土居裕子

ミュージカルの話をしよう 第17回 [バックナンバー]

土居裕子、歌のお姉さん“Uちゃん”が開いたミュージカルの扉(前編)

カラカラのスポンジのように舞台の基礎を吸い込んだ

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生きるための闘いから、1人の人物の生涯、燃えるような恋、時を止めてしまうほどの喪失、日常の風景まで、さまざまなストーリーをドラマチックな楽曲が押し上げ、観る者の心を劇世界へと運んでくれるミュージカル。その尽きない魅力を、作り手となるアーティストやクリエイターたちはどんなところに感じているのだろうか。

このコラムでは、毎回1人のアーティストにフィーチャーし、ミュージカルとの出会いやこれまでの転機のエピソードから、なぜミュージカルに惹かれ、関わり続けているのかを聞き、その奥深さをひもといていく。

第17回は、美しいソプラノと慈愛に満ちた温かな演技で魅せるベテラン・土居裕子が登場。東京藝術大学で声楽を学んだ土居は卒業後、劇団四季研究所を経て、子供番組の“歌のお姉さん”となる。その後は音楽座の看板俳優として8年間活躍し、数々のオリジナルミュージカルを世に送り出した。そんな彼女は劇団の解散後も、舞台やコンサートなどで歌い、演じ続けている。前編では土居に、“歌姫街道”まっしぐらな生い立ちや、歌のお姉さんのその先のキャリアに悩んでいた時期のエピソード、音楽座での活動について振り返ってもらった。

取材・/ 中川朋子

父の会社の机で歌っていた幼少期、天地真理とジャニス・ジョプリンは“神”

──音楽に触れた原体験を覚えていますか?

私は3姉妹の3番目なので、おもちゃも含めすべてが姉のお下がりでした。その中におもちゃのピアノがあって、4歳か5歳くらいのときは1日中弾いていたんですよ。母がメロディを教えてくれて、自分で弾けるようになるのが楽しくて。それでピアノを習い始めました。

──歌はいつ頃からお好きだったんでしょうか。

なぜかずっと好きだったみたいですね。3歳くらいの頃、父が働いていた海運の会社に遊びに行っては、事務所のデスクの上に乗せられて歌っていたらしいです(笑)。父の会社には春にセリ摘み、秋にワラビ狩りとかイベントが多くて。バス移動中は必ず私がマイクを握っていたそうです。当時から親は「この子は音楽が好きなんだな」と思っていたようですね。母には「あんた音痴だったんだけどなあ」って言われたこともありますけど(笑)。ピアノのレッスンは受けていましたが、歌は大学受験の準備を始めるまで習ったことはなく、ただ好きで歌っていました。十代の頃は、天地真理とジャニス・ジョプリンが神でした(笑)。天地さんは中学生時代、ジョプリンは高校に入った頃から大好きで、よくものまねもしていましたね。

幼少期の土居。母と一緒に。

幼少期の土居。母と一緒に。

──舞台との接点はいつ、どんなものだったのでしょう。

確か小学2年生のとき、学校を休んで母と一緒に宝塚歌劇を観に行きました。その頃住んでいた大分県別府市で、地方公演があって。生で観た初めての舞台はすごくきれいで素敵でしたね。それをきっかけに劇団四季などの劇場中継を観るようになりましたが、初めは自分が舞台の上に立ちたいとは100%思っていなくて。その後ミュージカルがさらに好きになったきっかけは、映画でした。私は愛媛県宇和島市の高校に通っていて、地元では生のミュージカルを観ることはまずできなかった。でもあるとき映画館で「サウンド・オブ・ミュージック」「ウエスト・サイド・ストーリー」という、ベタベタな2本立てを観て(笑)。それですっかりファンになって、あの頃は「ミュージカルと言えばあの2本!」と思っていました。

夢破れ、道を探した大学時代…念願かなって歌のお姉さんに

──高校卒業後、東京藝術大学で声楽を専攻されます。大学入学時から、音楽や舞台のプロを志していたのですか?

はい、当時はクラシックの演奏家を目指していました。でも同級生はみんな私よりもふくよかで豊かな声をしていて……「私みたいなのはダメだろうな」と、クラシックをやる夢は早くに破れてしまった。だから別の、歌える道を探していたと思います。それで「歌の勉強をしているんだから、ミュージカルをやるっていう手はないかな?」と思って。当時はシェイクスピア・シアターや、私が所属する前の劇団音楽座の公演によく行っていました。劇団音楽座は全作品観劇していましたが、皆さんお芝居がとても上手だし音楽が魅力的で、どの演目も本当に面白かった。私がのちにとてもお世話になる横山由和さんのことは、その頃初めて知りました。

──大学卒業後、1982年には劇団四季研究所に入所します。まず劇団四季に飛び込んだのはなぜですか?

