ミュージカルの話をしよう

ミュージカルの話をしよう 第3回 [バックナンバー]

シルビア・グラブ、“できないことをやるすごさ”を追い続けて(前編)

ライザ・ミネリに憧れた少女時代

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生きるための闘いから、1人の人物の生涯、燃えるような恋、時を止めてしまうほどの喪失、日常の風景まで、さまざまなストーリーをドラマチックな楽曲が押し上げ、観る者の心を劇世界へと運んでくれるミュージカル。その尽きない魅力を、作り手となるアーティストやクリエイターたちはどんなところに感じているのだろうか。

このコラムでは、毎回1人のアーティストにフィーチャーし、ミュージカルとの出会いやこれまでの転機のエピソードから、なぜミュージカルに惹かれ、関わり続けているのかを聞き、その奥深さをひもといていく。

3人目には、ミュージカルが身近にあったというシルビア・グラブが登場。ライザ・ミネリに憧れた子供時代、縁が縁をつなぎ、次々と大作に出演し続けた二十代、そしてジャンルを問わない“女優”として、常に挑戦し続ける現在──。「できそうもないことをやってしまう、ミュージカルの現実離れしたところが好き。そのために努力は必要!」と笑顔で応えるシルビアの、人を惹きつけてやまない魅力の源とは?

取材・/ 熊井玲

引っ込み思案、でも歌と踊りがあれば前に出られた

──過去のインタビューで、シルビアさんは引っ込み思案なタイプのお子さんだったとおっしゃっていますが、歌や踊りなど表現すること自体はお好きだったのでしょうか?

そうですね。歌や踊りなどパフォーマンスの機会があればちょっと前に出られるけど、なくなった瞬間にまた母の後ろに隠れてしまうような子供でしたね。でも歌ったり踊ったりすることが楽しいとは、子供の頃から思っていたと思います。

──何か習い事はされていましたか?

最初はバレエですね。スイスにいた頃、4つ上の姉がバレエをやっていて、母と一緒に姉を迎えに行くうちに自分もやりたくなって、日本に戻って来てから習い始めました。4歳くらいだったでしょうか。でも好きで始めたくせにレオタードを着ることで周囲の視線を意識し始めて、小3くらいで辞めちゃったんですけど(笑)。

──意外と早いですね(笑)。

そうそう(笑)。でもやっぱり学校では音楽や体育が大好きでしたね。インターナショナルスクールって夏休みが3カ月くらいあるので、小学校のときは毎年ハワイに行き、サマースクールに通っていたんですよ。そこでは、曜日によって異なるダンスを教えてくれる授業があって、ほんのちょっとかじった程度ですけど、ジャズ、バレエ、タップ、フラダンスと体育を日替わりでやっていました。

──それはすごいですね!

そのとき、ジャズダンスでライザ・ミネリの楽曲に合わせて振付をするっていう経験をして。それでライザ・ミネリが好きになり、歌うことも好きになりました。

──シルビアさんは歌から入ったのかと思っていたのですが、ダンスが最初だったんですね。ちょっと意外です。

歌も大好きだったけど、ちゃんと始めたのは中学くらいからですね。

幼少期のシルビア・グラブ。

幼少期のシルビア・グラブ。

いつか「レ・ミゼ」に!

──大学はボストン大学の音楽学部声楽科に進まれました。どんな学生時代だったのでしょうか?

子供の頃は主に学校の部活で歌と踊りをやっていたんですけど、実はその頃、人前で歌うきっかけがあって。当時、「外国人歌謡大賞」っていうテレビ番組があって、インターナショナルスクールの前にいろいろなスカウトさんが来て「オーディションを受けないか」って声をかけていたんです。私もそれに出ることになり、賞を獲っちゃったものだから、うちの母が燃えて(笑)。それ以来、オーディションがあれば絶対応募する、という感じになって、その中でミュージカル「レ・ミゼラブル」初演のオーディションに応募しました。当時私は12歳。リトル・コゼットとしてはギリギリの年齢で、オーディション自体は落ちたんですけど、そのあたりからミュージカルを意識するようになりました。で、「いつか『レ・ミゼラブル』に出る!」「いつか武道館で歌う!」と夢を持って、学校の部活も全部音楽系のことをやっていく中で、「踊りの基礎がバレエなら、歌の基礎はクラシックだろう」と思い、音楽学科に進むことにしたんです。

──大学では声楽を?

