GLIM SPANKYは高校の文化祭用のバンドだった

──GLIM SPANKYのメジャーデビューは2014年6月のミニアルバム「焦燥」リリースですが、そこに至るまで意外と歴史がある。結成はそもそも2007年の高校時代。2008年末にソニーミュージック主催のコンテスト「ロック番長」で優勝しています。

亀本寛貴(G) 当時、ソニーが新人発掘イベントを各地でやっていて、それが「ロック番長」だったんですよ。僕らが出たのは長野県限定のコンテストでした。「ロック番長」は審査員だけではなく、その場にいるお客さんも審査に参加するというシステムでした。

松尾レミ(Vo, G) それが高2のときですね。私は高校に進学する時点で2つ絶対にやろうと決めていたことがあったんです。1つはバンドをやること、もう1つは美大に行くこと。なのでバンド活動がしやすくて、かつ、美大に行きやすい高校を選んだつもりだったんですけど、いざ進学したら軽音部の活動が禁止されていたんですよ(笑)。

──まさかの(笑)。

松尾 ただ、部活動としては禁止だけど、学内の有志でバンド活動をすることはオッケーということで、高1の5月に文化祭用にバンドを組んで。それがGLIM SPANKYだったんです。でも、文化祭用のバンドだったから、すぐにメンバーが抜けちゃって。私がギター&ボーカルで、あとはドラムの子だけが残ったんですよ。せめてベースだけでもいてほしいということで先輩に入ってもらって、しばらくスリーピースでライブを続けていたんですけど、その先輩に「バイト仲間でギターを弾ける人がいるよ」って紹介してもらったのが1学年上の亀本先輩です。それで4人組のバンドになりました。私が高1の秋ですね。

松尾レミ(Vo, G)

松尾レミ(Vo, G)

亀本 そのとき僕は高2で、高1の終わりの春休みくらいからギターを始めていたんです。けっこう弾けるようになってきたタイミングでした。

──その時点ではまだコピーバンド?

松尾 コピバンですね。でも、クリスマスにはオリジナル曲を作ろうということになって。

亀本 けっこうすぐだったね。1、2カ月でオリジナル曲をやっていた。

──バンドとしてのプロ志向が当時からあったんですか?

亀本 松尾さんがかなり真剣だったんです。彼女のお父さんが音楽マニアで、その世代の大人バンドとのつながりもあったし、その影響もあって「演奏力を上げるためにオリジナル曲をやらないとダメだ」と言ってました。

亀本寛貴(G)

亀本寛貴(G)

松尾 父親の友達にブルースおじさんがいたんですよ。何十本もギターを持ってるような人。その人に「試しに1曲作ってみなよ」と言われていたし、バンドをやるんだったらオリジナル曲を作るのは当たり前だと思ってました。せっかく正式なメンバーも固まったことだし、ここからがGLIM SPANKYのスタートだということでオリジナル曲を作りました。学校が終わったらカラオケの廃墟みたいなところを練習場にしてみんなで集まって、夜中まで練習して。とりあえずみんなで音を出すみたいなやり方でした(笑)。

亀本 当時は地元の長野県飯田市で活動していたんですけど、実は「ロック番長」の前に、飯田市のコミュニティFMが主催していたコンテストを最初に受けました。でも、それは落ちたんですよ。

──そうなんですか!

亀本 レミさんが、けっこう悔しがっていた記憶があります。ここに書けないような悪口を言ってましたね(笑)。

松尾 言ってた……と思う(笑)。でも、当時の私は常にそういう感じだったね(笑)。

──めげずに見返してやるというか。

松尾 そうですね。根拠のない自信があって、それに衝き動かされてきた感じです、ずっと。

「閃光ライオット」で注目されたものの…

──当時すでにライブもやっていたんですか?

