「花緑青が明ける日に」特集 | 監督・四宮義俊×「映像研には手を出すな!」大童澄瞳が“絵描き談義”、こだわり抜かれた色彩美に感嘆

「君の名は。」「この世界の片隅に」などに参加したことで知られる日本画家・四宮義俊による長編アニメーション映画「花緑青が明ける日に」が、3月6日に公開される。

本作は、立ち退きを迫られる花火工場・帯刀煙火店を舞台に、幻の花火“シュハリ”と若者たちの未来、失われゆく居場所をめぐる2日間を描く物語。萩原利久が消えた父に代わってシュハリを完成させようと奮闘する帯刀敬太郎、古川琴音が敬太郎と4年ぶりの再会を果たす幼なじみの式森カオルに声を当て、ダブル主演を務めた。入野自由が敬太郎の兄で市役所に勤める“チッチ”こと千太郎、岡部たかしが敬太郎の父・榮太郎を演じている。

フランスの気鋭スタジオMiyu Productionsと日仏共同製作された本作は、2024年に第77回カンヌ国際映画祭のアヌシー・アニメーションショーケースに選出。第76回ベルリン国際映画祭ではコンペティション部門に正式出品された。ストップモーションアニメーションやマルチプレーンカメラを使った特殊シーンが用いられたほか、四宮による“日本画的アプローチ”で唯一無二の映像表現が生み出された。

映画ナタリーでは四宮と「映像研には手を出すな!」で知られるマンガ家・大童澄瞳の対談をセッティング。ともに美術学校出身であり「絵を描くこと」で作品を生み出してきた2人に、本作の見どころをたっぷりと語ってもらった。また「爆発」に魅せられた業(ごう)、日本画とアニメの境界線、そしてクリエイターだけが共有する「嫉妬」まで、予定時間を超えて白熱した濃密すぎる“絵描き談義”をお届けする。

取材・文 / 岡本大介撮影 / 清水純一

映画「花緑青が明ける日に」予告編公開中

「悔しいから、見れない」クリエイターの嫉妬

──お二人はともに美術学校の絵画科出身ということで、共通のバックボーンをお持ちです。本日が初対面となりますが、お互いの作品の印象からお聞かせいただけますか?

四宮義俊 正直に白状しますと……「映像研には手を出すな!」が話題になったとき、僕は見ることができなかったんですよね。

大童澄瞳 はい(笑)。

──それはまた、どうしてですか?

四宮 なんて言うんでしょう、「自分を照射されている」ような感覚があって、反射的に距離を取りたくなってしまったんです。描かれているのがクリエイターの“初期衝動”そのものだから、今の自分が見ると恥ずかしいというか……。すごく気にはなっているのに、なかなか直視できないまま今に至りました(笑)。自分が好きだった大事なものを先に取られてしまったような、そんな悔しさもありましたね。

大童 その感覚は僕も痛いほどわかります。つまり、表現者同士の“お互い様”の部分ですよね。

左から大童澄瞳、四宮義俊

左から大童澄瞳、四宮義俊

四宮 そうなんです。大童さんにもありますか?

大童 あります。僕もアニメーションは大好きなんですけど、あまりに素晴らしい映像に出会うと直視できない瞬間があるんです。そうですね……例えば、現実ですさまじい爆発事故や火山の噴火映像を見たとき、不謹慎ながらも「これをアニメで描くなら、この爆発のこの動きをもっと際立たせて抽出すれば面白い表現になるのでは?」というような衝動が湧くことがあって。でも、すでに誰かがそれを完璧に描いているのを見てしまったら、「あ、これ知ってる。やられたな」って。自分が描きたかった“核”を先に突かれてしまった敗北感というか。

四宮 (笑)。よくわかります。それで言うと「映像研」が特にすごいのは、現実の災害や事故のような事象を、メタ構造として物語に取り込んでしまう“器用さ”があることですよね。僕にはその器用さがないので、例えば“爆発”1つ描くにも、そこに社会性というか言い訳のようなものがないと描けないんです。今回の映画の題材である花火にしても、筒から出る瞬間は戦車の大砲と同じ爆発現象ですから。それが平和利用か戦争利用かという文脈の違いでしかないわけです。大童さんが先ほどあえて爆発を例に挙げられたことに、表現者としての業(ごう)のようなものを感じて、内心震えました(笑)。

「花緑青が明ける日に」場面カット

「花緑青が明ける日に」場面カット

大童 僕も一瞬、言いよどんだんですよ。でも花火を爆発として語らないと誤魔化しになる気がして。それは人を不幸にする現象でもあるけれど、物理的な動きとしては圧倒的に美しくもある。表現者としては、その両義性を抱えたまま、常にブレーキとアクセルの踏み間違いを恐れながらやっている感覚ですよね。