やってましたね! 声楽をやったおかげで音域がすごく広がりました。でも得意なのはやっぱりポップスのほうだったし、実際、16歳のときに1回CDデビューしてるんですよ。あと、アメリカの大学だったからミュージカル科もあって、それなら途中で学科を変えればよかったのに、意外と面倒くさがりで(笑)、結局そのまま卒業しました。

──“観る”ほうのミュージカル原体験は、どんなところにありましたか?

日本だとなかなか劇場に行って舞台を観るということはできなかったので、海外の英語のサントラをずっと聴いて、音楽から自分の想像力を膨らませていました。高校3年生のときに、学校のコーラス隊がNYのカーネギーホールで歌ったことがあって私も行ったんですが、そのときに「レ・ミゼラブル」を観ることになって。「レ・ミゼ」なんてもう、歌詞も何もかも覚えているので(笑)、オーバーチュアが始まった瞬間にわーっと泣いてしまって、鳥肌は立つわ、号泣はするわで「やっぱりミュージカルをやってみたい!」という思いが強くなりましたね。また学校の部活では、「南太平洋」や「王様と私」「ザ・ミュージックマン」といったミュージカル作品を英語上演しました。たまたまそういうことに力を入れている学校だったので。

──ずっとミュージカルが身近にある環境だったんですね。

ありましたね、思い返すと。子供の頃、うちにはカセットデッキじゃなくてリールがあったんですけど、父がよくリールで「サウンド・オブ・ミュージック」とかの楽曲を流していたし、母と映画館で「ウエスト・サイド・ストーリー」と「ファニー・ガール」の2本立てを観たりしました。

──では、「ミュージカル女優になる」という夢は、自然と決まっていらっしゃった?

まあ自分としては歌手になるつもりだったんですけど(笑)、でも「レ・ミゼラブル」がやりたいとかライザ・ミネリに憧れている時点で、ミュージカル女優を目指していたんでしょうね、と今は思います。

走り続けた二十代

──シルビアさんのバイオグラフィ上では、1997年に上演された「Jerry's Girls」が最初の舞台と記録されています。

1996年に大学を卒業して日本に戻り、そのちょうど1年後ですね。

──「Jerry's Girls」で覚えていらっしゃることは?

やっぱり初日のソワソワ、ワクワク感かな。お客さんの前に出て1曲歌ったあと、ものすごくうれしくて。22歳っていう、わりと若くしてデビューできたんですけど、「これがやりたかったんだよー!」という、うれし涙が出ちゃいました。初日のカーテンコールで涙を流したのって、そのときと「レ・ミゼラブル」の初日と、この間の「三谷幸喜の『ショーガール~Social Distancing Version~』」くらいです。

──その後、2000年代は福田陽一郎さん演出「Shoes On!」シリーズや、宮本亞門さん演出「アイ・ガット・マーマン」「INTO THE WOOODS」、さらに「エリザベート」「レ・ミゼラブル」などのグランドミュージカルに出演されました。

最初のうちは先のことはあまりよくわからず、瞬間瞬間をがむしゃらにがんばりましたね。劇団でやってきたわけではないので、ポッと出の私はどうにか生き残っていかなきゃという思いもあったし、生活のこともあるのでやらないと生活もできないって状況で、今思うとがんばりすぎてたかもしれない(笑)。でも二十代ってそれでも良かったのではないかと思うし、本当に運良くいろいろな仕事がつながって、いろいろな出会いがありいろいろな経験をさせていただきました。福田陽一郎さんとは「アイラブ・マイ・ワイフ」からスタートして、「Shoes On!」に呼んでいただいたんですけど、福田さん演出の舞台を亞門さんが観に来てくださって、「アイ・ガット・マーマン」「INTO THE WOOODS」「キャンディード」に出演させていただけることになった。また「Jerry's Girls」の次に出演した「COMPANY~結婚しない男~」の訳詞・演出を小池修一郎さんがされていたんですけど、そのあと小池さん演出の「エリザベート」にも出演させていただき……。「エリザベート」で私は初めて帝国劇場に立ちました。また「エリザベート」をきっかけに東宝ミュージカルへの扉が開いて、「レ・ミゼラブル」や「ミス・サイゴン」のようなグランドミュージカルにも出演できるようになったんです。

──帝国劇場への憧れは、シルビアさんの中にありましたか?

