佐々木敦&南波一海の「聴くなら聞かねば!」 1回目 前編 [バックナンバー]
作詞家・児玉雨子とアイドルソングの歌詞を考える
メンバーにグループを背負わせすぎないように
2020年12月14日 19:00 57
構成
10代の頃は鉄の鎧をがっちり着こんでました
南波一海 今日は佐々木さん、児玉さんに聞きたいことがいっぱいあるんですよね。
児玉雨子 え! なんですか!?
佐々木敦 いや、児玉さんの書く歌詞があまりにも素晴らしくて……今、その昔、
児玉 いや、それは盛りすぎですよ!(笑)
佐々木 この発言を対談の冒頭に使ってもらいたいなと(笑)。
一同 あははは(笑)。
佐々木 それはともかく(笑)、今日は連載1回目のゲストに出ていただいて、ありがとうございます。はじめまして。
児玉 あっ、はじめまして(笑)。こちらこそありがとうございます。「ことばと」でもお世話になりました(佐々木が編集長を務める文学ムック「ことばと」vol.2の 企画「本がなければ生きていけない」に児玉がコラム「等身大九龍城」を寄稿)。
佐々木 南波くんに連絡先を聞いておそるおそる執筆を依頼したんですけど、まさか受けていただけるとは。すごくお忙しいと思うので。原稿も素晴らしかったです。
児玉 本棚を見せるという企画で。書けてうれしかったです。
佐々木 今日のために少し予習しまして、過去のインタビュー記事なんかで、雨子さんの歌詞のベースに文学が影響していることとか読んできたんですけど、なにぶんまだ、にわかの状態で……。
児玉・南波 にわか(笑)。
佐々木 南波くんは以前から昵懇だと思うけど、僕は今日が初対面なので。「ことばと」の件でメールでのやりとりはあったものの、距離感をどう取ればいいのかがわからないみたいな、そういう感じで今、すでに始まってるんですけど(笑)。
児玉 はい(笑)。
佐々木 で、これは児玉雨子ファン、南波一海ファンには周知の事実かと思いますが、雨子さんが作詞家として活動していくにあたって、南波くんが大きな役割を担っていたという。
児玉 そうなんですよ。雑誌に載るようなインタビューを最初にしてくださったのも南波さんですし、アップフロントの橋本(慎 / ディレクター)さんを紹介されたときも、南波さんが一緒にいらっしゃいましたし。めっちゃ恩人。
南波 やめてください(笑)。そんなに大したことをしたわけではないので。
佐々木 なんちゃんはどういうきっかけで雨子さんの存在を知ったの?
南波 そもそもは雨子さんが手がけたコピンク(静岡朝日テレビで放送されていた情報番組「コピンクス!」に登場するキャラクター。さる12月10日をもって
佐々木 それは曲を聴いてすぐに?
南波 そうです。それまでのポップソングで見たことのないような言葉遣いだったので。しかも歌詞を書いてるのが二十歳くらいの大学生だと聞いて、「この人はどういう人なんだろう?」って。その後どこかで挨拶したのかな。
児玉 佳林ちゃんが初めてコピンクとしてライブをしたときですね。
南波 そうだ、静岡で。
児玉 あの日は南波さんと、
南波 で、その後、取材させてもらったんですけど、あの頃の雨子さんは相当……。
児玉 鉄の鎧を着てましたね(笑)。当時18、19歳とかだったんで、今とは比べ物にならないくらい世界に対する疑問や不満を持っていて。あの頃が一番がっちり着込んでました。
南波 誌面に載らないような毒もバンバン吐くし、めちゃくちゃ面白かったです。
1年で歌詞が採用されるとか運がいいほうだなって
佐々木 じゃあ最初の出会いからインパクトが強かったんだ。
南波 そうなんです。その後、自分がハロプロ関連のイベントを渋谷のタワレコでやらせてもらったときに雨子さんが観に来てくれて。
児玉 あの日、知り合いの放送作家さんと渋谷を歩いてたら、その方がTwitterを見て「タワレコでスマイレージのイベントをやってるみたいだよ」って。その作家さんは以前、橋本さんとお仕事されていたそうで、「スマイレージって知ってる?」って聞かれたから、「デビュー曲は聴いたことあるかも」って答えて(笑)。それで会場に行ったら橋本さんを紹介されたんですけど、もう見た目がわかりやすいぐらい業界人で!(笑)
佐々木・南波 あははは(笑)。
児玉 「絶対この人、危ないじゃん!」と思ってたら、一番健全な人だった(笑)。悪い業界人のイメージってあるじゃないですか。女の子に手を出して、セクハラしてパワハラして、「俺たち徹夜で仕事やってるぜ!」みたいな(笑)。橋本さんも一見そういう感じなんですけど、実はコンプライアンスをバチ守りしてるっていう(笑)。
南波 当時つんく♂さんが体調を崩されていたこともあって、スタッフさんが新しい作家を探してた時期だったんですよね。
