「フォークゲリラ集会」の様子。

時代を映し出すプロテストソングの変遷 第1回 [バックナンバー]

“抗議の歌”の誕生と1960年代学生運動

若者たちの心を動かしたフォークソング

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「プロテストソング」と言えば、あなたはどんな曲を思い浮かべるだろうか。反戦、政治批判、差別問題、反原発、いじめ、貧困……あらゆる政治的抗議のメッセージを含む歌がプロテストソングと呼ばれるものだ。

新型コロナウイルスのパンデミックにより世界中が外出自粛を余儀なくされる状況の中、による加川良の「教訓I」の弾き語りカバーが話題を集めたり、安倍晋三首相が星野源の「うちで踊ろう」の動画と共に優雅に自宅で過ごす姿を公開したことで「音楽の政治利用である」という批判が多く寄せられたりと、改めて“音楽と政治”が注目される今。時代と共に歌われるメッセージも音楽性も異なるプロテストソングは、日本においてどんなきっかけで生まれ、広がってきたのか。小野島大によるこの連載では、フォークソング、ポップス、ロック、ヒップホップなどさまざまなジャンルにおけるプロテストソングの歴史を、時事問題を交えながら計3回にわたって紹介していく。

なお記事の最後には、小野島大が制作したSpotifyプレイリスト「プロテストソングの歴史」も公開する。

/ 小野島大 ヘッダ写真出典 / 毎日新聞社/アフロ

日本における「プロテストソング」とは

この記事は日本におけるプロテストソングの歴史をさまざまな楽曲と共に振り返るものだ。発売禁止や廃盤などでCDや配信で聴けないもの、一時期だけ公開され現在は聴けないもの、中には最初からまとまった音源が存在しないものもある。しかしその多くはネット上に残されているので、興味があれば検索してほしい。

さる4月5日、星野源がInstagram上にアップした弾き語り動画「うちで踊ろう」に乗っかる形で、4月12日に安倍晋三首相が公式Twitterに投稿した“コラボ動画”は大きな批判を巻き起こした。この件に関する考察は各方面からなされているが、筆者が印象的だったのは、ラッパーのKダブシャインによる以下のようなツイートだ。



表現にバッファや曖昧さを残し、聴き手の解釈や想像力にある程度判断を委ね、誤解されるのも受け入れ、ふんわりと広げていこうとするのが多くのポップミュージックだろう。だが本意ではない利用や誤解、曲解をされたくないならあらかじめ意見や立場をはっきりさせたほうがいいというのがKダブの考えではないか。誤解も曲解も許容して、より幅広い共感を得ようとするのも正しいし、誤解されぬよう、変な利用の仕方をされないよう、言いたいことをきっちり明確に表現するのも正しい。どれを選ぶかはアーティストそれぞれということだ。そしてこの記事のテーマである「プロテストソング(抗議の歌)」とは、まさにその後者に属するものと言えるだろう。

日本におけるプロテストソングの起源については諸説あるが、庶民が時の権力者を茶化したり揶揄したり風刺する“狂歌”、あるいは19世紀末の自由民権運動時に一世を風靡した、川上音二郎や添田唖蝉坊らに代表される政治風刺歌“演歌(演説歌)”のような文化は古くからある。この記事で扱うのは1960年代以降の日本のポップミュージックだが、それ以降プロテストソングの抗議の対象は、時の為政者の悪政、権力者の不正や横暴にとどまらず、戦争、原発や核兵器、環境破壊、いじめや暴力、あらゆる差別や階級格差、不当な搾取、マスメディアのあり方など多岐に及んでいる。その多くは政治的な色彩を帯び、ときに反体制的な立場からの表現となるが、すべてではない。

アーティストである以前に市井の一市民として、不正なるもの、悪逆なるもの、自分の権利や生活を侵害するものに対して怒りを感じ、抗議をするのは特別なことでもなんでもないだろう。「音楽に政治を持ち込むな」という言説をネット上でよく見るが、そもそも社会の中で存在し、経済のシステムの中で流通し、人間のあらゆる営みから生まれるのがポップミュージックである。音楽だけが政治や経済と無関係であるはずがない。文化と社会は切り離せないし、切り離すわけにはいかないのだ。

