今日もあの街で名曲が 第4回 [バックナンバー]
カーネーション直枝政広が江戸川土手で語る「Edo River」
東京、王道、渋谷系……あらゆる“中心”との微妙な距離感
2025年12月23日 13:00 4
“地名をタイトルに冠した楽曲”を発表してきたアーティストに、実際にその場所でインタビューを行うこの連載。「なぜその街を舞台にした曲を書こうと思ったのか」「その街からどのようなインスピレーションを受けたのか」「自分の音楽に、街や土地がどのような影響を及ぼしているのか」……そんな質問をもとに“街”と“音楽”の関係性をあぶり出していく。
これまで「武蔵野市」「世田谷代田」「茗荷谷」と、東京の街を舞台に話を聞いてきたこの連載だが、今回はそんな東京を遠巻きに眺めた楽曲をテーマに扱う。「東京から少しはなれたところにすみはじめて」──そんなフレーズでおなじみの
なおYouTubeでは、約30年ぶりとなったMVロケ地への再訪の様子を公開している。
取材・
川を渡るだけでこんなに世界が変わるんだ
──直枝さんはもともと千葉県の松戸にずっと住んでいて、大学の頃は大井町のほうにいらっしゃったんですよね?
そうですね。生まれは品川の中延というところで、2歳までそこに住んでいたんですよ。それから松戸に移って18歳くらいまで過ごし、また品川に移って、10年後にはまた松戸に戻って……結局、30代まではその2拠点を行ったり来たりしていました。中学の頃は松戸から銀座の学校に通っていて。江戸川を渡るということを初めて意識したのは、その頃だったと思います。「川を渡るだけでこんなに世界が変わるんだ」って、中学生ながらに感じたんですよ。そこにいる人間も違えば、空の色も違う。初めて革靴を履いて、電車で東京の学校に通って、最初に感じたのはそんなことでした。
──その頃からすでに江戸川を意識していたんですね。
常磐線から見える風景が、川を挟んで本当にガラッと変わるんですよ。松戸の矢切あたりから田園地帯が広がっていたので、特に違いが鮮明で。初めてその違いを目の当たりにしたときに「なんだこれは」という驚きがありました。
──きっとその頃は今以上に違いがあったでしょうしね。
当時はまだ宿場町の雰囲気がところどころにありましたからね。常磐線で松戸から金町に行く途中に、すごく急なカーブがあって。その近くにかつての古い宿場や遊郭があったり。その景色を歌ったのが「いつかここで会いましょう」という曲で。そんなふうに、あのあたりで見たものはいろいろ曲にしています。学生の頃から今まで、常に江戸川を行ったり来たりしているので。
カーネーション「いつかここで会いましょう」MUSIC VIDEO
──そんな江戸川を舞台にした曲を作ろうと思ったのには、どういった経緯があったんですか?
「Edo River」というキーワードが浮かんできたのは1990年代の初め頃。当時、ムーンライダーズの鈴木博文さんがやってるメトロトロン・レコードから「国際アバンギャルド会議」(「International Avant Garde Conference vol.3」)というオムニバスアルバムがリリースされて。その作品のために、直枝政太郎名義で現代音楽風のノイジーな曲を作ったんですよ。いろんな音楽性をぶちこんだ、マイルス・デイヴィスとかサン・ラを感じさせるインストゥルメンタルだったんだけど、それが自分にとってのランドスケープとしてすごく心地よくて。その曲を作っているタイミングで、たまたま目にしたのが「Edo River」と書いてある看板でした。もともと江戸川を見たら心が洗われるような感覚が不思議とあったし、これは自分にとってのキーワードだなと。それで、まずその曲に「Edo River」というタイトルを付けたんです。
──カーネーション「Edo River」の言わば原型となる楽曲ということですよね。
そこから「気持ちよさ」みたいなものを念頭に置いて曲を作れないかな、という思いが出てきて。当時、ギターバンドとしての決まった形がちょっと嫌になっていたんですよ。ギターを弾くこと自体にあまり興味がなくなって、それよりもトラックメイキングに関心を持っていた。ヒップホップの12inchシングルの裏面に入っているインストをずっと聴いて、「こういう音を作りたい」と思っていたんです。Talkin' Loud周辺の動きも面白かったし、それ以外のアメリカのものも含め、90年代初頭は、ありとあらゆる12inchを買い漁っていて。そういう興味の流れがある中で、ある日譲り受けたのがRolandのS-50というサンプリングシンセ。それを使ってレコードからリズムを取り込んでループを作り、グルーヴに任せて曲を制作するようになりました。その中で呼吸をするように出てきた2コード、それが「Edo River」の元ですね。だから本当に何気なくできた曲なんですよ。メロディも何もなく、日常のスケッチをただラップするように歌っているだけですし。
Edo River / carnation
無意識に歌われた“自分との別れ”
──日常をありのまま歌ったような感覚で、特にテーマなどは設けていなかったんですか?
