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imoutoid

18歳の若さでこの世を去った天才アーティスト、imoutoidが遺したもの

未来を期待されていた少年の、早すぎる死から10年

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かつてimoutoidという若きサウンドクリエイターがいた。中学生の頃からコンピュータでトラック制作を始め、自作の音源をインターネット上に公開するようになった彼は、その才気みなぎるハイクオリティなサウンドが注目され、若くして音楽ファンやネットユーザーたちから“天才”と呼ばれ絶大な支持を得るように。当時メジャーレーベルなどからも多数の音源制作やライブ出演を依頼されていたとのことだが、将来に大きな期待が寄せられている中で、彼は2009年4月に心不全により天国へと旅立った。まだ18歳だった。

文 / imdkm

imoutoidが生きた時代

京都に住んでいた頃、imoutoidとは何度か会った。一緒にイベントもやった。名前は「セプテンバー9月」。出演は私、imoutoid、tofubeats、tomad。しかしなんてナンセンスなイベント名だろう、これも彼が発したひと言が命名のきっかけだった。

こうして記憶をたどると際限がない。最初に会った日は、私が進学のために山形からはるばる京都に引っ越してきたばかりで街自体の空気に少し浮足立っていたうえ、“あの”imoutoidと会える、というとなんだか現実感がすごく薄かったのを覚えている。ネットレーベル・Maltine RecordsからのEPにはもうすでに夢中だったからだ。しかも年下だというし。ちなみにその日はtofubeatsとも初めて対面したはず。2008年の温かい時期のことだったか。

まだSNSと言ったらギリmixi。Twitterもやっていたけれど今ほどには普及していなかった。まだApple MusicもSpotifyもなかった。Spotifyのサービス開始は2008年10月だから、実際には徐々に時代は変わりつつあったのだが、日本ではそんな話すら聞こえてこなかった。音楽で言えばいわゆるビッグルーム系のEDMもアトランタ流のトラップもなかった。ましてフューチャーベースなんて。フレンチエレクトロだ、ダブステップだ、とか言っていた頃。ギリ“ニューレイブ”というのも通じたかもしれない。そういうタイミングに彼はさっと現れて、突然に去っていった。

……とはいえこうした思い出話で文字数を浪費するにはあまりにも彼の遺したものは大きい。いまだにカルト的な人気を誇り、気付くと思い出したかのように誰かが話題にしている。商業的なリリースというものをほぼ残すことがなかった若きプロデューサーとしては異例のことではないか。こうして人々の記憶に残るだけではなく、彼の親族がブログや音源のアーカイブを少しずつネット上に築いてくださったおかげで、その活動の足跡はある程度今でもたどり直すことができる。僥倖と言うほかない。

というわけで、前置きが長くなってしまったが、本稿では、imoutoidがもたらした衝撃とはなんだったのかを振り返ろうと思う。クロノロジカルに活動を追って作品を紹介していくというよりも、もう少し大きな枠組みで、彼の多彩な活動を貫く音楽観というか、思想みたいなものを自分なりに考えてみたい。というのも、彼の技巧やセンス、知識量、あるいは“天才さ”よりも、その活動から見える音楽に対する考え方こそが、自分に大きな影響を与えていたように、今となっては思えるからだ。

初期衝動の世界から、ポップへの耳を開く

imoutoidが3曲入りのEP「ADEPRESSIVE CANNOT GOTO THECEREMONY」(以下、ACGT)をMaltine Recordsからリリースしたのは2007年の秋のことだった。それ以前にもMaltineの企画したコンピレーションに“ファミコン宇宙人”名義で参加もしているし、ニコニコ動画やインターネット上のフォーラムなど複数の拠点で同時に精力的な活動をしていたとはいえ、やはりこの作品が彼の代表作であると言っていいだろう。美少女ゲーム「D.C.~ダ・カーポ~」のサウンドトラックをリズム構造からメロディまで緻密なエディットによって変形させ、ナードコアやブートリミックスの文脈を大きくはみ出てしまうようなエクスペリメンタルポップを作り出した一作だ。

このEPが重要なのは、エレクトロニックミュージックからサンプリングミュージックまでの幅広い文脈の中で、ポップをナードコアや電波ソング的なキャンプ性とは異なる形で提示したことだ。常にキッチュと隣合わせにあるポップを、エディットの妙によって丹念に分離・抽出してみせるかのような鮮やかな手際は、例えばブレイクコアの初期衝動に突き動かされるままに(Maltineの最初期のリリースを参照……といってもすでに廃番となっているが)手当たり次第の制作に臨んでいた同世代へ、1つの楔を打ち込んだように思う。

