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98年当時の渋谷スクランブル。現在TSUTAYAが入っているビル「QFRONT」はまだ建設中だった。(photo by Geoffrey Silverton)

平成の音楽史 第2回 バックナンバー

マーケットの絶頂、“終わりの始まり”

1993年~98年 渋谷と団塊ジュニアとポストたち

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30年続いた平成の時代に音楽シーンは激変した。この先、音楽はどのように進化していくのだろう。2回目となる今回はCDがもっとも売れた1993~98年を取り上げる。その時代を紐解くキーワードは“渋谷”と、ポケベルやPHS、ケータイを持った新しい若者“団塊ジュニア”および“ポスト団塊ジュニア”たちだ。しかしその一方で95年にはWindows 95が発売される。その後の潮流を大きく変えていくネットの時代がすでに始まりつつあった。

文 / 大石始 編集 / 木下拓海 ヘッダ写真:Geoffrey Silverton

カラオケボックスをディスコ化したtrf

1990年代中盤から後半にかけての時期、時代の主導権を握ったのは、94年にTMNの活動を終了させた小室哲哉だった。小室の自伝「罪と音楽」によると、エイベックス・ディー・ディー株式会社(現在のエイベックス株式会社)の専務取締役だった松浦勝人と小室が出会ったのは92年。TMNのユーロビートのカバーアルバム「TETSUYA KOMURO PRESENTS TMN SONG MEETS DISCO STYLE」を同社が企画したことがきっかけだった。

松浦はオフィシャルブログ「仕事が遊びで遊びが仕事」で、こう振り返っている。

「僕は相変らずダンスミュージックに夢中で、当時流行していたユーロビートに関してはそれこそ日本一の知識があることを自負していた」

(松浦勝人オフィシャルブログ「仕事が遊びで遊びが仕事」)

松浦は小室という音楽パートナーを得たことにより、初の邦楽制作へと乗り出す。それが92年9月に結成され、翌年にデビューを飾ったtrf(現TRF)だった。

小室は94年12月号「月刊カドカワ」のインタビュー記事において、trfの戦略について「カラオケでディスコをやればいいんじゃないかと思ったわけです」と話したうえで、こう続ける。

「東京ではディスコは十二時で終わっちゃいますから、遊び足りない人はその後カラオケに流れる。もしそこで、ディスコ感覚が楽しめる曲があれば、リクエストするだろうと思ったんです。宴会の曲でもいいじゃないか、盛り上がるならそれでも成功じゃないか、日本版のレイヴって結局そんなところかなと落とし込んでいった部分もありますね」

(小室哲哉インタビュー、94年12月号「月刊カドカワ」)

80年代半ばにはカラオケボックスが全国的に広まり、ヒットを生み出すうえで見逃すことができない存在となっていたが、92年には「JOYSOUND」をはじめとする通信カラオケがスタート。よりダイレクトにマーケットとカラオケボックスが結び付くことになった。いち早くカラオケを意識した曲作りを推し進め、ZARDやT-BOLANをチャートに送り込んでいたビーイングをライバル視していた小室もまた、TMNの「Love Train」(91年)を皮切りにカラオケを意識した音楽作りへと移行する。単に歌うだけでなく、仲間たちと盛り上がることができて、ストレスを発散できる歌……そうした明確なビジョンを持った小室楽曲は、trfの「EZ DO DANCE」が大ヒットした93年以降、急速な勢いでチャートを席巻していく。

小室哲哉は“渋谷”を音楽にしていった

1994年から95年にかけては小室の楽曲がチャートを独占した。trfが94年5月の「survival dAnce ~no no cry more~」から5曲連続でミリオンヒットを飛ばす傍ら、篠原涼子 with t.komuro名義の「恋しさと せつなさと 心強さと」(94年7月)はダブルミリオンを達成。95年3月のH jungle with t「WOW WAR TONIGHT ~時には起こせよムーヴメント」のセールスも200万枚を超えた。小室はロサンゼルスの高級住宅地、マリブにテニスコートとプール付きの家を買うと、プライベートジェットで日本とアメリカを行き来するようになる。小室ファミリー全盛期である。

95年10月には安室奈美恵を初プロデュースした「Body Feels EXIT」がリリースされた。小室と安室のコンビは96年の「Don’t wanna cry」、さらには97年の「CAN YOU CELEBRATE?」という特大ヒットを放っていく。小室は先述の著書「罪と音楽」において、当時を振り返ってこう書き記している。

「女性シンガーの曲に詞を書くとき、たいてい渋谷を意識した。渋谷で起きているような、もしくは起きていそうな恋愛、渋谷に似合う言葉、渋谷の香りなど、渋谷を歩いて五感で感じるすべてを忘れないよう心がけた」

(小室哲哉「罪と罰」)

小室が“渋谷を歩く10代女子像”を最初に投影したのが安室だったことは言うまでもない。安室の楽曲はポスト団塊ジュニア世代の女子から熱狂的に受け入れられ、彼女のファッションを模倣した“アムラー”たちをも大量に生み出した。

