佐々木集(millennium parade、PERIMETRON)

映像で音楽を奏でる人々 第21回 [バックナンバー]

millennium paradeでも活躍、肩書きのない佐々木集が描くものとは?

自分の興味を掘り下げ続けるクリエイターが目指すPERIMETRONの形

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音楽の仕事に携わる映像作家たちに焦点を当てる「映像で音楽を奏でる人々」。今回はクリエイティブチームPERIMETRONに所属する佐々木集に話を聞いた。

佐々木は、常田大希(King Gnumillennium parade)が主宰するPERIMETRONに2016年に加入。以降、ミュージックビデオだけでなくアーティスト写真、ジャケットなどさまざまな形でその手腕を発揮している。特殊なのは、作品やプロジェクトに関わる際のスタンスだ。プロデューサー、ディレクター、クリエイティブディレクターなど肩書きは多岐にわたり、millennium paradeではアジテーターとしてもステージに立つ。

過去に映像を学んでこなかったという彼だが、PERIMETRON加入までに積み上げたキャリアは20代のものとは思えない濃密なものだ。自分が本気になることを追求する中で、自然にクリエイターとして映像の世界に関わっていたという佐々木。このインタビューでは自身の経歴を振り返ってもらい、PERIMETRONとしてのスタンスや今後の展望などを聞いた。

取材・/ 中野明子 撮影 / フジイセイヤ

高校を辞め、18歳でベースを担いでロンドンへ

母がもともと映画好きで、子供の頃に地元にある京都みなみ会館というミニシアター系の映画館によく連れて行ってくれたんです。それをきっかけに映画にも興味を持って、中学時代から映画を観まくっていましたね。ジャンルは関係なく、地元のレンタルショップに行ってジャケットが面白いと思ったものはとりあえず借りるみたいな。10代のときにそうやって映画にのめり込んでいきました。

一応高校に進学したんですが、入学しても辞めることを前提で、辞めてから何をするのかを考えていましたね。ただ、何か1つでも秀でたスキルがないと将来的に生きづらそうとは思っていて。もともと海外で生活したいという漠然とした目標もあったので、バイトで貯めたお金でアメリカに映画を学びに行くか、中2からベースを弾いていたのでイギリスに音楽をやりに行くか考えたんです。で、経済的な理由でイギリスのワーキングホリデーを選びました。18歳でロンドンに行ってからは4カ月くらい語学学校に通って、並行して就活もしてました。でも当時は英語がままならなくて全滅。じり貧になりすぎて、1カ月くらい毎日食パンで生活してました。そんな状況でしたけど、すでにロンドンでバンドのコミュニティもできていたし、帰国したいとはまったく思わなかった。結局レストランで働くことになって、昼間はそこで働いて、夜はライブするみたいな生活をしてました。

将来に対する不安はなかったんですよね。イギリスに行ったときも2年間あれば基本的な英語は学べるだろうと。当時は英語力があればとりあえずどうにかなると思っていたので。勉強以外の時間はやりたいこととお金を稼ぐことに使おうと思って。イギリスではバンドに加入して、今はこれを全力でやろうと思って、年間50本くらいライブをしてましたね。漠然とアーティストビザを取れたらいいなと思ってたんですけど、申請ができないことがわかって帰国することにしたんです。で、地元の京都に戻るのではなく、東京に行こうかと。当時から興味があることを1回やってみて、ダメだったら次はこうしようみたいな軌道修正は早いです。

PERIMETRON加入につながった「have no ideas」時代

服が好きだったのと、漠然と東京の中心で働けば友達ができるかなーって思いがあったから、原宿をぷらっと散歩してみたんです。そしたら京都にいたときから知ってたブランドの路面店があって。「雇ってもらえませんか?」とスタッフに直談判して面接で代表と会ったら、その人がめちゃめちゃロンドン好きで、面接のはずが2時間くらいの談笑になったんです。その場で「お前、採用!」と言われて、そこで働き始めました。それが20歳くらい。とりあえず好きなものや影響を受けたものに素直にのめり込むという姿勢に関しては自分でも誠実だと思っていて。それが全部つながって今に至る気がします。