やっぱり規模が違いますよね。劇場のサイズ感もそうだし、オーケストラが入ったり、衣装もゴージャスだったり……ただ、私より先に母が「帝国劇場に立つのはすごいことなんだよ!」と言っていて、自分で実感するにはちょっと時間がかかりました。当時はとにかく「やる!」という思いで、しがみついていたような感じだったので(笑)。

「レベッカ」を経て、芝居への思いが強まった

「レベッカ」2010年公演より。(写真提供:東宝演劇部)

「レベッカ」2010年公演より。(写真提供:東宝演劇部)

──そして2008年に「レベッカ」で、菊田一夫演劇賞を受賞されました。それまでの役柄とは、かなりカラーの違う役だったのではないでしょうか?

二十代前半は、弾けた明るいパンチの効いた役をやることが多くて、「レ・ミゼラブル」でファンテーヌをやったら儚い役が続いて、その後の「レベッカ」ダンバース夫人でした。原作の小説自体は高校で読んでいたのでよく知っていましたし、ダンバース夫人というキャラクターにも強烈な印象がありました。しかも授業で読んだあと、みんなでヒッチコックの映画を観て「ああ、(ダンバース夫人は)怖いなあ」と思っていて、その数年後にまさかその役をやるとは……(笑)。それで、「レベッカ」を演じる前にウィーンで上演中の舞台を観に行ったんですけど、実は私、「これは無理かもしれない」って一瞬たじろいだんです。当時34歳だったので、役に対して自分は若すぎると思ったんですね。でもすごくやりたかったから、「今までの自分を殺すしかない」と思って、例えばそれまでは動くことで表現したけれど、徹底的に動きを殺してこの役に臨もうと。だからきつかったですね……日常生活でもどんどん表情がなくなって、主人に「怒ってるの?」ってよく聞かれたくらい(笑)。自分の引き出しにあるものではできない役だったので、演じている間は普段から、「こんなとき、ダンバースはどんな表情をしてるかな」と想像するようになりました。それが評価されたことはすごくうれしかったです。

「レベッカ」2010年公演より。(写真提供:東宝演劇部)

「レベッカ」2010年公演より。(写真提供:東宝演劇部)

──それまでと違う傾向の役を演じられたことで、例えば演じたいと思う役が変わったというようなことはありますか?

うーん、やっぱり違う役柄のオファーをいただくことが増えたのはうれしかったです。「こういう役は絶対にこの人」というのもすごく大事だと思うんですけど、自分としては常に成長していたいし、もっとうまくなりたいという願望がいまだにあるので。だからそのチャンスをくださる方に感謝ですよね。

──「レベッカ」で、シルビアさんに演技派という印象が強くなったと思います。

確かに「レベッカ」をやったことによって、芝居がもっとうまくなりたいという願望が強くなりました。それまでミュージカルが多かったけれど、ストレートプレイにも出られないといけないなと思うようになって。 “ミュージカル女優”と“女優”って、両方女優なんだけど分けて言われることが多くて、でもレッテルを貼られるのがイヤで、両方できる女優になりたいという気持ちが強まりました。なので、それまでは歌があればどうにかなる、とちょっと歌を逃げ場のようにしていた部分もあったんですけど、「私は歌がないところでどう闘えるのか?」という追求がしたいと思うようになりましたね。

前編では「いつか『レ・ミゼ』に!」と夢を抱いた少女時代から、次々と大作ミュージカルに出演した二十代の活躍を中心に振り返ってもらった。後編では、再開まもないPARCO劇場で7・8月に上演され、観客に大きな希望を与えた「三谷幸喜のショーガール」のこと、ジャンルのボーダーを超えた幅広い女優として挑戦し続ける、現在のことを聞く。

プロフィール

1974年、東京都 / スイス出身。1997年に「Jerry's Girls」でデビュー。その後、「アイ・ガット・マーマン」「エリザベート」「キャンディード」「INTO THE WOODS」「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」「ロミオ&ジュリエット」「日本の歴史」「Shoes On!」シリーズ、三谷幸喜作・演出「ショーガール」などのミュージカルやショー作品を中心に活動。2020年には森新太郎演出「メアリ・スチュアート」でエリザベス女王役にも挑戦した。また林希、岡千絵と共にgravityでの活動も行っている。2008年に「レベッカ」で第34回菊田一夫演劇賞、2011年には三谷作・演出「国民の映画」で第19回読売演劇大賞優秀女優賞を受賞。2021年1月から2月にかけてミュージカル「イフ / ゼン」の出演が控える。

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