あの人に聞くデビューの話 第2回 前編 [バックナンバー]
坂本慎太郎が振り返る、ゆらゆら帝国でのメジャーデビュー
「Are you ra?」で変わった風向き、吉祥寺から下北沢へ
2024年5月23日 19:00 158
音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く「あの人に聞くデビューの話」。この連載では多種多様なデビューの形と、それにまつわる物語をじっくりと掘り下げていく。第2回のゲストは
取材・
坂本慎太郎にとって「デビュー」とは? 2010年まで率いたバンド、ゆらゆら帝国がミディレコードからメジャー1stアルバム「3×3×3」をリリースしたのは、1998年4月15日。1989年から続けてきた活動は、カセットやCDのアートワークまで含めた自主制作に始まり、とことんまでインディペンデントな在り方を貫くものだった。そんな中で迎えたミディでのデビューで変わったこと、変えなかったことの両方にぼくは興味があった。また、坂本にとっての“デビュー”には、バンド解散後に始めたソロ活動と自らのレーベルzelone recordsの設立、海外という初めての場所でのライブも含まれると思う。坂本がたどってきた道筋はとても独自のように見えるが、時代や世代を超えて「自分の音楽をいい環境で作り、外に届けるために何が必要なのか」を一貫して考えて続けていくうえでは、最良のテキストになりうるのではないだろうか。
1度は頓挫しかけたメジャーデビュー
──この連載は、デビューにまつわるエピソードをいろんなアーティストにお聞きしていくんですけど、坂本さんの中で“デビュー”というと、やはり1998年にミディからアルバム「3×3×3」を出したときになりますか?
そうですね。
──ゆらゆら帝国では、ドラマーが下田温泉さんから柴田一郎さんに変わったタイミングでもありました。
そうですね。1996年にキャプテン・トリップ・レコーズでスタジオアルバム「Are you ra? / アーユーラ?」を作ったんですが、あのアルバムが出てからいろいろあって下田くんが抜けて、一郎くんが入ってきました。
──柴田さんはどういう経緯で加入したんですか?
実は、一郎くんとは亀川(千代 / B)くんよりも昔からの知り合いだったんです。ゆらゆら帝国以前にスタジオでセッションしたこともあったし、初代ドラマーの吉田(敦)くんが辞めたときも、一郎くんが新しいドラマーの第1候補だったんですよ。1回スタジオにも一緒に入ってるんだけど、いろいろあって決まらなかった。その後も友達のバンドで叩いたりしている姿はずっと観ていて、常に目を付けてた感じですね。
──では、デビューについて話を聞きます。ミディからのデビューが決まった経緯は?
「Are you ra?」で初めて中村宗一郎さんのスタジオ、PEACE MUSICで録音して、石原洋さんにプロデュースしてもらったんです。その体制でアルバムを出したら、今まで周りにいなかった人たちにも作品が届いて、ちょっと客層が変わったんですよね。「一緒にやりたい」と言ってくれる人たちが出てきて、その中の1人が、のちに僕らのマネージャーになった清水(利晃)くん。彼は当時、江戸屋レコードで働いていたんです。
──Charさんが立ち上げたレーベルですよね。
そうです。清水くんだけでなく、熱心だった人はほかにもいました。ミディの渡邊(文武)さんは、友達のザ・ハッピーズというバンドの中村ジョーくんが僕らのライブに連れてきてくれたんです。あとはBO GUMBOSのマネージャーをやっていた瀬戸(英夫)さんからも誘いを受けました。1996年にクアトロレーベルのオムニバスCD(「RICETONE CIRCLE VOL.1」)に、ズボンズやSUPER BUTTER DOG、フリーボとかと一緒に、ゆらゆら帝国も入ってたんですけど、その縁でクアトロレーベルの人も僕らに声をかけてくれましたね。そんな中で一番熱心だったのが、清水くんだったんです。清水くんには「Charさんの機材を使ってレコーディングできます」とも言われてました。そういうこともあって、最初は江戸屋レコードがいいかなと思ったんです。当時はTOKYO No.1 SOUL SETも所属してたし。
──そうでしたね。
それで江戸屋レコードと契約する流れで進んでいたんですけど、突然、会社が解散すると知らされて、デビューの話がなくなってしまったんです。だったら、渡邊さんも熱心に誘ってくれていたし、ミディに行こうと。所属していた江戸屋がなくなった清水くんもバンドのマネージャーとして一緒にどうかと誘いました。
──契約することになったミディはメジャーレーベルではありますけど、社風は独特の感じでしたよね。
会社の雰囲気がよさそうだなとは思ってましたね。渡邊さんも友達みたいなノリでライブに来てくれたりして。それまで思っていたメジャーレーベルのイメージじゃない。なんて言うんですかね、デビューして芸能人っぽくなるような、そういうルートには向かわない感じがしたんです。
──でも、“デビュー”することで環境を変えたいという意識もあったわけですよね? 「Are you ra?」を出したことで客層に広がりが出て、坂本さん的にも手応えがあったし、メジャーから作品を出すという進み方もバンドにとって悪くはないと思えたような。
ほかのメンバーがどう思っていたかわからないですけど、僕はいいかなと思ってました。ちょうどあの頃って、僕らの周りにいた、想い出波止場や暴力温泉芸者、ギターウルフとか、メジャーデビューなんてしないだろうと思っていたような人たちが、けっこうメジャーから作品をリリースしていたんです。それ以前は、メジャーなんて遠い世界だと思っていたんですけど、もしかしたら俺たちでもメジャーから出せるのかなって。そう感じさせる雰囲気はあったかもしれないですね。
メジャーデビューの条件は?