アパレルショップで働きながら、21歳くらいのときにイベントのオーガナイズをやり始めました。原宿で働く中で同世代のコミュニティも生まれ出して、そこを盛り上げたいという気持ちもあり、周りに「DJできない?」「絵を描いてるならライブペイントやろうよ」とか提案していったら、とんでもなくカオティックなイベントが生まれたんです(笑)。 DJあり、バンドのライブあり、ダンスのショーケースあり、その場でシルクスクリーンを刷ってグッズを売る企画あり……そんなイベントを1回開催したあとに面白いから続けようということになった。それで当時イベントの名前を付けようということになって付けたのが「have no ideas」。いろんな要素をぶち込んだイベントなのに「have no ideas(全然わかりません)」っていうタイトルなところが皮肉っぽいというか、何もわからないからこんなカオスなことをやってると自負してるほうが僕の好きな無邪気さだなと。

でも23歳になる手前くらいに、当時働いていた店舗を閉める話が出たんです。それをきっかけにフリーランスになりました。何をやるのか具体的に決めてなかったんですが、そのときはイベントを企画することに興味があって、自分のいるチームだったらいろんなことができるんじゃないかと思って。あるとき知人に紹介してもらった広告代理店の人からタバコ産業のコンテンツを作らないかという話を受けて、「どうやったら若者が特定の場所に来てくれるか」といったオーダーに対して、アイデアを提案していました。ティザーなんかも作ったりして、その仕事を1年半くらいやったのかな。同時期に表参道のCOMMUNE246の前にあるTOBACCO STANDというタバコ屋で週3くらい働いてました。タバコ屋の店頭に立ちつつ、イベントをやる中で出会ったのが(常田)大希。僕が企画したイベントに声をかけたことがきっかけで、PERIMETRONに誘われました。

役職とか肩書きに興味はない

PERIMETRONに誘われた理由は、ぶっちゃけわからないんですよね。自分発信で企画を立てて、何かやろうよっていろんな人を誘ってたんで、なんでもできるだろうと思ったんでしょうね(笑)。一緒に加入したOSRINからは「集はプロデュースとかできるから映像のプロデューサーもやりなよ」と言われたんで、最初はとりあえずプロデューサーになるか、というくらいでした。当時からあんまり肩書きに興味がないんです。

初めて世に出た商業的な映像作品はFILAのトレイラー映像だと思います。以前働いていたアパレルショップの社長から、期間限定のFILAのポップアップショップを日本に何店舗か同時に作りたいから店舗マネジメントの統括をやってほしいと依頼を受けて。当時はPERIMETRONをどうやって動かしていくか考えている時期だったので、思い付きで「今のうちに映像を撮って、それを本国のチームが来たタイミングで見せてみよう。よかったら公式認定もらえるんじゃない?」ってメンバーに提案したんですよ。要は作品撮りですね。店舗にFILAの商品やサンプルがあったので、モデルに着てもらって、1本映像を撮ったんです。それをスタッフに見せたら、FILAの公式マークを付けていいよと言ってくれて。

初めて関わったMVはKing Gnuの「Vinyl」。あとに撮影した「Tokyo Rendez-Vous」のほうが先に世に出たので、時系列がちょっとズレちゃうんですけど。「Vinyl」を撮っていた頃のことはがむしゃらだったのであまり覚えていないんです。ただ当時、ディレクターのOSRINのトーンが「Vinyl」という曲に対して暗いと感じたのは覚えています。いわゆるじっとりした日本的な暗さがあるなと思って。制作初期にOSRINと「もっとキャッチーに、もっとポップにいこうよ」と話し合った気がしますね。「じゃあポップって何?」と聞かれたから、例えばこういうビデオ、こういう映画ってサンプルを出して。技術的に映像を勉強していたわけじゃないけど、中学生の頃から映画を観ていて、自分の中に引き出しはあると思っていたのでそうやって方向性を決めていきました。

