10年前の今日、何をしていましたか? ~ 東日本大震災10年特集 音楽ナタリー編
新井ひとみ(東京女子流)、石田亜佑美(モーニング娘。'21)、菅真良(ARABAKI PROJECT代表)、橘花怜(いぎなり東北産)、本田康祐(OWV)が語る、あの日の記憶
2021年3月11日 14:46 122
菅真良(ARABAKI PROJECT代表 / GIP)
10年前の今日は、SING LIKE TALKINGの佐藤竹善さんの、仙台でのメディアキャンペーンの仕事中でした。
地震発生の直前、仙台市内定禅寺通りにあったエフエム仙台のサテライトスタジオにて、竹善さんが生放送番組のゲスト出演を終えました。乗り込んだタクシーではラジオ出演直後の番組が放送されていて、竹善さんの曲が流れていました。
しかしタクシーが出発してすぐに、車の中でも確認できるほど、大きく地面が揺れました。ラジオが緊急放送に切り替わり、放送を通じて、東北が震源地の大きな地震があったことを理解しました。
その後、僕は竹善さんと一緒に、竹善さんがインタビューを受ける予定だった河北新報社へ向かいましたが、もちろんインタビューは中止。
竹善さんが宿泊予定だったホテルは使用できなくなっていたため、僕はエフエム仙台に竹善さんを避難させていただくようお願いをし、そのあと自宅へ向かって家族の無事を確認しました。
その日は、車の中で過ごしました。
夜は星がとても綺麗であったことを、とてもよく覚えています。
翌日から、2011年の4月29、30日に開催を予定していた「ARABAKI ROCK FEST.11」を中止すべきか、GIPのスタッフのみんなと協議しました。津波で亡くなられている方々もきっといらっしゃることを思うととても悩みましたが、「2011年の特別なARABAKIを」と考え、その年の夏、8月27、28日に延期開催することを決断しました。
業務が通常に戻ったのは確か6月頃だったと思います。2011年にGIPが主催するコンサートは約700公演控えていましたが、このうち300公演ほどが中止に。そのほかの公演も、夏以降に延期したり、翌年に延期したりとさまざま対応をしました。
ARABAKIの延期開催に向けて準備を進めるうえで苦労したのは、被災地で必要とされていたため重機やプレハブ、仮設トイレなどが揃わなかったことです。楽屋などはテントを使用することを出演アーティストの皆さまにご理解いただきました。
8月のARABAKIは無事開催させることができましたが、チケットをお持ちでいながら、さまざまな事情で来場いただけなかった方や、中には亡くなられてしまった方もいらっしゃったと思います。10年経った今も、つらい気持ちになります。ただ、2011年にARABAKIを実施でき、たくさんの方々に喜んでいただけたと感じたことで、自分たちもたくさんエネルギーをいただけましたし、スタッフ一同とても強くなれた気がします。改めて、開催を続けてこれていることを感謝したいと思います。
震災から10年が経った今年、コロナ禍においてまた決断を迫られる事態となっていますが、10年前に決断をしたように「2021年の特別なARABAKI」の開催へ向けて、今、GIPのスタッフたちと一緒に準備しています。
感染対策を万全に、参加いただく皆様や川崎町、みちのく公園の皆様のご協力のもと、エンタテイメントが前進する開催となるよう、精一杯準備を進めて参ります。
プロフィール
菅真良(スガマサヨシ)
仙台を中心にコンサート制作等を手がける株式会社GIPの執行役員で、野外ロックフェス「ARABAKI ROCK FEST.」を企画するARABAKI PROJECTの代表。なお「ARABAKI ROCK FEST.」はもともと2021年に4DAYSで開催されることがアナウンスされていたが、コロナ禍での実施を踏まえて全面キャンプインフェスに内容を一新し、4月30日から5月2日にかけて3DAYSでの開催に変更となった。
橘花怜(いぎなり東北産)
あの日から、今日で10年が経ちました。
当時、私は小学1年生でした。
帰りの会をしているときに、急にものすごい音が聞こえて、立っていられないくらいの激しい地震が来て。崩れ落ちる物の音、泣き叫ぶ同級生、大丈夫だからねと必死に叫んでいる先生の声も全部怖くて、聞こえないようにひたすら泣き叫んでいました。
その日、外は雪でものすごく寒かったんです。橋が壊れて通行止めで、家族が迎えに来るのが難しくて。校庭にぱらぱらと限りなく落ちてくる雪を見上げて、どうしてこんなことをするんだろう、ってずっと考えていました。
みんな お迎えが来て帰っていく中、私は最後まで残っていて、不安そうな私の背中を先生がずっとぽんぽんってしてくれていました。先生の優しさと その手の冷たさが、胸をぎゅって締め付けたのを覚えています。
先生にお家まで送ってもらって帰ったけれど、お家は入れる状態じゃなくて。車の中で過ごしたあと、避難所でたくさんの方と一緒に生活していました。狭いところで、みんなでぎゅうぎゅうで雑魚寝して。そんな中でも、私は友達とずっと遊べたし、いつもと違うところに来たってことにちょっとドキドキしてたんですよね。だけど、そういう気持ちを持てたのって、きっと家族や大人の人たちががんばってくれていたからだと思います。