児玉 はい。それがきっかけでハロプロのお仕事をさせていただけるようになって。ただ、しばらくボツ時代が続いて、歌詞が正式に採用されるようになったのは1年後ぐらいでしたね。若いときの1年って長いから、ちょっとしんどかったりしたんですけど、でも1年で歌詞が採用されるとか、自分でも運がいいほうだなって思います。
南波 とはいえ、当時は二十歳そこそこだったわけですよね。
児玉 そうですね。
佐々木 以前も南波くんとの対談でそのことについて話したんだけど、新たなプロダクション体制を作るにあたって、ハロプロが児玉さんや星部ショウさんのような若い作家の方々にチャンスを与えたことが僕はすごく興味深いなと思ったんです。いろんな考え方があると思うけど、つんく♂さんと同じくらいとは言わないまでも、ある程度、知名度のある作家さんに仕事をお願いすることだってできたわけですよね。そのほうがある意味で安パイというか。
児玉 本当におっしゃる通りで、ハロプロが攻めの姿勢に転じてくれたのが私にとっても、すごくありがたいことでした。いいタイミングで声をかけてもらえるようになって。
「この寒波で生き残ったらこっちのもんや!」と思ってます
佐々木 僕はアイドル業界の外部にいる人間なので、どういうふうに楽曲が採用されているのかはわからないんですけど、端から見てもハロプロが攻めてる感じが伝わってきたんですよね。アイドルの曲って、レーベルなり事務所なりと付き合いの深い作家が書いてる印象があったんで。
児玉 確かに大手の事務所やレーベルだと、所属してる作家が曲を提供することが多いですよね。職業音楽作家の世界ってすごく村社会だし、基本はコンペ制で、私たち作家側は行き詰まると「リスナーが求める詞曲」ではなく「コンペに通る詞曲」を目指すほうに陥ってしまいがちなんです。アップフロントに関して言うと、作家の独自性を認めてくれるからうれしいですけどね。今、コロナ禍で音楽業界がヤバいみたいな雰囲気あるじゃないですか。実はそのマイナス面のツケを払ってる感があるなと思っています。
佐々木 既得権益的な。
児玉 そう、コロナの影響で既得権益的になっていたシステムが瓦解して。私、「ハロプロの歌詞を多く書いている」って紹介されることが多いんですけど、曲の数はアニソンとハロプロの楽曲が同じくらいなんですよ。
南波 ここ数年はハロプロ以外の仕事も幅広くやっていますもんね。
児玉 はい。アニソンとかキャラソンとか。
佐々木 最近だと雑誌「BRUTUS」の恋愛特集でも原稿を書いていましたよね。
児玉 はい。しかも「BRUTUS」では“エス(少女と少女の恋)”という、アイドルとは全然関係のないことを書いていて(笑)。このお仕事を始めたときから、特定の組織に依存しないでいようとは意識してたんです。依存するとお互い不健全な関係になるなと思って、常に“外部”の人でいようと。
佐々木 特定の組織に依存するというのは、いわゆる、お抱え作家みたいなことですよね。
児玉 あと、自分が書いた曲が売れることで、変に勘違いして承認欲求のパースがおかしくなっちゃう作家もいて。曲や歌詞のよさはあるとして、その曲がヒットした背景にはメンバーの努力だったり、レーベルの力もあるわけじゃないですか。それなのに、コンペに通った人が「あの曲書いたの俺 / 私だけど?」みたいな態度を取っちゃったり。
佐々木 そういうマウンティングの世界があるんですね。
児玉 そういう人たちを見て、ずっとモヤモヤしていました。「こいつら全員、足の小指タンスにぶつけろ!」とか(笑)。一方で、自分が「ハロプロの歌詞書いてますけど、何か?」みたいに、イキってないかも怖い。「持ちつ持たれつ」とは違う、そういった依存的な感覚が“普通”だったので。でも、“普通”という名の綻びがやっとなくなるんじゃないかと最近は思っていて。
佐々木 コロナ禍によって、アイドルのみならず音楽業界全体の護送船団方式みたいなシステムの形骸化が浮き彫りになったわけですよね。
児玉 どこか消耗戦みたいになってたじゃないですか。今はそれが健全になるタイミングなんじゃないかと思っていて。私、南波さんがアイドルレーベル(PENGUIN DISC)を作られたときのコンセプトがすごく好きです。「いつかアイドルシーンに冬の時代が来るから」っていう。
南波 そうそう。だからレーベルロゴでペンギンが身を寄せて抱き合っているっていう。
児玉 冬どころか大寒波が来ちゃったんですけど(笑)、でも私は勝手に「この寒波で生き残ったらこっちのもんや!」と思ってますよ。全部壊されたから、もう1回作り直せるんじゃないかなって。
関連記事
佐々木敦のほかの記事
リンク
水道橋博士 @s_hakase
作詞家・児玉雨子とアイドルソングの歌詞を考える | 佐々木敦&南波一海の「聴くなら聞かねば!」 1回目 前編 https://t.co/8WOmW5PrRN