どこかに喪失感を抱えた10代の女子たち。安室は彼女たちのアイコンとなったわけだが、安室と時を同じくして華原朋美が、2001年頃には浜崎あゆみが、2006年頃には倖田來未がその座に収まることになる。また、その後登場する西野カナや加藤ミリヤらによる“ギャル演歌的文脈”をここに接続することもできるだろう。2000年代以降のある傾向の源流を、小室と安室コンビに見ることができるわけだ。

ヴィジュアル系がメジャーシーンへ

前回の本連載でも触れたように、平成最初の数年間はプリンセス プリンセスやREBECCA、THE BLUE HEARTSなどのロックバンドが次々にチャートへ進出した時代でもあった。バブル崩壊以降、そこに新たなる装いのバンドたちが加わることになる。それがX(現X JAPAN)以降のヴィジュアル系(V系)バンドだ。

市川哲史と藤谷千明の共著「すべての道はV系へ通ず。」によると、V系というジャンルが世に認知されるようになったのは1990年前後。彼らの総本山となる雑誌「SHOXX」が90年10月に創刊され、ニューウェイブ / ポストパンク系雑誌だった「FOOL’S MATE」がV系に衣替えした頃のことだ。

それまで彼らは“黒服系”“お化粧バンド(オケバン)”と呼ばれていた。92年にはLUNA SEAが、94年にはGLAYや黒夢がメジャーデビュー。97年にはSHAZNAが大ブレイクすると、その年の新語・流行語大賞にヴィジュアル系がノミネートされた。ただし、その胎動は平成初期の段階からアンダーグラウンドなライブハウスシーンにおいて始まっていたのである。

【下の動画は97年8月リリースGLAY 「HOWEVER」。このMVには当時の街の風景も盛り込まれ、時代の空気感が伝わってくる。】

なお90年代当時、V系バンドの多くは音楽ジャーナリズムの世界においてイロモノ扱いされる傾向にあったが、近年では世界的にも知られるようになった。それどころか、アニソンと共に“ジャパニーズミュージック”の代名詞ともなっている。平成の音楽史を振り返るうえで、V系の背景や文化的な意義については今一度再考されるべきだろう。

97年の絶頂と“終わりの始まり”

CDというニューメディアの登場によって規模を拡大させてきた音楽マーケットの売り上げ規模が頂点に達したのは1997年のことだ。一般社団法人日本レコード協会の調査によると、この年のCDやカセットテープなどすべてを含めた売上枚数は実に4億8000万枚。平成元年にあたる89年が2億7000枚だったことを考えると、わずか8年で1.7倍の規模に膨れ上がったわけだ。

その背景の1つとして、平成最初の時期にバンドブームを支えた団塊ジュニア世代が社会人になり、消費の中心になったことが挙げられる。人口が多く分厚い購買層を背景に、アンダーグラウンドなムーブメントがメジャー化する現象も見られるようになった。90年代後半から爆発的に広まった“日本語ラップ”もその1つと言えるだろう。

【下の動画はECDが中心となって東京・日比谷野音で96年に開催した、日本語ラップ史上最大規模イベント「さんピンCAMP」。】

また80年代後半から90年前後にかけては渋谷のレコードショップが大いに賑わい、フリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴらのブレイクの下地を築いたが、(その定義は非常に曖昧なものではあるが)“渋谷系”と呼ばれることになるそのムーブメントの中心となったのも日本語ラップの担い手とほぼ同世代だった。

98年にはGLAY「誘惑」(161万枚)をはじめとして、14曲のミリオンヒットが誕生。加えて空前のベストアルバムブームが巻き起こり、B’zによる2枚のベストアルバム「B’z The Best "Pleasure”」「B'z The Best "Treasure”」は合わせて1000万枚近いセールスを記録した。ただし、99年度版のオリコン年鑑では、98年度のマーケットの動向について「CDシングルのソフトとしての行き詰まり」を指摘したうえで、こう総括している。

「90年代初頭、シングルはCDの普及とタイアップ契機がタイミングよく重なり、音楽市場を活性化させてきた。さらにカラオケ人気を迎えたことで、音楽をより身近に楽しめるようになり、時代の流れを大きく変える有望ソフトといわれてきた。しかし、ここ数年は日本を急激に襲った不況の波と消費者のライフスタイルおよび趣味の多様化ですっかり、CDシングルに対する興味と魅力が半減してしまったようだ」

(「オリコン年鑑 1999年度版」)

この総括は、いわば“終わりの始まり”を予言するものでもある。実際、“不況の波と消費者のライフスタイルおよび趣味の多様化”を前にして、マーケットは年々縮小していくことになる。また、98年のシングル売り上げ上位30位には、前年まで好調を維持してきた小室哲哉のプロデュース曲は1曲もランクインすることがなかった。20世紀も残り2年、音楽の世界も時代の分岐点を迎えつつあった。

<つづく>

平成の音楽史

大石始

日本の祝祭とアジアを中心とする各地の地域文化を追いかけるライター。旅と祭りの編集プロダクション「B.O.N」主宰。著書・編著書に「ニッポンのマツリズム」「ニッポン大音頭時代」「大韓ロック探訪記」「GLOCAL BEATS」「関東ラガマフィン」など。サイゾー、mysound、Mikikiで連載中。

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