橋田壽賀子が昨日4月4日に、急性リンパ腫のため死去した。95歳だった。
橋田は、今年2月下旬に東京都内の病院に入院し、治療に専念していたが、3月中旬に静岡・熱海市内の病院に転院。4月3日に熱海市内の自宅に戻り、4日に息を引き取った。故人の遺志により、通夜と告別式は執り行われず、本日4月5日に荼毘に付された。またお別れの会なども予定されていない。
橋田と60年来の付き合いがあり、橋田の戯曲を多数演出してきた石井ふく子は「今、私の隣りに笑って私を見ている遺影があります。まだ、橋田さんがこの世からいなくなったなんて考えられません」とコメント。
橋田は、1964年にTBS東芝日曜劇場「袋を渡せば」の脚本でデビューして以来、テレビドラマ、舞台の脚本家として活動してきた。今年2月には、泉と坂本冬美が出演した「坂本冬美芸能生活35周年記念公演 泉ピン子友情出演」で、橋田の戯曲「かたき同志」が、石井の演出により上演された。
石井ふく子コメント
橋田さんとは60年のお付き合いです。年中喧嘩したり、相談したり、家族のように付き合ってきました。一日電話しないと「どうしたの?」と心配されることもありました。思い出がありすぎて何も言えません。こんなに急だなんて悔しくて、なんと言っていいかわかりません。「あなた一人でどこに行ったのよ」という思いでいっぱいです。
橋田さんは現在のコロナ禍の状況を見て、そこで感じた家族の形を書きたいとおっしゃっていました。同時に「私はいつも一人だと思っていたけれど、あなたたちがそばにいてくれたのね」とおっしゃって。私は「今更、なにを言ってるのよ」と返しましたけれど。お互いに元気でいようねって話していたところでした。
今、私の隣りに笑って私を見ている遺影があります。まだ、橋田さんがこの世からいなくなったなんて考えられません。
泉ピン子コメント
昨日意識がなくなったとき、「ママ」って呼ぶ私の声が聞こえたのか、最後に目を見開いたんです。それが最後でした。クルーズ旅行に行くとき、お正月に着ていたお気に入りのドレスと、橋田文化財団を設立したときに作った松竹梅の思い出のドレスを着せて、私がお化粧をしてあげて、旅立ちました。
橋田さんは「悲しまなくていい。千の風になっているんだから。あなたの周りにいるから」といつも言っていました。「でも、私が先に逝くとは限らないけど」と茶目っ気たっぷりで付け加えたりして。ですから最後は「千の風になって」をかけて送りました。
今の私があるのは橋田先生のおかげです。舞台もドラマもやらせてもらいました。ずいぶん喧嘩もしたし、泣いたこともあったけれど、橋田さんとご主人には本当の娘のようにかわいがっていただきました。私も熱海で暮らすようになって、最後はずっとそばにいられたから熱海に越してきた意味があったと思います。
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橋田壽賀子が急性リンパ腫のため95歳で死去、石井ふく子・泉ピン子がコメント(コメントあり)
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