V.A.「KANKYO ONGAKU: JAPANESE AMBIENT ENVIRONMENTAL & NEW AGE MUSIC 1980-90」ジャケット

国内で長らく“無視”されていた日本産アンビエント&ニューエイジが、今なぜ世界的に注目されているのか

“物質的”な面と“精神的”な面から分析する、環境音楽リバイバルの状況

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精神面から紐解くアンビエントミュージック ~ サウンドスケープという概念

さて、ここまで主に「レコードや楽曲の発掘」といった事柄を中心に“物質的”な面からこのリバイバル状況を振り返ってみたわけだが、以下からは視点を変えて、“精神的”な面における昨今の潮流についても考えてみたい。

まずはアンビエントについて。すでに述べた通り、現代音楽フィールドにおける理知的な思想性を孕んだ様態がアンビエントミュージックの本来の姿形だとすると、この間に見られるリバイバルは、その純粋性が長い曲折を経て再発見されることに至った現象としてみなすとわかりやすいかもしれない。もともとアンビエントミュージックは、日本でのその先駆者たる芦川聡や吉村弘が活躍した80年代当時は、主に“環境音楽”という呼び名で語られたものだった。

当時のムードをよく伝える重要な参考資料である書籍「波の記譜法 環境音楽とはなにか」(1986年 時事通信社)の序文によれば、すでに“環境音楽”の語は、イーノによって当初提唱されたコンセプトが徐々に漂白され、「その言葉の物珍しさやファッション性ばかりがさきばしり、ともすると『都市の新風俗現象』といったレッテルさえ貼られがちである」と記述されているように、当時からその思想的本質が一般にきちんと理解されていたとは言い難い状況だったようだ。ある種のアカデミックな難渋さゆえなのか、先駆者たちによって制作された音楽は、一般のポピュラー音楽ファンからの広範な関心を呼び集めることもなく、徐々に忘却され、歴史に埋もれていってしまったのだった。並行して、そのおだやかで柔和な“雰囲気”だけがニューエイジ的なるもの(例:ヒーリング音楽など)に借用され、陳腐化してしまったことが、本来の“環境音楽”から先鋭的リスナーを遠ざけるようになってしまった一因でもあろう。

しかしながら、そういった脱文脈化(陳腐化)から切り離された、外部者であるところの海外リスナーが“発見した”これら日本産環境音楽には、彼らにとって、むしろアンビエントミュージックが発生して以来の、ミニマリズム等に根ざした主知的コンセプトが純粋な形で息付いているように聞こえたのだった。スペンサー・ドーランは、2019年にVisible Cloaksの公演のために来日した際、音楽ライターの坂本哲哉氏によるインタビューでこう述べている。

(前略)日本ではミニマリズムという考え方を取り入れて、日本なりに発展させた結果として、アメリカのミニマリズムとはちょっと違う音楽が出来たんじゃないかな。僕なりに言わせてもられば、こっちの方が本当にミニマリズムを体現しているんじゃないか、という音楽を作っていたように思うよ。それが何なのかと言われると言葉を見つけづらいんだけど、“静けさ”がそれに当たるんじゃないかな。(中略)そういった、“静けさ”という考え方は僕らの文化圏ではさまざまなものを掘り下げないと見つからないものだと思うから、日本の環境音楽に触れたことで、音楽やアートに対してこんな見方があるんだという発見があった

(「ミュージック・マガジン」2019年10月号)

この“外部者”的視点から眺めてみたときこそ、リアルタイムでまとわされていたキッチュが剥奪され、音楽作品としての真価が立ち上がってきたということなのかもしれない。そしてその視点が、当時を知らない(あるいは知ろうとしなかった)我々日本国内のリスナーへ再帰することで、環境音楽という概念への正当な関心と、エレクトロニカやIDM等を通過した現代的な感覚でその音楽を賞味する態度が可能になったのではないだろうか。

なお、当時の日本における環境音楽の概念についてより深く知りたいという方は、前述の「波の記譜法 環境音楽とはなにか」や、吉村弘による著作「都市の音」(1990年 春秋社)などを紐解いてみてほしいが、このコンセプトが現在においても、いや、今だからこそさらに注目を集める可能性を秘めているということにも少し触れておこう。それは、ブライアン・イーノらと共に、環境音楽に大きな影響を与えたカナダの音楽家 / 教育者である(レーモンド・)マリー・シェーファーによる“サウンドスケープ”という概念を参照すると、理解しやすいだろう。

