受賞の連絡を電話で受けたという仁左衛門は「『え!?』と思い、有頂天になって『ありがとうございます。お受けします』とお返事しました。仏壇に向かい、父や亡くなった兄弟たちに報告しながら、『落ち着いて考えると、私には大きすぎる賞ではないかなあ』とも思った。しかし私の子孫への置き土産ができてありがたい」と破顔一笑。「こういう(歌舞伎の)家に生まれ、自分が好きでやってきたことで評価していただき本当に幸せ。文化勲章の“質”を落とさないよう、より多くの方に歌舞伎に親しんでもらえるように今後も精進しなければならない」と心境を語る。
「何が評価されて受賞に至ったと思うか」という質問に、仁左衛門は「自分ではわからない(笑)。もっと胸を張って喜べたら良いんだけど、なんだか照れくさいですよ」とはにかむ。また印象深かった自身の出演作を3つ挙げるよう求められた仁左衛門は「1つは『女殺油地獄』。私の出世作と言われていますし、スタート地点となった舞台です。2つ目は、華奢な私に線の太い役を付けていただいた『義賢最期』ですね。……このまま作品を挙げていく3つに収まらないから、この辺でやめておきましょうか」と笑い交じりに言い、記者を笑わせた。
「芸の道を歩む中で、最もうれしかったこと、最もつらかったことは何か?」と尋ねられた仁左衛門は「うーん、難しいなあ」と悩みつつ、「舞台を勤めていて『お客様に受け入れていただけた』という空気が伝わってきたときはうれしいですよね。つらかったのは舞台に立てなかった時期。若い頃は生活のために、この仕事から去らなくてはいけないかなと思う時期もありましたから」と目を細める。
仁左衛門は1993年に、病気のため約1年間にわたって舞台を休演した。仁左衛門は当時を振り返って、「病気になったのは、仁左衛門という名前を私が継ぐことが内々に決まり、『三男の自分が継いで良いのか』と悩んでいる最中だった。生死の境をさまよったこともあり、その頃に思っていたのは『私が仁左衛門の名を継ぐべき人間であれば、命が助かるだろう』ということ。ですから舞台に復帰できたときは『神様が命をくださった』という責任感を感じていました。1年間舞台を離れたのはつらかったですが、復帰の公演に大勢のお客様が来てくださった。おこがましい言い方ですが、『私を待っていてくださったんだな』と思うとうれしかったですね」と微笑んだ。
「後進に伝えたいことはあるか?」と聞かれた仁左衛門は「役を掘り下げること。セリフを額面通りに言うのではなく、その裏を自分でつかむようにいつもみんなに伝えています。私自身、いまだに『なぜこんなことに気付かなかったのかな』という発見がありますし、『できた』と思わずその上を目指さないと」と言葉に力を込める。
会見では坂東玉三郎の話題も。仁左衛門は玉三郎について「良きパートナーの1人で、気心が知れた女房的な存在ですね。俳優同士は仲が良くても舞台である程度相手に気を遣うところがありますが、彼とご一緒するときはそういうことがない。まあ彼のほうは私に気を遣ってくれていると思いますけど(笑)。私は日によって(芝居が)違うんですが、彼は柔軟に受け止めてくれます」と玉三郎に信頼を寄せた。
「歌舞伎がなぜ現代の人々の心を打つのだと思うか」という質問には、「やはり、今も昔も変わらない人間の心が描かれているからでしょうね」と仁左衛門。「歌舞伎は、日本人の“底”にある心を伝えてきた。そこには現代に通じるものが描かれていると感じます」と話す。さらに仁左衛門は「歌舞伎には今まで何度も、存続が危ぶまれる時期があった。そこから持ち直せたのは、力があるからだと思います。歌舞伎が苦しいとき、松竹という会社が持ちこたえてくれたのも大きい。松竹創設者である白井松次郎、大谷竹次郎という兄弟の思いが受け継がれているなと思います」と思いを口にした。
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