もちろん、前述のように政治を持ち込むも持ち込まぬも、抗議をするもしないもアーティストの自由である。そういうこととは無関係に美しい音楽を作るアーティストはたくさんいる。だが1986年のチェルノブイリ原発事故や2001年のアメリカ同時多発テロ事件やそれに続くイラク戦争、あるいは2011年の福島第一原子力発電所事故といった、市民の生活が大きく揺さぶられるような危機的状況が訪れると、プロテストソングが数多く作られるようになるのは確かだ。そして今起きているコロナ危機や、それにまつわる政治の混乱も、そうした状況の到来を予感させる。ただの鑑賞用音楽にとどまらない、意思を持った歌に共鳴、共感する人が増え、彼らの気持ちを代弁するような声となることで、プロテストソングは武器としての力を増していくのである。

杏のカバーで話題を集めた「教訓I」の誕生背景

星野のほかにも、さまざまなアーティストや表現者がネットを通じ自宅からさまざまなパフォーマンス映像を発信しているが、中でも目を惹いたのは女優の杏が歌う「教訓I」だ。アコースティックギターを弾き澄んだ美しい声で歌われるこの曲もまた、プロテストソングである。


フォークシンガーの加川良が1971年に発表した代表曲「教訓I」は、国家への徹底した不服従を歌っている。「男ならお国のために己を捨て命を捨てろ」という極端な同調圧力からさっさと逃げてしまえ、と歌っている。それを杏は「自分を守ることが人を守ることになる」と読み替えて歌う。さらに原曲では女性蔑視的と取られかねない「私しゃ女で結構 女のくさったので かまいませんよ」という箇所を「腰抜けヘタレひ弱で結構 どうぞなんとでもお呼びなさいよ」と歌うことで、すべての人々に届くようなメッセージとしている(おそらく杏は同じ歌詞で歌ったハンバート ハンバートのカバーも参考にしている)。
加川良「教訓I」が収録されているアルバム「教訓」ジャケット。

加川良「教訓I」が収録されているアルバム「教訓」ジャケット。



「教訓I」が発表された当時は、ベトナム反戦運動から始まる反権力闘争、学生運動や公民権運動、日本では安保闘争や三里塚闘争が盛り上がった時期だった。“革命”という言葉が美しいロマンとして語られ、若者の力で世界が変わると信じられていた時代である。日本のフォークの開祖と言われる高石友也や岡林信康高田渡、五つの赤い風船、中川五郎といった歌い手たちがそれに呼応するようにプロテストソングを歌った。日本における反戦歌の先駆となった高石の「明日なき世界」(69年発表。のちにRCサクセションもカバー)、中川の悲痛な反戦歌「腰まで泥まみれ」(69年発表。のちに元ちとせもカバー)、自衛隊を風刺した高田の「自衛隊に入ろう」(69年発表)などがこの時代の代表的なプロテストソングだ。その多くは洋楽に独自の日本語歌詞を付けた楽曲であった。前記の「教訓I」は、「男の中の男はみんな自衛隊に入って花と散る」と歌われる「自衛隊に入ろう」へのアンサーソング的な意味がありそうだ。フォークではないが丸山(美輪)明宏のプロレタリアート賛歌「ヨイトマケの唄」(65年発表)も、この時代が生んだ優れたプロテストソングだろう。
岡林信康「わたしを断罪せよ」ジャケット

岡林信康「わたしを断罪せよ」ジャケット



中でも岡林は、学生運動の中で活動家たちの愛唱歌にもなった「友よ」(69年発表)、反戦歌「戦争の親玉」(69年発表)、政治家や資本家、大国の横暴を笑いとともに批判する「くそくらえ節」(69年発表)や「がいこつの唄」(69年発表)、日雇い労働者の生活を歌った「山谷ブルース」(68年発表)、部落差別をテーマにした「手紙」「チューリップのアップリケ」(69年発表)、牢獄のような社会を打ち破り新しい世界を目指せと歌われる「それで自由になったのかい」(70年発表)といった名曲を連発し、フォークの神様と言われるほどの影響力を持った。だがそんな居丈高な異名とは裏腹に、そのメッセージはあくまでも底辺の弱者、マイノリティの立場から発せられていたのである。