※動画は現在非公開です。

サウンドスケープとはどんなアイデアであるか簡単にまとめてみよう。

マリー・シェーファーによれば、それまで(70年代当時)音楽というものは、西洋クラシック音楽の発展に伴い、固定的な“作品”として主に劇場空間のみに押し込められてきたという。また、外界(=音楽作品をとりまく環境)と断絶した様態でばかり音楽が認識されるようになってしまったことが、音楽以外の音を感知する意識を鈍らせ、ひいては現代における騒音問題の蔓延と、それへのおざなりな対応を引き起こしているとする。それゆえサウンドスケープの思想では、旧来の内側へと閉じた音楽観を超えて、“音楽”を環境の中に生成する存在として捉え返し、そこで鳴っているさまざまな音(自然音や街の音など=音の風景)へ耳を開き、それとの双方向的な関係において音楽を位置付けようとする。このことは、環境に置かれている自己として研ぎ澄まされた聴取を誘発し、かつ、都市をはじめとした社会空間において、「音をデザインする」という環境調和的発想も喚起するだろう。ゆえにこうした発想法は、我々を包摂する環境と、従来の音環境を規定してきた抑圧的システムを批判的に捉え直す行為も誘い出す。例えば、エコロジー運動の思想と結び付くかもしれないし、あるいはまた、都市空間における生権力の拡張と人間疎外に細やかな視線を向け、ときにその硬直した状況を溶解させるような社会的思考を呼び起こすかもしれないのだ。

こういった問題意識は、インターネット空間の加速度的な洗練(とそれに伴う混乱)の裏面で、いわばハイパー都市化の進む現代において、我々生活者が再獲得しておきたい発想ツールだと言えるかもしれない。今切って落とされた“ウィズコロナ”時代の生活様式において、「新しい生活様式」といったスローガンのもと、さまざまな「見えない」社会規範が潜在的強制(矯正)として我々の身体を取り巻き始めている現在だからこそ、優れた環境音楽がそうさせるように、音を通じて環境とそれに包摂される私たちの微細な関係性に分け入らせ、さまざまな社会システムの自明化を批判的に捉え返すシャープな聴取意識(いわば「ディープリスニング」とでも言おうか)を目覚めさせることの価値が回帰しているのではないだろうか。

ニューエイジミュージックを面白がる危険性

次に、ニューエイジミュージックの復興についても“精神面”からその内奥に分け入ってみよう。前提として、すでに述べたようにニューエイジミュージックは、長らく“良心的”音楽リスナーから蔑ろにされてきたものだった。それをもっともダイナミックな価値逆転としてサルベージしたDJ文化を駆動していたのは、案外牧歌的な「誰にも注目されていないものをプレイしてやろう」という垂直的なモチベーションだったであろうこともすでに述べた。このような“無垢”は、それ自体リスニング感覚の変革という面においては確かに批評性を持っていたように思うし、だからこそ現在に続くドラスティックな「ニューエイジのクール化」が引き起こされたのだった。しかしながら、ここで今考えてみたいのは、その“クール化”におけるニューエイジミュージックの受容のされ方と、それに伴う“危険性”についてなのである。

過去に埋もれていた音楽を掘り返す場合、どうしてもそこにノスタルジー的な要素が入り込むことは避けがたいだろう。どんなにシビアなDJ的転覆意識をもっていたとしても、かつてさまざまなメディアや、カルチャーセンター、コミューン、宗教施設から漏れ伝わってきたニューエイジの抹香臭(=ある種のトラウマ)を遮断することはかなわない。というより、そうした根源的記憶(それは実際に個々人が体験したものでなくて、集団的記憶として社会に保存されている「未体験のノスタルジー」であってもいいだろう)の存在があってこそ、これを今プレイするのはアリなのかナシなのかという“綱渡り性”を経た上での意外性(=クールな選曲)が導き出されるのだから。

それでは、より突っ込んで、こうした“ノスタルジー”はいったいどこからやってきたのかを考えてみよう。この関連でどうしても触れないわけにはいかないのが、インターネット上を舞台として2010年代初頭から繰り広げられた異形的音楽・ヴェイパーウェイブの存在だろう。