四宮 10年、20年と絵を描いてきて、無秩序にものを作ることへの罪悪感みたいなものがあるんです。自分の表現に何か有用なものがないと地球環境が許してくれないんじゃないか、みたいな(笑)。とくに映画館という空間は特殊だと思うんです。光と音で、擬似的に観客を揺さぶることができる。ドーン!という轟音で体が震えたとき、その振動が直接伝わる。感動なのか、吊り橋効果的な恐怖なのかにかかわらず、人間は根源的に“生命感”のようなものを感じてしまう気がしています。

大童 今回の映画は、まさにその音がすごかったです。BGMの中に花火の発射音のような「プッ」という音が組み込まれていて、無音からバツッと音が入り込んでくる演出にはしびれました。「これだ!」って。

「花緑青が明ける日に」場面カット

「花緑青が明ける日に」場面カット

四宮 ありがとうございます。ただそれでも、現実の花火の威力にはどうやっても勝てないんですよね。取材で花火師さんの現場に行かせてもらったとき、それなりに離れた場所から尺玉(約30cmの大きさの花火玉)が上がるのを見せていただいたんですけど、あまりの迫力に体がすくんで動けなくなりました。「戦車の大砲が来たら避ければいい」なんていう子供じみた発想が吹き飛ぶくらい、本能的な恐怖を感じました。

──劇中の花火シーンは、まさに“恐怖”と“美しさ”が同居していたような気がします。

四宮 そうですね。花火って、英語だと「Firework」で「火の仕事」ですけど、日本語だと「花」という字が入る。泥の中から蓮の花が咲くように、有象無象がぐちゃぐちゃになった場所から美しいものが生まれるという感覚はすごく日本的で、だからこそ、ただきれいなだけじゃない、“破壊”としてのリアリティが必要だったんです。

「RGBの限界」を超えた色彩

大童 映像のルックについても、すごく新鮮でした。色が混ざり合っていて、境界線が明確じゃない。僕の好みとして、カットされた宝石のような明瞭なきれいさよりも、原石のザラつきやテクスチャーを感じるものが好きなんです。この映画はまさにそうで、アニメーション特有のツルッとした感じがない。

「花緑青が明ける日に」場面カット

「花緑青が明ける日に」場面カット

四宮 今のアニメ制作は、最終的に「After Effects」というソフトでコンポジット(合成・調整)するんですが、どうしてもRGB(光の三原色)の色域の中で均質化されてしまうんです。「夜の青といえばこれだよね」という、アニメ業界の長年の蓄積によって、洗練された“正解”の色に収束していってしまう。

大童 わかります。撮影処理でフィルタを掛けると、一気に「商業アニメっぽい本物感」が出るんですよね。でも、それって本当は変なことで。作家ごとの個性があるはずなのに、ツールを通すとみんな同じようなリッチな画面になってしまう。

四宮 その均質化を避けるために、色彩設計が重要になってくるのでプロデューサーに「色は僕がやります」と宣言して(笑)。作画や美術がどんなにすごくても、画面が暗すぎて見えなかったり、お互いが相殺されてしまったら意味がない。自然と人工物の境界線をどう描くか、そこは日本美術的なアプローチで色を置いていきました。

「花緑青が明ける日に」場面カット

「花緑青が明ける日に」場面カット

──本作のタイトルにもなっている「花緑青(はなろくしょう)」(※燃やすと青くなる緑色の顔料)という色も印象的です。

四宮 花緑青は、明治期には使われていた人工顔料で、つまりは伝統的な日本画の絵具です。毒性があって今はほとんど使われないんですが、僕がこの色を知ったきっかけが少し特殊で。大学に入った頃、和歌山毒物カレー事件があったんです。

大童 よく覚えている事件です。

四宮 その捜査の一環で、警察が大学の研究室に調査に来たんですよ。「ここに毒物のヒ素がある」って。そのときに大学に保管されていたのが、まさに花緑青だったんです。だから最初は「怖い色」というイメージしかなくて。

四宮義俊

四宮義俊

大童 まさかの出会いですね。

四宮 そう。でも今回、取材した花火屋さんで「昔はハナロク(花緑青)を使っていた」という話を聞いて、点と点がつながりました。僕が画材として知っていた色と、花火の炎色反応に使われていた色がまったく同じだったんです。

大童 僕もこの映画で、炎上する炎の中に緑青(ろくしょう)のような、酸化した銅の色が混ざっているのを見て「ああ、きれいだな」と思いました。あの色は、カラーを勉強中の僕には間違いなく出せないし、そもそも思い付きません(笑)。

四宮 これはまさに酸化した銅の色なんです。それを見つけたときに「あ、僕はこれを表現しなきゃいけないんだな」と覚悟が決まった気がしました。もちろん、それがこの映画のタイトルになるなんて、そのときは思ってもいませんでしたけど。