松尾 地元にCANVASっていう本当に小さいハコがあるんですよ。そこで月1の飛び入り参加ライブが行われていて、1バンド15分もらえるんです。そのライブに出て3曲やるのが毎月のGLIM SPANKYの活動になっていました。お客さんも出演する人も、みんな「ふむふむ」って感じで観ている大人たちだったんで、そこで度胸がつきました。「アウェーでも全然大丈夫!」みたいな気持ちの強さが鍛えられていったかな。

──そして、2008年末の「ロック番長」へ。

亀本 出場には、長野県出身とか、20代前半までとか、いろんな基準がありました。それをクリアしたら、集まったデモテープをソニーの人が聴いて何組か選ぶ感じでしたね。

──そして2009年に開催された「閃光ライオット」では、全国5500組の中から14組のファイナリストに選ばれています。「ロック番長」優勝からの「閃光ライオット」ファイナリストというのは立派な経歴ですよ。10代で若いし、可能性もある。バンドとしては、そこでメジャーデビューの声がかかってもおかしくないけど。

亀本 デビューの話もあったみたいですけど、結局決まらなくて。当時は、いろいろなレーベルやマネジメントの人たちが、こぞって青田買いにやって来ていたんですけど、僕らはそこで選ばれなかった。実は、2008年の「閃光ライオット」にも僕らは応募していたんです。だけどその年は予選で落選して。そのあとに「ロック番長」で僕らを観たソニーの若いスタッフがリストアップしてくれたんでしょうね。翌年の「閃光ライオット」ではファイナルに残ったので、そういうつながりもあったのかな。ただ、あのとき誰も僕らを担当したいと手を挙げなかったのは事実なので。

松尾 でも私たちは「デビューなんて関係ねえ」って思ったよね(笑)。

亀本 デビューできなかったことに関しては当時何も思わなかったよね。

松尾 とにかくGLIM SPANKYを続けることにすべてを費やして、そこに向けて高校生活を送っていました。

──松尾さんは、高校に入るときの「美大に入る」といういう目標も見事に実現させたんですよね。

松尾 そうですね。日本大学の芸術学部を受験して、デザイン学科に進みました。本当は油絵とかアクリル画をやりたくて高校時代に教わっていたんですけど、バンドも美術もやるなら両立できるものがいいって思って。デザイン学科だったら自分のフライヤーとかジャケをデザインできるなってことで、「閃光ライオット」に出たあとに進路を決めました。

──同じ美術系ではあるけど、バンドのために進路を変えるって、高校の先生は「え?」って反応にならなかった?

松尾 私は本当に先生に恵まれていたなと思うんです。学校をあげてGLIM SPANKYを応援してくれていたんですよ。私のために美大用のカリキュラムを作ってくれたり。みんながクラスで通常の授業を受けているときも、私だけ美術室で先生と絵を描くカリキュラムにしてくれて。「閃光ライオット」も先生たちが観に来てくれたし、壮行会もしてくれたんです。

──入学したときは軽音部が禁止されている学校だったのに(笑)。そんな環境の中だから、音楽を続ける気持ちはどんどん強くなりますよね。

松尾 それは絶対でした。家族にも周りの人にも恵まれてました。

──亀本さんは1年先輩だから、先に大学進学していたんですよね?

亀本 そうです。最初は名古屋の大学に行ったんですよ。でも、1年くらいで辞めて埼玉の大学に入り直すんです。

松尾 私から亀本先輩に電話して「本気でGLIM SPANKYをやるから、名古屋の大学を辞めて一緒に東京に来てくれ」って誘ったんです。

亀本 それ1年前に言えよ、っていう話で(笑)。

松尾 なので、タイミングとしては一緒に東京に出てきた感じでした。

GLIM SPANKY

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下北のライブハウスシーンで得たもの

──東京で起きた一番の変化はなんでしたか?

亀本 ライブハウスにいっぱい出るようになったことが大きかったですね。もしコンテストでメジャーレーベルに掬い上げられていたとしても、ライブハウスシーンに入ったら結局、いろんな才能の中で埋もれていただろうし。いい意味で、そこからの戦いが始まった。その中でどうしていこうかなと考えるようになって、たくましさが身に付いたと思います。あとはライブハウスで生まれるバンド間のつながりが大きかった。毎回現場にメジャーレーベルの大人が付いてくるようなバンドだと、ライブハウスの仲間ができにくい。1本1本ライブに出て、打ち上げで飲んで下北でわちゃわちゃやって、みたいな生活を4年間やったことが大事。そういう時間が取れたのはすごくよかったよね?