──実際のところ環境はどんなふうに変わったんでしょうか。
最初に、ミディの社長だった大蔵(博)さんと契約の話をしましたね。給料制にするか歩合制にするか、という選択をするんですが、給料制だったら毎月定額で、歩合制の場合、ライブの収入とかは全部バンドに入ってくるんだけど、給料は入ってこない。給料制は、ライブの収入とかを一旦事務所に入れて、そこから給料が支払われるっていう仕組みでした。それで、僕らは歩合制にしてもらったんです。当時のゆらゆら帝国のライブの動員では、ギャラを3人で分けるよりも、ミディから提示された給料をもらうほうが金額的にはよかったんですけど、結果的にメジャーデビューしたら、ライブ会場が大きくなって、めちゃくちゃ得だった。給料制にしなくてよかったです(笑)。バイトも辞められましたし。
──契約したときは、まだバイトを続けていたんですね。
ええ。メジャーレーベルから作品を出したからって、最初は食えなかったんで。メジャー2枚目のアルバム(「ミーのカー」1999年)まではバイトしてましたね。
──「Are you ra?」を一緒に作った、エンジニアの中村さん、プロデューサーの石原さんとのチームで制作を続けるというのも、メジャーデビューするにあたっての条件だったんですか?
最初の話し合いで「レコーディングは中村さんのPEACE MUSICでやって、プロデュースも石原さんにお願いしたい」とか、僕が全部条件を伝えました。「制作中のスタジオにレコード会社の人が絶対に来ない」というのも条件の1つでしたね。あと「ジャケットを自分でデザインする」とか。そういう条件は全部OKしてもらえましたし、スタジオを使える時間が長くなったし、作品を出したら宣伝してもらえるようになった。そういう意味ではメジャーに行ってよかったですね。
──逆にレーベルサイドから何か条件はありました? 1年に1枚アルバムを出してほしいとか。
はっきりしたのはなかったですね。デビューしてからはマネージャーの清水くんがプランを練ってやってくれたので、「そろそろアルバム出したほうがいいんじゃないか」とか、「最初にシングルを出しましょう」とか、そういう提案はありましたけど、無理矢理に何かをやらされるということはなかったですね。何かをやるにあたっては、その都度話し合って決めてました。
──「3×3×3」がメジャーデビューアルバムということになりますが、メジャーで出すと決まったことで作品の方向性が変わった部分もありました?
いや……録音し始めたのはミディに決まった以降ですけど、アルバムに向けて曲を作ったりはしてないです。その頃はもう曲がいっぱいあったから、ライブでいつもやっている曲の中から、どれを選んでレコーディングするかっていうだけでした。
──でも、環境が変化してインディー時代にはなかったような、いろんな経験をするようになりましたよね。
インディー時代が10年弱あったけど、ミディからデビューして全然状況が変わりました。メジャーで作品を出さないと認識しない人がこんなにいっぱいいるんだなって感じたし、新譜がタワレコの試聴機に入る仕組みや音楽雑誌にインタビューが載る仕組みもわかりました。
──それ以前は「なぜ届かないんだ?」という思いもあった?
「Are you ra?」は、まったくもって試聴機に入ることはなかったですから。あのアルバムは口コミで広まったけど、世の中的には全然話題にならなかった。知り合いとかが騒いでくれて広まった感じだったんです。
ブッキングや宿の手配もこなしていたインディー時代
──デビュー後には、取材のオファーも増えましたよね。
そうですね。亀川くんも一郎くんもそういうのが嫌いな人なので、俺が全部対応するしかなくて。そこはがんばってやってました。
──ある意味、そこがインディー時代と一番変わったところかも。
グラビア撮影みたいなやつとかもあるじゃないですか。あれは全部断ってました。あと、(テレビやラジオの音楽番組向けの)コメント撮りも断りました。もちろん妥協案というか、これはやったほうがいいからっていうのでこちらが折れたのはいくつかあると思います。なんでもかんでもやりたくないっていうわけではなかったんで。例えば、「テレビには出たくない」って言ったんですけど、フジテレビの音楽ライブ番組「FACTORY」には出ました。あの番組はスタジオライブがメインだったんで、あれだったら普段のライブとあんまり変わらないんじゃないかと思ったし、「ああいう番組は出たほうがいいよ」って言われたこともあったので。ラジオも出たくないって最初は言ってたんですけど、いくつか一生懸命僕らを紹介してくれているラジオ番組があって、それには僕ががんばって出てましたね。
ゆらゆら帝国 「発行体」
──1997年の6月に、ニプリッツ(元・頭脳警察 / だててんりゅう / 裸のラリーズのヒロシが結成した姫路のバンド)と対バンした下北沢CLUB Queでのライブに僕は行ってるんですが、あの頃はもうミディでデビューすることが決まってましたか?