劇団四季は当時からすごく勢いがありましたし、お芝居もミュージカルもできることがとても魅力的でした。鹿賀丈史さんや市村正親さん、山口祐一郎さん、久野綾希子さんといった方々がバリバリ現役の劇団員だった頃で、皆さん本当に素敵だったんですよ。

──土居さんは劇団四季研究所に10カ月在籍され、1983年に退所されます。その後、1984年にはNHK教育テレビの音楽教育番組「なかよしリズム」で歌のお姉さん“Uちゃん”に就任されました。

研究所では浅利慶太先生にも認めていただき、順調に行けばきっと劇団四季の舞台にも立てたと思うんです。でも私は子供の頃から、歌のお姉さんになるのが夢でした。小さい頃って、病気になったら家で教育テレビを観たりするじゃないですか。当時から私の心は、番組に出ている子供たちではなく、なぜか歌のお姉さんと同期していて。「絶対に向いてるな、私ならできるな」と思っていたんですよね(笑)。それで研究生だった頃にたまたま、NHKでオーディションがあるという情報が入った。歌のお姉さんは毎年募集されるものではないですし、思い切って挑戦することにしたんです。それからいろいろとご縁があって「なかよしリズム」に声をかけていただき、歌のお姉さんになることができました。

──「なかよしリズム」放送中の1986年には、ミュージカル「ファンタスティックス」のヒロイン・ルイザ役で初舞台を踏みます。

出演のきっかけは、「なかよしリズム」で構成・振付をされていた故・坂上道之助先生にお誘いをいただき、「ファンタスティックス」のオーディションを受けたことでした。初舞台は本当に楽しかった! 演じている最中も公演が終わったときも、とにかく楽しかったことをよく覚えています。

運命の“トントン”?そしてミュージカル俳優・土居裕子が誕生

──土居さんは歌のお姉さんとして注目を集めますが、1988年に「なかよしリズム」の放送が終了します。

番組終了が決まった頃、1人で銀座を歩いていたら肩を“トントン”と叩かれて「あなた、転機ですよ」って声をかけられて。私はちょうど「これからどうやって生きていこう」と悩んでいたときだったから、つい話を聞いてしまったんです。そうしたらなんのことはない、「30万円でこの印鑑を買え」という勧誘でした。そのときは「お金もないし、印鑑もいりません!」って逃げて帰って。それでその1週間後、番組収録のときに渋谷を歩いていたら、また肩を“トントン”と叩かれた。銀座のことがあったから「ああ、印鑑だ」と思い、今度はすぐに逃げました(笑)。

──あははは!

でもそれから間もなく、NHKの食堂で横山由和さんにお会いして、一緒にミュージカルをやろうとお誘いを受けました。横山さんに「『アルファ・ケンタウリからの客』という本をミュージカルにしたい。裕ちゃんに主役の女の子をやってほしいから、読んでみて」と言われて。それで下北沢の小さな本屋さんに行ったら、「アルファ・ケンタウリからの客」が1冊だけ置いてあった。あとで聞いたら当時すでに絶版だったそうで、本当に奇跡的な出会いでした。読み始めたらもう面白くて、朝4時に読み終えて。感激して、うずうずしながら夜明けを待って横山さんに「ぜひやらせてください!」とご連絡しました。

音楽座ミュージカル「シャボン玉とんだ 宇宙(ソラ)までとんだ」より。(写真提供:ヒューマンデザイン)

音楽座ミュージカル「シャボン玉とんだ 宇宙(ソラ)までとんだ」より。(写真提供:ヒューマンデザイン)

──そして1988年、「アルファ・ケンタウリからの客」を原作としたミュージカル「シャボン玉とんだ 宇宙(ソラ)までとんだ」(以下、「シャボン玉」)で、音楽座が旗揚げします。同作が2作目の舞台となった土居さんは、ヒロイン・折口佳代役を務めました。印象に残っていることはありますか?

初舞台の「ファンタスティックス」を、横山さんや音楽座のプロデューサーが観てくださったんです。皆さんに「下っ手くそだったね!」と言われて、「あんなに楽しかったのに、やっぱり下手だったんだ」と(笑)。「シャボン玉」のときもお芝居の経験はないに等しい状態でしたから、横山さんが丁寧に「この場面のお佳代はこういう気持ちだから、こういうふうに動いてごらん」と教えてくださり、その通りに演じました。そうしたら、当時の劇団員の方から「土居は本当に下手くそだったのに、『シャボン玉』1本で変わった。カラカラに乾いたスポンジが水を含むみたいに、グワーッと吸収したね」と言っていただけて。夢中でしたし、やっていてすごく楽しかったことを覚えています。

──それから1996年の音楽座解散まで、8年にわたって活動を続けられました。音楽座でのご経験は、その後のご自身にどのような影響を与えたと思いますか?

音楽座の活動は、私の演劇の基礎すべてです。あの時代がなければ今舞台をやっていませんし、本当にいろいろ経験させてもらいました。それは劇団四季研究所についても同じことが言えます。研究所は10カ月で退所してしまいましたが、やはりとても大切な時間でした。研究所での厳しいレッスンの日々、そして音楽座でのステージの数々が、今の私の原動力です。

前編では土居の、歌と過ごした幼少期や、歌う道を探していた学生時代、そしてミュージカル界への“扉”となった音楽座での活動について語ってもらった。音楽座解散後の土居はどのように歩んできたのか? 後編では、劇団を離れた土居の活動や、昨年上演された東宝版「シャボン玉とんだ 宇宙(ソラ)までとんだ」、そして次回作「リトルプリンス」についての思いを聞く。

プロフィール

愛媛県出身。東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。うわじまアンバサダー。1990年に第40回文化庁芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。また1993年、1995年、1996年に読売演劇大賞優秀女優賞を獲得し、2019年には紀伊国屋演劇賞個人賞に輝いた。近年の出演舞台に、こまつ座「マンザナ、わが町」俳優座劇場プロデュース公演 音楽劇「人形の家」俳優座劇場プロデュース公演 音楽劇「母さん」「テンダーシングーロミオとジュリエットより-」「いつか~one fine day」などがある。

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