Maltine Recordsは今でこそダンスミュージックとポップスを架橋する1つのブランドイメージを形作っているが、しかしその可能性を照らし出したのはこのEPだった。プロダクションの水準から見ても、ある種のミニマリズムを完璧に体現する削ぎ落とされたアレンジは、エディットの肌理へと否応なく注意を惹きつけ、聴く人を驚嘆させる。

今や星野源にまで影響を及ぼすようになったEDMの支流・フューチャーベースの、その屈託なく人懐こいポップな旋律には、わずかばかりimoutoidを重ね合わせたくもなる。少なくとも私個人としては、まさしくimoutoidに開かれた耳こそが、エレクトロニックミュージックとポップスの新しい蜜月を迎える現在への関心を準備してくれたのは確かだ。

音楽と音響のはざまで遊ぶ

彼の作品でもっとも印象に残っているものを1つ選ぶとしたら、アニメ「君が望む永遠」に登場するキャラクターのセリフを素材とした習作の1つだ。20秒程度の短い作品だから正式なタイトルがあるのかは不明だが、セリフの内容から「ほーら、たまには日に当たらないと、カビが生えるわよ」と呼ばれている。キャラクターのセリフが持っているイントネーションをメロディとして解釈し、コード進行を当てはめるというアイデアに当時いたく感銘を受けた。

今となってみれば、ブラジル音楽の奇才エルメート・パスコアールや、ソランジュ「When I Get Home」でも抜け目ない才覚を滲ませたフランスのシャソルの仕事の系譜に位置付けられる実験だったことは明白だ。実際に何を参照してこのアイデアを得たかはともかくとして、しゃべり言葉とメロディの境界線を軽やかに乗り越えるこの習作は、彼の音楽観を考えるのにとてもいい例だ。

再び「ACGT」の話に戻るけれど、このEPのうち2曲(「PART 2」「PART 3」)では、スタッターと呼ばれる微細なエディットとイコライジングによって原曲からのボーカルを抜き取り、さらに大胆にリズムを伸縮させている。原形をかすかに留めながらも、あたかも音声データが自律的に躍動し出すかのようなメロディラインの崩しやグリッチーなリズムが、このEP最大の聴きどころと言ってよい。ボーカルは常にメロディとノイズの間で揺れ動き、かと思えば身体性を希薄化された声がスタッターの果てに滑らかなリードシンセに姿を変える。

その手際があまりに鮮やかなので、もはやそれは魔法のように聴こえてしまう。しかし、「……カビが生えるわよ」でやってみせたことと、「ACGT」にかかっている魔法は方法的に言えば地続きである。音響が持つさまざまなモード(楽音、ノイズ、ハーモニー、メロディ、言葉、歌など)の連続性を十分に認識し、楽曲の中で相互に変換してみせる。そしてこれが可能なのは、「これは音楽だ、音楽でない」という境界線の不確かさそのものと戯れるかのような、1つ上のメタレベルから音楽というものを把握しているかのような、そうした音楽観が彼の中にあったからではないか。

音響への関心ということで言えば、ReaktorやSuperColliderといった音声処理言語によく通じていたのも、当時の若いミュージシャンとしては割合に珍しかったのではないかと思う。しかも、いわゆるエレクトロニカ的なプロセシングやインタラクション、あるいは即興を志向するのではなくて、もっとポップス寄りのソングライティングをこうした環境を用いながら実践してみせたのは興味深い。グリッチーなエレクトロニカ的「ACGT」のサウンドが実際には微細なエディットの集積であり、ある意味ではコンポジションと言ってもいいのとは対照的に、一聴して耳当たりのよいポップな四つ打ちがSuperColliderのコードから生成されたものであるような、予想をさらりと裏切る彼の方法の根本には、彼の音楽観のフレキシブルさがあったように思う。

とはいえ必ずしもそれは、彼が音楽なるものについて達観しきっていたことは意味しない。むしろ、境界線の不明瞭さに惹かれながら、まさに不明瞭さこそが悩みの種にもなるというアンビバレンスが常に彼にあったはずだ。おぼろげに彼のツイートを思い出しながらそう考える。