どうだったかな……。ニプリッツとは新宿LOFTでも一緒にやってるし、何回かやってるんですよね。「3×3×3」が出たのって何年ですか?
──98年の4月です。ちなみにその日はニプリッツのアルバム「裏窓」のレコ発でした。当時はQueも満員ではなかったという記憶がありますが、この頃からQueによく出るようになってますね。
それまで僕らはずっと吉祥寺の曼陀羅2で毎月ワンマンをやっていたんですけど、「下北沢でやったほうがいい」とか言い出す人たちが出てきて。それでQueでやるようになった気がしますね。
──吉祥寺でずっとやっていたけど下北に行かなきゃダメだって言われた話は面白いですね(笑)。
それはすごく覚えています。ずっと吉祥寺でやっていたんで。「そうなんだ」と思って。
──下北に行って状況は変わりましたか?
別に下北に行って何かが変わったかどうかはわからないですけど。
──ただ、メジャーに行くことで、ライブの本数や行く場所も増えますよね?
そうですね。あと、変化としては、それまでブッキングや宿の手配は全部僕が1人でやっていたんで、マネージャーができたっていうのはデカかった。要するに、自分に直接連絡が来なくなったんです。それまでは僕の家の電話にオファーの連絡が来てたんですよ。それを「(このライブ)たぶんやりたくないだろうな……」とか思いながら亀川くんと一郎くんに伝えて。そしたら案の定、嫌な顔をされて「まあ、そうだよね」って感じで、断る理由を考えて先方に連絡を入れるっていう(笑)。あと、ギャラの交渉とかの作業にもむちゃくちゃストレスが溜まっていたので、マネージャーが付いたのはうれしかったですね。嫌な仕事を自分の代わりに断ってくれて、それを亀川くんと一郎くんにも伝えてくれるし、そういう役目を全部やってくれる。本当に助かりました。
──インディーズ時代は、1人であらゆる役割をこなしていたわけですね。
そうなんです。家の電話をバンドの窓口にしちゃってたんで。その業務から解放されたのがよかった。地方に行ったときの宿泊がビジネスホテルのシングルルームになったのはめちゃくちゃうれしかったですね。
──それまでは3人一緒とか?
そうですね。宿の予約も僕がやりくりしていたんで、全員一緒の部屋に泊まったりすることもありました。あとは対バン相手の家に泊まったり、夜走りしてライブハウスの駐車場で朝まで車で寝たこともあったし。ラブホで2人ずつに分かれて寝るとか、そういうこともありました(笑)。ずっとそんな感じだったんですけど、メジャーに移って最初に大阪行ったとき、ホテルが1人部屋で。あれは本当にうれしかったですね。
<後編に続く>
坂本慎太郎(サカモトシンタロウ)
1989年に結成したゆらゆら帝国でボーカルとギターを担当。バンドは10枚のスタジオアルバムや2枚組ベストアルバムなどを発売後2010年に解散した。翌2011年に自主レーベル・zelone recordsを設立しソロ名義での1stアルバム「幻とのつきあい方」をリリース。2013年にシングル「まともがわからない」、2014年に2ndアルバム「ナマで踊ろう」、2016年に3rdアルバム「できれば愛を」を発表した。2017年にドイツ・ケルンで開催されたイベント「Week-End Festival #7」で初のソロライブを実施し、2018年1月には東京・LIQUIDROOMで国内初となるソロでのワンマンライブを開催した。2022年6月に約6年ぶりとなる最新アルバム「物語のように(Like A Fable)」を発表した。また自身の制作のほかにも、さまざまなアーティストへの楽曲提供やアートワークの提供など、その活動は多岐に渡る。
バックナンバー
- 松永良平
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1968年、熊本県生まれの音楽ライター。大学時代よりレコード店に勤務し、大学卒業後、友人たちと立ち上げた音楽雑誌「リズム&ペンシル」がきっかけで執筆活動を開始。現在もレコード店勤務の傍ら、雑誌 / Webを中心に執筆活動を行っている。著書に「20世紀グレーテスト・ヒッツ」(音楽出版社)、「僕の平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」(晶文社)がある。
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