イラスト / 徳永明子

映画と働く 第7回 [バックナンバー]

アクション監督:谷垣健治(前編)「香港映画の現場を見て『この中にいたい』と思った」

ジャッキー・チェン好きの少年が単身香港へ移住し、大ヒットシリーズ「るろうに剣心」のキーパーソンになるまで

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1本の映画が作られ、観客のもとに届けられる過程には、監督やキャストだけでなくさまざまな業種のプロフェッショナルが関わっている。連載コラム「映画と働く」では、映画業界で働く人に話を聞き、その仕事に懸ける思いやこだわりを紐解いていく。

第7回となる今回は「るろうに剣心」シリーズやドニー・イェン作品への参加で知られ、世界で活躍するアクション監督・谷垣健治にインタビュー。ジャッキー・チェンの「スネーキーモンキー/蛇拳」で映画に目覚め、単身香港に住み始めた経緯や、「るろうに剣心」での監督・大友啓史とのタッグについて聞いた。後半には、監督として携わった「燃えよデブゴン/TOKYO MISSION」でのドニー・イェンからの“無茶振り”も明らかに。なお今回は、前後編の2回にわたってお送りする。「るろうに剣心」主演の佐藤健との思い出や、谷垣が今後の日本アクション業界について語る後編は、近日公開予定(参照:アクション監督:谷垣健治(後編)「安全な現場で危なく見える映像を」)。

取材・/ 浅見みなほ 写真 / 金須晶子 題字イラスト / 徳永明子

谷垣健治による手書きの履歴書。

谷垣健治による手書きの履歴書。

体は弱いが、我慢強い子供だった

──前半では、谷垣健治さんがアクション監督になるまでの経緯を伺えればと思います。まず、以前Twitterにお写真をアップされていた幼少期のお話から伺えますか。

はい。体が弱かったので、引っ込み思案な子でしたね。1歳半と3歳のときにひきつけを起こしたりしていたので、あまり過激な運動はさせてもらえなかったです。

幼少期の谷垣健治。

幼少期の谷垣健治。

──ただ、お写真ではブランコや高い木の上に登っていましたよね。当時からかなりの身体能力だったのではないかと思うのですが……運動神経がいいという自覚はあったんですか?

ありません! 奈良県で育ったので周りに山や木がたくさんあって、木登りとかは得意でしたけどね。高いところに登ったり、そこから飛び降りることが好きだったので、自然とそういう筋力が付いたのかもしれません。あと「自分は我慢強いな」とは思っていました。擦り傷ができても全然平気だし、同級生とふざけていてケガしたときでも、相手を心配させないようにすぐに「大丈夫大丈夫!」と返すくらい。スタントマンになってからも、危ないアクションの直後はカットがかかってすぐ「大丈夫です!」って言うので、通ずるところがあるかもしれません(笑)。

香港映画の現場を見て「自分もこの中にいたい」と思った

──履歴書で“人生の1本”に挙げていただいた「スネーキーモンキー/蛇拳」は、そんな小学生の頃に観たわけですね。

小学校5年生のときですね。テレビで観て、翌日にはクラスのみんながマネしてました。その頃の僕は、ただただジャッキー・チェンになりたかった(笑)。「蛇拳」は動きがマネしやすかったし、できない主人公が特訓を重ねてできるようになるというストーリーのおかげで、その気になれた部分もあると思います。最初に観た映画が「ラッシュアワー」だったらちょっと違ったかもしれないですね。そして、僕らもジャッキー映画の変遷とともに変化していったんですよ。例えば、「ドラゴンロード」からは、従来の野原での決闘から進化して、小屋のような空間を立体的に使って演出するようになったんですね。当時のパンフレットにも「ジャッキーはハロルド・ロイドやダグラス・フェアバンクス、(バスター・)キートンの作風をいつの間に身につけたのだろう」というようなことが書かれていて、「キートンって誰だ? ロイドって誰だ?」って、自分の中での興味とともにいろんなものに手を付けていきました。

谷垣健治

谷垣健治

──劇中世界への憧れが、映画作りへの憧れに変わったきっかけは覚えていますか?

最初は「バック宙したい」みたいなフィジカルなものへの憧れが強くて。でもいつか香港映画の現場を見てみたいと思い始めて、18歳のとき初めての海外旅行で香港に行きました。それでジャッキーの事務所に行ったら「今日はここで撮影してる」って紙に書いて教えてくれたんです。ショウ・ブラザーズの山の中のスタジオにものすごいセットを建てて「奇蹟(ミラクル)」という映画を撮影していて、ステディカムとかリモートアームで動くカメラクレーンのような当時の最新技術を目の当たりにしました。香港映画ってすごいんだなと思いましたね。結局一晩中撮影現場を見学させてもらいました。「次のカットはこっち向きだから、見学の人たちはあっちに避けてー」って感じで。弁当も昼、晩、夜食と食べさせてもらって(笑)。

──ファンへのサービスがすごいですね!