話し合いの純度を重視するPERIMETRONの制作手法

PERIMETRONとほかとの違いの1つは、話し合いの純度の高さ。近しい関係であれば「なんでこの曲を作ったの?」とか「なんでこういうことを言ってるの?」とか友達のような距離感で聞いて、その言葉を作品に反映していくことができる。それは大切なことだと思っています。何度か仲間以外のMVに携わる中で感じたのが、アーティストから直に意見を聞くタイミングが少ないこと。それで本当にそのアーティストのことがわかるのかなって思う。ミーティングを数回やっただけで、その人の好みはわからないだろうし、一度深い話をするか、例えば飲みにでも行ってベロベロにならなきゃ本音を話せない人もいるんじゃないかと僕は考えてるんです。それはいわゆるエコな方法ではないと思うんですけど、そのアーティストと一緒に仕事をするのは一度きりの可能性もあるわけで。だったらコミュニケーションを大切にして、両者とも納得のいくものを作りたいですよね。当たり前と言えば当たり前のことなんですけど。

PERIMETRONのスタッフはそれぞれ歩んできた道がまったく違うから、多角的な意見を交わすことができる。僕の場合、短い期間とはいえ音楽を本気でやっていた時期があったから、音の体感的な部分で意見を言ったり。映像の世界だけで生きていたら培われてこなかった感覚を持っている分、いろんな視点から意見を出すことができる。初期のKing GnuのMVを作っていたとき、カットの頭が曲のリズムに対して合ってないことがあって、大希とOSRINでデスクを囲んで調整していると実際に大希に指示された部分を変えて、改めて映像を観たときにリズムの感じ方が体感的に変わっていたんです。波形で流れている音に合う演出って絶対に存在するんです。MVの中でストーリーを描くのはもちろん好きなんですけど、その要素を曲のどこのタイミングに刺すか、どの音に合わせるかみたいなことをしっかり考えたほうがいいと思ってます。

純粋にクリエイションに向き合った「THE MILLENNIUM PARADE」

今年2月にリリースしたmillennium paradeの1stアルバムのタイトルについては、大希や森洸大と早い段階から話をしていましたね。セルフタイトルは通常1stアルバムか最後のアルバムだと思うのですが、出す時期に世界がいろんな側面で分断されている状態だったので、自分たちが発信するものがポジティブであり、多種多様な人がいることを肯定していることを誇示するタイミングじゃないかということになって。それがmillennium paradeの筋なのであれば、セルフタイトルの「THE MILLENNIUM PARADE」がいいんじゃないかと思ったんです。

millennium parade「THE MILLENNIUM PARADE」ジャケット

millennium parade「THE MILLENNIUM PARADE」ジャケット

アルバムのアートワークは「手筒花火ってすごく美しいよね」というジャストアイデアから派生して、自分たちが置かれている状況や時勢を結び付けて、夜な夜な議論して作っていきました。花火というのがそもそも死者への弔いの意味があるので、アルバム自体のコンセプトである「失われた者への弔いと、新しく生まれることへの祝い」を表現することや、今の時代にぴったりなんじゃないかということにもなったんです。もともと僕は鬼のモチーフを多用していたんですが、鬼というのはそもそも“おぬ(隠)”というこの世に存在しないものから派生して、鬼と呼ばれるようになったという話もあって。匿名的な存在が花火を打ち上げているという姿が、承認欲求的な誇示ではなく、本当に伝えたいことをしているんでないかということにもつながったんです。それ以外にも洸大が色々と深いとこまで考えてくれていたり、みんな自分が腑に落ちないと動けないので、1個1個細かく決めていきました。

アルバムを出したあとの手応えは、正直今はなくて……ただ、反響を見て自分たちがいいと思うものを表現したことを受け取ってくれる人たちがこんなにもいるんだということは感じました。ここ最近はどちらかというとポップさやキャッチーさを意識した、大衆性を意識して作品を作っていたけれど、「THE MILLENNIUM PARADE」に関しては純粋にクリエイションに向き合って作れたのでうれしかったです。音楽に関しては周りにいるトッププレイヤーたちが絶対的にいいものを完成させてくれる自信があるので、普通のバンドだったらやりづらい音楽以外の側面のことを僕らならではのアプローチを考えるようにしていきたいなと。

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「Bon Dance」に込めた祈り

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