松尾 そうね。下北の駅前で、出演者同士で一緒に遊んだ(笑)。

亀本 ライブして、飲んで、あーだこうだ言って(笑)。それもよかったですね。ライブハウスって、いい意味で閉鎖されている空間なので、メインストリームのトレンドとか、あまり関係ないじゃないですか。

松尾 グリムは東京に出てきて、またゼロからスタートしたんです。地元では4人だったのが、東京では私と亀本の2人になったので最初はバンドという体制で活動できなかった。だからアコースティック編成で2人でやるときもあれば、私が1人でステージに出るときもあって。当時、私はこっちからサポートメンバーを募集したくなかったんですよ。むしろ「一緒にやりたいやつが声をかけてこい」っていう感じで(笑)。

亀本 そういう環境だったんで、自分たちの独自の感性を育むことができた。

松尾 楽しかったよね。それで大学を留年しちゃったけど(笑)。

亀本 朝まで飲んでたからね(笑)。

松尾 1限目にどうしても行けなかった(笑)。当時、私は大学がある埼玉の所沢に住んでいたので国分寺が近かったんですよ。よく国分寺に行って、中山ラビさん(70年代にデビューした、女性シンガーソングライター)がやってらした、ほんやら洞という喫茶店に入り浸ってました。そこでカレーを食べたあと、珍屋という中古レコード屋さんに行って。あと、ほんやら洞の横に朝日屋洋品店という古着屋さんがあって、あそこが大好きで当時ロン毛のヒッピーみたいな店員さんに「このコートはいいよ」とか、いろんなことを教えてもらいました。大学をサボりながら、いろんなカルチャーを体に染み込ませていった時期でしたね。当時聴いたレコードや読んだ本がすごく身になってる。大学時代のくちゃくちゃな経験は大事だなと今になって思いますね。

インディーズ時代のGLIM SPANKY。下北沢のライブハウスを中心に活動を展開していた。(撮影:SHINNOSUKE UMEDA)

インディーズ時代のGLIM SPANKY。下北沢のライブハウスを中心に活動を展開していた。(撮影:SHINNOSUKE UMEDA)

松尾レミ(Vo, G)。インディーズ時代のライブより。(撮影:SHINNOSUKE UMEDA)

松尾レミ(Vo, G)。インディーズ時代のライブより。(撮影:SHINNOSUKE UMEDA)

音楽を血肉化した大学時代

──そういう意味では「閃光ライオット」のときにいきなり業界に入ってしまうよりは、バンドマンとしてすごく大事な時間を過ごすことができたと言えますよね。

亀本 音楽面でも、そうですね。ライブハウスにいる人たちって、いい歳になっても、ちょっと変な人が多い(笑)。そういう人たちにいろんなことを教えてもらいました。1枚の作品を徹底的に聴き込むことの大事さとか。僕も、昔の人がレコードで聴いていたのと同じような聴き方をしてみようと思って、iPodにジミ・ヘンドリックスのアルバムを1枚だけ入れて徹底的に聴き込んだりしました。「周りのバンドの客が増えてきた」とかを気にしていたら、そういう感覚にはなっていなかったと思うので。音楽にひたすら没頭していました。

──いい意味で、偏ることができたというか。

松尾 私もレコードを擦り切れるくらい聴いてました。それぐらいしないと、自分の中で血肉化しないんじゃないかと思って。

──松尾さんはお父さんが音楽が好きで、小さい頃からマニアックな洋楽が家の中で鳴っているような状況だったと思うので、耳の吸収もいいと思うんですけど、肉体というか自分に落とし込む時間は必要だったわけですね。

