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宮崎駿が高畑勲に別れの言葉捧ぐ「僕らは精一杯あのとき生きたんだ」

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「高畑 勲 お別れの会」の様子。

「高畑 勲 お別れの会」の様子。

4月5日に82歳で永眠した高畑勲をしのぶ「高畑 勲 お別れの会」が、本日5月15日に東京・三鷹の森ジブリ美術館で行われ、宮崎駿が開会の辞として別れの言葉を捧げた。

1935年に三重県に生まれた高畑は、東京大学仏文学科を卒業後、東映動画(現:東映アニメーション)に入社し、演出助手などを経て「太陽の王子 ホルスの大冒険」で映画監督デビュー。宮崎とは「パンダコパンダ」「アルプスの少女ハイジ」といった1970年代を代表するアニメ作品を生み出した。

別れの言葉で宮崎は、高畑のあだ名である“パクさん”の由来やたばこをやめるよう説得した話をした後、東映動画時代を回想。宮崎は1963年に高畑と初めて出会った黄昏時の練馬行きのバス停での出会いを「雨上がりの水たまりの残る通りを1人の青年が近付いてきた。穏やかでかしこそうな青年の顔が目の前にあった。それがパクさんに出会った瞬間だった。今でもあのときのパクさんの顔をありありと思い出せる」と振り返る。

高畑が副委員長、宮崎が書記長を務めた東映動画労働組合の運動が加熱していた時期には組合の事務所であるプレハブ小屋に泊まり込んで、高畑とありとあらゆることを語り合ったという。「緊張で吐き気に苦しむような日々が始まった。僕らは仕事に満足していなかった。もっと遠くへ。もっと深く。誇りを持てる仕事をしたかった。パクさんの教養は圧倒的だった。僕は得難い人に巡り会えたのだとうれしかった」と語る。ときに涙ぐみ言葉を詰まらせる一幕も。

「太陽の王子 ホルスの大冒険」の制作時には作画監督を務めた大塚康生の自宅で会議を重ねたと話す宮崎は、「意思統一というより反乱の宣言のような秘密の談合であった」と述懐。宮崎が「会社全体を巻き込む事件になった」と語るほど映画の制作は難航した。宮崎は「初号試写を観終えたとき僕は動けなかった。感動ではなく、驚愕にたたきのめされていた。森康二さんが作画した迷いの森のヒルダのシーンはなんという圧倒的表現であったろう。なんという優しさだったろう。これをパクさんは表現したかったんだと初めてわかった」と涙ながらに語る。

公開から30年以上経ったときに高畑発案で「太陽の王子 ホルスの大冒険」の関係者が集まる会も行われたという。「『太陽の王子』の興行は振るわなかったが、もう誰もそんなことを気にしていなかった。パクさん。僕らは精一杯あのとき生きたんだ。ひざを折らなかったパクさんの姿勢は僕らのためだったんだ。僕はこの作品で仕事を覚えたんだ。ありがとう。パクさん。55年前にあの雨上がりのバス停で声をかけてくれたことを忘れない」と締めくくった。

映画ナタリーでは追って「高畑 勲 お別れの会」全体の模様もレポートする。

※記事初出時より、写真5枚追加しました。

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