ですよね。その体験が衝撃的で「どんなポジションでもいいから自分もこの中にいたい!」と強く感じたわけです。日本に帰ったら、倉田アクションクラブ(※香港でも活躍する俳優の倉田保昭が設立したアクション俳優養成所)が「君も香港映画に出ないか」というキャッチコピーで養成所の生徒を募集していたので、ここが一番香港に近いと思って、1989年の4月に大阪支部に入所しました。スタントマンというよりアクション俳優の養成所みたいな感じでしたね。ほぼ同期で一緒に練習していたのは「GANTZ」「キングダム」の下村(勇二)くんとか、「孤狼の血」や「ひとよ」のような芝居寄りのアクションで引っ張りだこの吉田浩之さんがいて。みんなで、「このスタントどうやってるんだろう?」ってビデオテープを何度も巻き戻して観たり、映画の情報を交換して「『タイガー・コネクション』って映画のドニー・イェン、あれスッゲーよな!」みたく盛り上がって、みんなで毎週練習していました。

──今日本アクション界で活躍されている方々との人脈が、そこでできたんですね。

それぞれが自分の方法でこの世界に残って独自のキャリアを重ねていったという感じですね。当時は「鬼平犯科帳」などの京都の時代劇の現場が多かったので、あんまり普段練習しているようなアクションを発揮できるジャンルじゃなくて、いつ頃からか僕は密かに「香港に行かなきゃ駄目だな」と感じるようになっていました。こう言ってしまうと突飛に聞こえるかもしれないですが、野球選手がメジャーリーグに挑戦したり、サッカー選手がヨーロッパに行ったりする感覚に近いと思います。たまたま僕にとってはそれが香港だった、ということです。

広東語を覚えるために、マクドナルドでめちゃくちゃ人に話しかけた

──そんな思いから、履歴書にあるように“勝手に香港に住み始める”のですか?

はい。今考えると香港の人たちは、僕らのような“よそ者”に優しかったと思います。1回受け入れてもらえたら、身内意識を強く持ってもらえるようなところなんですよね。

──言葉もわからない状況で住み始めるという決断に驚きました。

広東語を覚えるために、マクドナルドで子供やおじいちゃんにめちゃくちゃ話しかけましたね(笑)。生活がかかっていて、しゃべれないと生きていけない状況になったら、案外すぐできるようになりますよ。日常会話は2カ月くらいでできるようになりました。英語の5W1Hにあたる疑問詞とよく使う名詞を覚えたら、だいたい通じるようになりますし。

──最初に覚えた言葉はなんでしたか?

「本当?」って意味の「ハイメ?」ですね。それを覚えておくと相槌が打ちやすくなるんですよ(笑)。相槌を打つと相手がどんどんしゃべってくれるから、その間に「何言ってるのかな?」って想像するんです。逆に大変だったのは、現場で使う動詞。「避ける」とか「受ける」とか「ウィービング(※パンチをくぐって避ける動作)する」とかという広東語は、なかなか日常会話でも出てこないじゃないですか。あるとき現場でアクション監督から「お前ナントカできるか?」って聞かれて、技の名前なんだろうなと思いつつも僕には意味がわからなかったんです。で、「お前はもういい」と言われてほかの人がやっているのを見たら、「バック宙崩れ」っていう僕の得意技だったんですよ。言葉がわからないと、それは“できないやつ”になってしまうわけで。ただ漢字で覚えられる分、アメリカから来ているスタントマンよりは有利だったと思います。そうやって覚えたもんだから香港人よりも、僕のほうが漢字表記には詳しいくらいですよ(笑)。

──次の転機は香港のスタントマン協会に入ったときだそうですね。日本人がその協会に入るのは、谷垣さんが初めてだったと思うのですが。

一番大きいのは、入ることによってスタントマンとしてのギャラが保障されるということです。それまでは日当200HKドル(約2800円)くらいのエキストラでしたが、9時間1400HKドル(約1万9600円)のスタントマンになれる。吹き替えをしたら倍もらえるし、オーバータイムの手当もつくようになりました。そういう意味では「ここからスタントマンになりました」と言える転機だったと思います。本当はアクション監督3人の推薦が必要なんですけど、トン・ワイっていうアクション監督が推薦してくれて、裏口入学みたいな形で入れてもらいました(笑)。

──トン・ワイといえば、「燃えよドラゴン」でブルース・リー演じる主人公に、「考えるな、感じろ」と言って頭をはたかれていた少年役でもおなじみですね。協会に入ってギャラが上がったことによって、生活も安定したのでしょうか?

僕が勝手に香港に住み始めたのが1993年6月6日で、協会に入ったのが1994年の6月5日。僕はそもそもすごく安い部屋に住んでいたので、その点は得していたんですよ。本当は香港人しか住んじゃいけない公共住宅だったので(笑)。生活がなんとかなると思えたのは1995年くらいからですかね。単発仕事じゃなくて、1本の映画にレギュラーとして常駐できるようになったので。

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ドイツで「アクション監督もやってくれ」と言われ

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谷垣健治 @KenjiTanigaki

映画ナタリーの「映画と働く」で取り上げてもらいましたが、よい子はマネしないように!笑

https://t.co/vH68JnAlt6

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