「フォークゲリラ集会」においてプロテストソングが果たした役割

ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」は、そもそも1968年に彼らの2ndシングルとしてリリースされる予定だったが、所属レーベルの東芝音楽工業が直前に発売中止を決めたことで大きな話題となった。歌の内容は、イムジン河を境に南北に分断された朝鮮半島の人々が、引き離された故郷を思う美しいバラードである。「誰が祖国をわけてしまったの」という問いかけはあるが、プロテストというほど強い調子ではない。だが発売中止、放送自粛という、明らかに過剰な措置でこの曲は60年代の日本のプロテストソングを代表する作品となった。周りの反応や時代、状況が曲の持つ意味や影響力を大きく変えてしまった例である。2005年公開の井筒和幸監督の名作「パッチギ!」では、物語のキーになる曲として全編にわたって使用された。



岡林信康の2歳年下の泉谷しげるは、岡林を“師匠”と公言するほどのファンであるが(参照:泉谷しげるオフィシャルブログ「泉谷しげる・春夏秋冬」Powered by Ameba)、そのプロテスト精神も受け継いでいる。「戦争小唄」(71年発表)は、激烈なブラックユーモアで反戦を訴える初期の名曲。また警官の職務質問の様子をコミカルに描く「黒いカバン」(72年発表)も、泉谷の反権力志向がよく現れている。以降現在まで、その反骨精神は健在だ。


こうした学生運動の盛り上がりやプロテストフォークのブームを象徴するのが、1969年2月末から7月にかけての土曜日、新宿西口地下広場に多いときで数千人の若者が集まっておこなわれていた「フォークゲリラ集会」だった。主催は、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の若者たち有志であった。参加者はフォークゲリラと呼ばれる歌い手たちと共に、さまざまな反戦 / プロテストソングを合唱した。高石友也の代表曲「受験生ブルース」(68年発表)の替え歌「機動隊ブルース」(作詞は東京ベ平連のメンバーだった大川正一とされる)や、時の総理大臣・佐藤栄作(現首相安倍晋三の大叔父)を茶化した「栄ちゃんのバラード」(佐藤は「栄ちゃんと呼ばれたい」と言って、国民から親しまれることを望んだ。そのことを揶揄して作られたもの。作者は南大阪ベ平連)などが、岡林の「友よ」や革命歌「インターナショナル」、アメリカのプロテストソング「We Shall Overcome」などと共に歌われた。同様の集会は全国各地で行われていた。しかし、膨れあがるばかりの参加者に市民の自然発生的なエネルギーを警戒した当局は5月に機動隊を導入し参加者を排除。人々が集まって歌を歌う、ただそれだけのことが抑圧の対象になった。そして69年6月28日、参加者と機動隊が衝突、道路交通法が適用されて64名が逮捕された。7月14日の集会を最後に西口広場は西口通路と名称変更され、以降一切の集会は禁止され、フォークゲリラ集会は一気に終息した。ちなみ1990年代に入ると、西口通路はホームレス強制排除事件の舞台ともなっている。(※参考資料:大木晴子・鈴木一誌編著「1969―新宿西口地下広場」新宿書房)

またロックでは、新左翼セクト共産主義者同盟赤軍派の檄文をそのまま歌詞にした「世界革命戦争宣言」や、「銃をとれ」(いずれも72年発表)といった帝国主義国家への過激な武装闘争を呼びかける歌を叩き付けた頭脳警察が、この時代を象徴する存在だ。ボーカルのPANTAは頭脳警察解散後もソロとして優れた作品を数多く残し、今なお現役で活躍するレベルロッカーである。
頭脳警察「頭脳警察1」ジャケット

頭脳警察「頭脳警察1」ジャケット



しかし学生運動が世論の支持を失い後退するに従ってプロテストソングも力を失っていく。岡林はその兆候の前にプロテストフォークの限界を感じていたようだが、「私たちの望むものは」(70年発表)での屈折した内面的表現は、そうした過渡期の産物とも言える。連合赤軍事件の余波を歌った友部正人の「乾杯」(72年発表)は、はっきりと学生運動敗北後の苦い感情を噛みしめた歌であり、シラケと無関心、消費文化が支配する70年代の到来と、プロテストフォークの時代の終わりを意味していた。

近日公開の第2回では、「チェルノブイリ原発事故や阪神・淡路大震災が与えた影響」をテーマに1980年代から90年代にかけてのプロテストソングについて記す。
<つづく>

小野島大

音楽評論家。9年間のサラリーマン生活、音楽ミニコミ編集を経てフリーに。「MUSIC MAGAZINE」「ROCKIN'ON」「週刊SPA」などのほか、新聞やWebなどさまざまな媒体で執筆活動を行っている。著作も多数。

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