最初は、非日常に楽しさを感じていたけど、だんだん、家族があんまり笑わないこと、みんなが苦しそう、つらそうっていうのが読み取れてきて、それがすごく悲しくて。
そこから、私がみんなを笑顔にしたいって思うようになったんです。
しばらくして、お家に帰ったときは、ビニールシートだらけで、電気もなかったからすごく暗くて。
1本のロウソクで照らしながら入ってみたら、好きでずっと飾っていたお雛様がぐっちゃぐちゃになっていたり、ガラスの棚が真横に倒れて、床中が破片だらけで。壁には大きく亀裂が入っていました。
そんな姿にただ立ち尽くしていました。
だけど、割れたものとかを片付けたりしたあとには、そのお家に住んでいたし、家族もみんな無事で、津波が来ないところだったから親戚で亡くなった人もいなかったんです。
そんな中、私は震災の経験で「怖かった」って言ってもいいのかなって、何度も悩みました。私よりもっともっとつらい思いをした人がたくさんいて、今でもずっと苦しいって人がいっぱいいるのに、私なんかがつらいと言っていいのかなって。
でも、これ以上苦しんで、笑えなくなる人が増えてほしくない。生まれたからには笑っていたいし、みんなにも笑顔でいてほしい。そんな思いをずっと持っていました。
震災から少し経ったある日、家族の車に乗っているときに、初めてがれきを見たんです。ニュースとかでは見てたけど、実際に見ると、やっぱり衝撃が強くて。でも、そこで作業していた自衛隊さんが笑顔で私たちに手を振ってくれているのを見つけて、その笑顔にすごく心を奪われたんです。私も自衛隊に入ったら人を笑顔にできるかもって思って「入れますか?」って聞きに行ったんですけど「大きくなったら入ってね」って優しく言われて。
でも、どうしてもみんなのために何かしたかったんです。ある日、復興イベントに遊びに行ったときに、SCK GIRLSっていうボランティアアイドルグループに出会いました。
SCK GIRLSは、メンバー全員が震災を経験した地元の女の子たちで、被災地に笑顔を取り戻すためにボランティア活動をしているアイドルグループらしくて。そのアイドルのライブを観たら、メンバーたちがものすごく楽しそうに歌って踊っていて、それを観たお客さんもすごく楽しそうにしていたんです。
そして、アイドルが「そこのお店のたこ焼きが美味しいんです!」って紹介したら、紹介されたお店の人がすっごく喜んで、ライブ終わりにメンバー全員分のたこ焼きを差し入れしていて!
ありがとうねって嬉しそうにしていて、そういうのを見て「あ、見つけた」って思ったんです。私がずっとやりたかったことが 今、目の前で起こっていることに、すごくすごく胸が熱くなったのを覚えています。そしてすぐ、レッスンを見に行かせてもらってSCK GIRLSに加入したんです。
SCK GIRLSでは、復興メッセンジャーとして、復興イベントでパフォーマンスをしたり、震災のことを伝えるイベントに出演させていただいたりと活動していました。自分の歌やダンス、言葉で笑顔になってくれる人がいることに、胸がいっぱいになったことをよく覚えています。
そして、SCK GIRLSを作ってくれた阿部さんって人が、本当にすごい人だったんです。
どんなに大きい夢を語っても、じゃあ応援するよ!って言って、有り得ないパワーで背中を押してくれて。私も夢を持たせてもらいました。だけど阿部さんは、震災前から癌を患っていて、急に容態が悪化して亡くなってしまいました。それを知らされたときは、意味がわからなかったし、理解したくなくて。
ぽかんと頭に穴が空いたみたいな感覚でした。
だけど私たちの心の中ではずっと生きているし、私もあんな風に、人に夢を与えられる人になりたい。阿部さんの思いを途切れさせないようにつないでいきたいって、そのとき強く思いました。
今、私は、女川で復興ライブをしていたももクロさんに憧れ、同じ事務所の「
そして、アイドルになってからの8年間「東北から笑顔を届けたい」っていう私のモットーを変えずにここまで来ることができました。それがすごく嬉しいし、出会ってくれたすべての人に感謝の気持ちでいっぱいです。
この間も地震があったりして、あの日のことを思い出した人も少なくないんじゃないかなって思います。
私もその1人です。
私にできることは、まず自分が笑顔になってその笑顔の輪を広げていくこと。そして、あの日のことを伝え続けていくことかなって思います。
アイドルの活動をしていると、日本各地や海外からも応援してくださる方がいるんです。だから、活動をがんばればがんばるほど、たくさんの方とつながりができるのかなって思っていて。
つながりってすごく大事なものだと思うんです。どんなものよりも、みんなからの声が一番響くし、つながりがあれば、どこかの県や国で何かが起きたとき、私はすっごく心配になる。なんとなく心配するのと、本気で心配するのってパワーが違うと思うんです。
私は震災を経験して、たくさんの人から応援してもらいました。震災後、被災地にはたくさんの励ましのお手紙が届きました。そして、今はファンの方からお手紙をいただけることが多くて。そういうのって本当に力になるんですよね。“応援してくれてる人がいるんだ”ってわかることって、すっごい原動力になると思うんです。