果たされなかった可能性:言葉の世界

彼の事実上の最後の作品となったLivetune feat. 初音ミク「ファインダー(imoutoid's Finder Is Not Desktop Experience Remix)」は、ポストダブステップに片足を突っ込んだサウンドとハーフステップのグルーヴに、imoutoidらしい繊細なアーティキュレーションで奏でられるリードシンセやワブルベースが、次のステージを感じさせるものだった。それだけに個人的にこの曲にはあまりにも思い入れが強過ぎるのだが、なによりもこのリミックスで感心し、かつ彼らしいなと思わされたのはその副題だ。

タイトルであり歌詞にも登場する“ファインダー”はカメラのファインダーともとれるし、あるいは初音ミクというバーチャルシンガーの存在が示唆するように、Mac OSのファイルマネージャーの“Finder”(Windowsになじみのある人には“Mac版のエクスプローラー”と言えばわかりやすいか)も暗示する。imoutoidはあえて後者の意味を選び、“Finder”が掲げる「The Macintosh Desktop Experience」をもじる形で、「Finder Is Not Desktop Experience Remix」、すなわち“F.I.N.D.E.R.”という再帰頭字語を作り出した。

再帰頭字語というのはしばしばソフトウェアの命名などに用いられるレトリックで、あるセンテンスやフレーズの頭文字をとった略称に見せかけて、そのフレーズ自体の中に略称そのものが含まれているために実質的には意味が循環してしまっている、といった状況を指す。“Finder”は「Finder is not desktop experience remix」の略なのだが、しかし“Finder”とは何かという説明に“Finder”という単語が使われてしまっては元も子もない。さらに言えばこの文章自体が否定形であって、結局は何も説明できていない、というややこしいユーモアも含まれている。

とはいえ、このタイトルは単に気の利いたナンセンスにとどまらない。「ファインダー」は歌い手が“君”に対して歌を通じて率直な愛を伝えるラブソングであり、歌詞の中に登場する“ファインダー”は“君”が見て体験する世界のすべてのメタファーでもある。それをディスプレイの向こう(=Finder)の側にいる初音ミクが歌う、という仕掛けもあって、ここで歌われる愛はあまりにも不可能であり、身を切るような痛みさえ覚えてしまう。しかしimoutoidは「Finderは机上の経験(the desktop experience)などではない」と言葉を添える。この一語がこの曲、あるいは“君”のこの世界すべて、またはディスプレイの向こう側のいずれを指すにしても、“Finder”がもたらす経験はただの空想と切って捨てられるようなものではない、と主張するかのようだ。

ギーク趣味とリリシズムと思春期的な切実さが組み合わさったこのタイトルからも伺える通り、彼の言語感覚はユニークだった。彼は「自分には歌詞を書けないから」とブログに書いていたりもするけれど、しかし「セプテンバー9月」なるイベントタイトルや、私とtofubeats、tomadで行った雑誌「STUDIO VOICE」上での連載「AIRHEAD UNASKED TALK SESSION」のタイトルの原案、そしてこの座談のために設置したチャットルーム「淡い恋のハナシ」に至るまで、パンチのあるフレーズを生み出すことに定評があった。

そう思うと彼が歌をほとんど残さなかったことがなによりも悔やまれる。彼について悔やむことはやめておこうとは思っているのだけれどこれだけは本当に思う。

以上が私のimoutoid評、というか、まあ、10年越しの改めてのメッセージと言おうか。もはや、あえてもっともらしい結びのパラグラフをつけようとは思わない。クロノロジカルに活動を追うことはしない……としたのは、実質的には「ACGT」と「ファインダー(imoutoid's Finder Is Not Desktop Experience Remix)」の2作品+αしか取り上げていないはずのこの記事の分量を見ていただけるとわかるかと思う。そんなことをしていたら書き終わりそうもなかったのだ。加えて、伝記的記述に終始するにはあまりにも彼の存在は特別だったので、ここは多少エモいことになってもご容赦願いたい。

気が付けばそろそろ30歳を迎えようとする自分を横目に、ずっと年下の世代に才能豊かなミュージシャンが続々登場している2019年になってなお、彼の音楽がみずみずしく新鮮に響くことに喜びと複雑な気持ちを抱きながら、ここで幕引きとしておく。

imdkm

1989年生まれ、山形在住のブロガー / ライター。Web媒体をメインに音楽・美術関係の記事を執筆。

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