80年代から90年代にかけて商用 / 実用に給されたコマーシャルなポップスやミューザック(イージーリスニング)、フュージョン、そしてニューエイジ音楽等をぶつ切りにつなぎ合わせた著作権無視のゲリラ的存在であったヴェイパーウェイブは、高度資本主義や消費社会の時代のサウンドトラックであった各種の“無価値な”音楽を、露悪的レディメイドというべきアティテュードで逆転的に作品化した突出例だったが、この諧謔的心性こそが、その“元ネタ”の1つでもあるオリジナルニューエイジミュージックを“心地よいもの”として(ニヒルにほくそ笑みながら)消費することを肯定させたように思う。要するに、ニューエイジリバイバルを駆動する視座には、原初的にこうした諧謔性が仕込まれており、それがために本来的な(オカルトのように神話的な)ニューエイジ的心性とは批判的な距離を確保しようとした運動だったように思うのだ。

しかしながら、昨今のニューエイジリバイバルにあっては、特にここ最近になって、そういった要素にもましてまず単純に「音楽としての心地よさ」や単に「瞑想性」が徐々に前景化しつつあるような印象もある。つまり、ニューエイジ的思想とは一線を画しながらそれを観察 / 聴取しようとする当初の相対主義的態度に対して、フィジカルな音楽的快感によってニューエイジミュージックへと没入するベクトルが伸長しつつあり、それらが常に危ういバランス感のもとでしなだれかかり合っているような状況なのだ。あるいは、仮に相対的な態度を確保しているつもりであっても、ニューエイジにおける“オカルト的”な要素を面白がるという態度が、例えばここ日本で新興宗教各派が世間一般に投げかけてくるさまざまなイメージをサブカルチャー的に消費するうちに、むしろオカルト的思想とサブカルチャー自体が近接し、のちには矛盾なく消費されていくという(オウム真理教へのサブカルチャーの眼差しがそうだったような)陳腐な事態へと行きあたる危険性も孕んでいるのではないだろうか。

どれほどの切迫度なのか測りかねる部分があるにせよ、ニューエイジリバイバル以降に登場した(オルタナティブを出自とするはずの)若手アーティストたちが、自らの音楽をニューエイジと明確に標榜し、瞑想などのニューエイジ的実践と屈託なく脈絡付けている例を見るにつけ、この微妙な“危うさ”に思いを馳せることになる。また、現在の新録ニューエイジシーンを牽引する存在である(名門レーベルStones Throw傘下の)Leaving Recordsを主宰するマシューデイヴィッドなどは、自ら確信的にニューエイジャーであることを宣言してもいる。

こうした状況を見ると、当初の諧謔的心性はとうに後景に遠のき、むしろ、現代の“生きづらさ”としての個人主義の漂流や、疎外された自己意識、資本主義の機能不全(オリジナルニューエイジはそもそも資本主義内部に深く包摂される運動なのだが……)などに対し緊急的な自己防御を企てるように、伝統的なニューエイジ的機能へ埋没していく中で、現在のリバイバルが現れてきたのではないかという気すらしてくるのだ。実のところ、こうしたニューエイジ的問題意識と、先述したような環境音楽にまつまる社会的意識を隔てるカーテンはごく薄く、その機能的な深部同士は触れ合っているとも考えうる。

現在のアメリカ映画に明るい人なら、アリ・アスター監督の「ミッドサマー」(2019年)や、デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督の「アンダー・ザ・シルバーレイク」(2018年)において、批判的諧謔性と拮抗するようにぶち撒けられている濃厚なニューエイジ的モチーフの“不気味さ”が、もしかしたらそうした“反動的な”心性とも共振しているかもしれないことも嗅ぎ取るかもしれない。

そういった意味で、現在のニューエイジリバイバルは、一部音楽マニアから投げかけられるように「ひと段落した」のでなく、まだまださまざまな局面の入り交じる過渡期的な状況にあると見ておくべきだろう。「KANKYO ONGAKU: JAPANESE AMBIENT ENVIRONMENTAL & NEW AGE MUSIC 1980-90」に収録された、宮下富実夫、伊藤詳、矢吹紫帆といった音楽家による国産ニューエイジの至宝を味わうにせよ、また筆者が提出した、実用ヒーリング音楽を「俗流アンビエント」というタームのもと“音楽的に”評価しようとする趨勢にしても、少なくともそこに流れている旧来からの抹香的なニューエイジ性へ無批判に没入しようとする前に、常に一歩立ち止まって逡巡する俯瞰的視座が不可欠であると考える。そのことは、アンビエントとニューエイジの成り立ちや機能を丁寧に論じ分けていく態度によっても醸成されるだろうし、そういった視座こそが、この間のアンビエント / ニューエイジリバイバルを一過性の繚乱から救い出し、それぞれの真価に分け入ってじっくりとその音楽を味わおうとするリスナーの楽しみにも寄与することになるだろう。

柴崎祐二

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