松尾 本当にそう思いますね。高校に入ってすぐ、まだあまり洋楽のロックとかを知らない頃、Gorky's Zygotic Mynci(1990年代にイギリスのウェールズからデビューしたサイケデリックフォークバンド)のCDが私の勉強机にぽんって置かれていたんですよ。父親に「何これ?」って聞いたら、「レミは好きだと思うから聴いてみな」と言われて。それで実際に聴いてみたら、「これこそ私が好きな世界観だ!」と思ったんです。イギリスの妖精文化とかケルト文学の世界観とか、その後の自分の嗜好性を決定付けた衝撃的な体験だったんですね。英才教育みたいな感じで父の選んだCDが毎日机の上に置いてあったんですけど、それをつなげる作業を大学のときにしていたっていう感覚がありました。大学時代に私はニック・ドレイク(イギリスのシンガーソングライター。若くして自殺したが繊細な音楽性が現代も高く評価されている)にハマったんですけど、彼の音楽を聴くことで、当時まだロックを聴いていなかったときに父が教えてくれた音楽で感じたワクワクとか感動が思い起こされたり、月の灯りと自分の好きだった絵画の灯りが通じたり、いろいろなことが起こっていった。

Nick Drake - Pink Moon

亀本 大学時代は、そんな時間だったよね。当時、松尾さんが住んでいた家の近所にHollywoodってレンタルCD店があったんですよ。松尾さんは「ホーリーウッド」って呼んでましたけど(笑)。

松尾 そう。ホーリーウッド(笑)。

亀本 ホーリーウッドでThe Beatlesの紙ジャケリマスター盤を全部借りて聴いた思い出がありますね。

松尾 当たり前っちゃ当たり前の作業だけど、そういうことを片っ端からやってましたね。

亀本 ただ、地道にライブをやってたんですけど、お客さんは全然増えなかった。状況が変わったきっかけは、当時、FoZZtoneというバンドのオープニングアクトに選ばれたことでした。FoZZtoneの事務所の社長が、僕らのライブ映像を観て気に入ってくれて、「メシでも食いにいこう」って声をかけてくれたんです。それがきっかけで今の事務所(amnis inc.)に所属することになって。事務所がスペシャとEMIにつなげてくれて、メジャーデビューまでの道を作ってくれた感じですね。

松尾 でも私は、それまで自分たちだけでやっていたんで、最初は業界の大人にかなり敵対心があったんですよ。

<後編に続く>

GLIM SPANKY(グリムスパンキー)

松尾レミ(Vo, G)、亀本寛貴(G)による男女2人組のロックユニット。2007年に長野県内の高校で結成された。2009年にはコンテスト「閃光ライオット」で14組のファイナリストの1組に選ばれる。2014年6月に1stミニアルバム「焦燥」でメジャーデビュー。その後、スズキ「ワゴンRスティングレー」のCMに松尾がカバーするジャニス・ジョプリンの「MOVE OVER」が使われ、その歌声が大きな反響を呼ぶ。2015年7月には1stアルバム「SUNRISE JOURNEY」をリリース。2018年5月には初の東京・日本武道館でのワンマンライブを開催した。最新アルバムは2023年11月リリースの「The Goldmine」。2024年8月には、メジャーデビュー10周年を記念した東名阪ワンマンツアー「GLIM SPANKY 10th Anniversary Tour 2024」を開催する。また秋にはデビュー10周年記念ベストアルバム(タイトル未定)をリリースする。

GLIM SPANKY(グリムスパンキー)公式サイト
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松永良平

1968年、熊本県生まれの音楽ライター。大学時代よりレコード店に勤務し、大学卒業後、友人たちと立ち上げた音楽雑誌「リズム&ペンシル」がきっかけで執筆活動を開始。現在もレコード店勤務の傍ら、雑誌 / Webを中心に執筆活動を行っている。著書に「20世紀グレーテスト・ヒッツ」(音楽出版社)、「僕の平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」(晶文社)がある。

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✍️ INTERVIEW ✍️

音楽ナタリー
ライター松永良平さん連載記事

【 あの人に聞くデビューの話 】
第4回(前編)

GLIM SPANKY、デビュー前夜を語る

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