「こういうことについて歌おう」とか、特別決まったテーマはなかったですね。でも今考えると、幼年期から青年期にかけての“自分との別れ”みたいなことを歌いたかったのかな。東京から離れて生活を変えるということに対して、「ようやく新しい章が始まるかもしれない」とどこかで感じていたんだと思う。自分は社会とは関係ないところでずっと活動していたから、ほかの人よりも青年期が長かったんですよ(笑)。
──そのモラトリアムへの別れを歌っているというか。
そうそう。例えば「たまにはさかさまに世界をみてみよう」という歌詞は、自分の中の思い込みをなくして気持ちよさに身を委ねよう、という意味で。「そうすることで、これまでの生活がリセットされる」という予感があったんだと思います。「ゴメン ゴメン ゴメン ゴメン」という歌詞については、昔からよく「どういう意味なんですか?」と聞かれるけど、これも今までの自分との別れを意味していたのかな。語呂のよさだけで歌っていた部分もあるけど、やっぱり無意識下にあるものが曲になることはありますからね。生活の基盤を変えていく時期の“呼吸”が、知らず知らずのうちに言葉になっていたんだと思います。
──たまたま「Edo River」と書かれた看板を見て着想を得たという出発点から、そういったフレーズの細部まで、本当に自然な流れに身を任せてできた曲なんですね。
日常のだるい感覚の中からじわっと出てきた、本当にワンアイデアの曲ですよ。なのにNHKでミュージックビデオが流れたり、FMで曲がかかったりしていて。「なんでこれが?」とすごく不思議な感覚でした。ただ、そのおかげで“抜け感”を覚えたというのは確かにあって。「この呼吸でいけばいいんだな」という感覚をつかめたんです。「この気持ちよさを維持していこう」と意識していたら、その後の2、3作はとても楽しく作れたし、スランプなんて一切なかった。この曲のおかげで、人に届けるための周波数をようやく見つけることができました。
──結果的にカーネーションを象徴する1曲になったと思うのですが、完成当時はそこまでの存在になるとは思っていなかったんでしょうか?
思ってなかったですね。「これまでにない1曲ができたな」という満足感はありましたけど。バンドにこだわりながらも、ある意味それとは正反対のやり方で、だけど生っぽさもある。前例がないから確信は持てなかったけど、これでいいんだとは思っていました。低音の作り方も今までにない感じだし、時代感も出ているし。何よりメンバーのみんなが楽しそうなのが一番だったかな。
カッコいいものだけがすべてじゃない
──2017年リリースのアルバム「Suburban Baroque」にはストレートに「郊外」を意味する言葉が冠されていますし、「Edo River」に限らずカーネーションの音楽は“東京から少しはなれたところ”に住み続けてきた直枝さんの目線が重要な要素になっているように思えます。
僕は郊外の面白さについて「これでいいじゃん」みたいな開き直りがあるんですよね。「特に何もないけど、それすら歌にしちゃえばいいじゃん」という。それをどうサウンドに溶け込ませるかとか、そういうテクニックはどうでもよくて、ただそこに生きている自分の意見があればいい。自分の物語があれば、最低限自分らしいものができるんじゃないかなと。「Suburban Baroque」なんかは、まさにそういう考えを経てできた作品だと思います。
──郊外の景色を歌うということを選び取っているわけではなく、自分の物語を出そうとしたら自然とそうなっていく?
選び取るとか、そんな大袈裟なものでないですね。呼吸するように自分から出てくるものを、ただただメモしていくだけです。ただ、自分の心象風景についてのほうが無理なく書けるというのは大きいでしょうね。何十年もずっと見てきた世界のほうが、やっぱりフラットに書けるので。自分をその風景の中で遊ばせているうちに、だんだん言葉が降りてくるんです。自分から何かをつかみに行こうとはしない。曲を作るときは常にそういうスタンスです。説明がつかない、無意識の何かが1つ出てしまえば、あとは歌が何かを描いてくれる。例えばそれがろくでもない世界でも、理解できないものでもよくて。とにかく自分の意識を放し飼いにしてやるのが大事なんです。
──その結果できたのが「Edo River」であり「Suburban Baroque」であると。
その2つは、どちらも自分の中の心象風景から生まれた作品だと思います。僕は、電灯が少なくて周りが見えないような場所にも、その怖さを含めて物語があるような気がしているんです。カッコいいものだけがすべてじゃないですから。
──それは、実家が品川にあって、東京と千葉の両方を知っているからこその視点でもあるかもしれないですね。
そうかもしれないです。ただ、品川と言っても僕はダウンタウンの出身なんですよ。高校は全寮制で西東京、それも秋川のほうですごく田舎でしたし。中心から外れた場所で東京を眺めているような感覚はずっと持っていると思います。
──東京の中心よりも外側のほうが、居心地がいい?
何もないところが楽しいんですよね。自分にとって、不便なのは別に当たり前というか。ショッピングモールがあったり、スーパーがぽつんぽつんとあったり、かと思えばいきなり田園風景が広がったり。それが面白いんですよ。その面白さは何十年と変わらない。
──そういう“何もない場所”で暮らし続けていることは、ご自身の創作活動にどのような影響を与えていますか?
常に移動しているので、その間に何かを考えることは多いですね。今でも品川と松戸を往復して、毎日のように片道40kmくらい走ってますから。父親もハイヤーとかタクシーの仕事をやっていたので、車というのは自分の中で欠かせないものなんです。別に創作と結び付けているわけではないけど、移動時間が長いことが、結果的に自分と向き合う時間の長さにつながっているとは思います。
──ちなみに松戸近辺で直枝さんのお気に入りスポットはどこですか?
カレーがおいしいお店がいろいろあって。柏のボンベイと松戸のムンバイはオススメです。それと柏のディスクユニオン。そのあたりが僕の中心ですね。あとは子供の頃に七五三で行った小さな神社に今でも行っていますし、そういう地元に根付いた場所は大切にしています。
東京、王道、渋谷系との微妙な距離感
アキモトトシユキ @colo_nyakkee
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