アイドルって、人との心のつながりを大事にできる職業だと思います。これからも“アイドル”の橘花怜だからこそできることを、一生懸命続けていきます。
初心忘るべからず、これからもがんばっていきたいと思います。
プロフィール
橘花怜(タチバナカレン)
2003年生まれ、宮城県出身。スターダストプロモーションに所属する東北地方出身の女性タレントによるレッスン生グループ、いぎなり東北産に2015年に加入し、翌年からグループのリーダーを務めている。いぎなり東北産は2020年3月に1stアルバム「東北インバウンド」、10月にシングル「re;star」をリリース。
いぎなり東北産
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本田康祐(OWV)
10年前、僕は15歳で中学校の卒業式でした。
いつもなら友達と遊んで帰るのですが、なぜかその日はみんな遊ばずに帰りました。
家で兄弟とゲームをしていると、携帯から緊急地震速報が流れました。
初めて聴くその音に自分は恐怖心よりも好奇心の方が強く、兄弟と笑って「なんだこれ」と言い合っていました。
でもそのすぐあと、今まで体験したことのないような揺れが起こり始め、すぐにさっきの音がなんだったのか理解しました。
考えるよりも先に体が勝手に動いていて、とりあえず兄弟と一緒に家の扉をほとんど開けて、中にいた家族と無事一緒に外に出ました。
このとき初めて小中学校でやっていた避難訓練の大切さを実感しました。
外に出てもまだ揺れは続いていました。
止まっている車が激しく揺れ、建物のガラスが一気に割れ、家の塀などが道路に崩れ、車も走れない状態になっていました。
僕の家の中も食器棚などが全部倒れたり、いろいろなところが壊れたりしてしまいました。
本当に大変だったのはそれからで、道路陥没などによる食料調達の困難で、コンビニやスーパーなどから食材が消えてしまいました。
そして、原発の爆発や津波の様子がテレビで映されると、「これからどうなってしまうのだろう」と不安でいっぱいでした 。
それから10年。
あの日のことは3月11日になると、「3.11」という文字を見ると、必ず思い出します。
僕は18歳のときに東京に出てきて以来、福島にまだ何も恩返しができてないですが、福島で毎年行われる「福魂祭」という東日本大震災のイベントに、上京して初めて振付師として関わらせていただいたことがありました。
そのときに改めて、福島を盛り上げようと復興支援に励んでいる福島の方々や県外の方々などがたくさんいることを知りました。その方々を通じてこの震災の重大さを感じると同時に、年月が経った今でもまだ復興が行き届いていないところもあり、まだ仮設住宅で暮らしている方々がいる状況や実際に仮設住宅があるところを目の当たりにして、知らず知らずのうちに自分の中では落ち着いてきてしまっていたことが本当はまだこんなにも以前のままなのだと思い知りました。
風評被害も当時ほど酷いわけではないですが、やはり今でもまだ以前のようには受け入れられていないのかなと思うこともあります。
原発による風評被害が多かった高校生の頃、福島から新幹線に乗ったとき、自分の鞄が椅子に少し触れてしまっただけでバイ菌を触ったかのような目をされて目の前で拭かれたことは今でもよく覚えています。
ありえないようなことだと思う方もいるかもしれませんが、当時は本当にそれほど福島のイメージが悪くなってしまっていたのです。
それからは何か自分にできることはないのかと模索しながら活動をしていました。
“自分が有名になって絶対に福島のイメージをよくするんだ”と、“福島ってこんなに良いところなんだ”と伝えたいという思い、そして自分も何か復興の役に立ちたいという思いが強くなっていきました。
まだまだ自分にできることは微力でしかないですが、こうして今少しでも僕の書いた文章に目を留めてくださる方がいて、福島のことをもっと知ってもらえるのなら昔よりは自分も少し成長できたのかなと思います。
東日本大地震からもう10年だと思う方がいれば、まだ10年と思う方もいると思います。
ただ、10年という月日が経った今もまだ僕たちにやれることはたくさん残されています。
もちろんこれは福島だけではなくさまざまなところで被害に遭われた被災者の方々、被災地すべてにおいて言えることだと思います。
誰かが少しでも被災地のことを知り、小さくてもできることをするだけで、考えてくださるだけで、もう少しわかり合えたり支え合えたりできるんだと思います。
そして僕自身も、自分の地元であり大好きな福島のためにこれからも自分ができることを少しずつでもやっていけたらと思っています。
プロフィール
本田康祐(ホンダコウスケ)
1995年生まれ、福島県出身。オーディション番組「PRODUCE 101 JAPAN」でファイナリストに残り、同番組の元練習生たちと2020年に4人組グループ・
OWVオフィシャルサイト
本田康祐 kosuke honda (@honda_0411) | Twitter
コミックナタリー @comic_natalie
「10年前の今日、何をしていましたか?」企画は5つのナタリーを横断して展開中
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#東日本大震災から10年