新型コロナ感染で急逝した江崎マサルが見た夢と、突然プロデューサーを失ったhy4_4yhの決意
志半ばにしてチームの最重要人物と死別、しかし彼女たちは自分の足で歩き続けることを選んだ
2021年11月11日 19:15 72
江崎マサルが新型コロナウイルス感染のため2021年8月31日に亡くなった。55歳だった。江崎はヒップホップユニット
この記事では16年以上にわたり江崎と活動をともにしてきたhy4_4yhの2人に話を聞きながら、彼の遺した足跡を振り返る。また2人にはhy4_4yhの今後についても語ってもらった。
取材・
感染判明から8日後、容体が急変し帰らぬ人に
今回のhy4_4yhへの取材は江崎が亡くなってから約2カ月後の某日に行われた。yukarinとchanchalaの2人はこの間どんな思いで過ごしていたのだろうか。
「Pちゃん(江崎の愛称)に伝えたい感謝がまだまだあったなって痛感してるし、今も後悔ばっかりの毎日です。こないだもメソメソしながらでかい公園を徘徊してました。Pちゃんが亡くなってからほぼ毎日chanchalaと一緒に過ごしてるんですけど、そういう時間の中で『Pちゃんだったらこんなときどうしてたかな』みたいなことを常に考えてますね」(yukarin)
「私は躁鬱が激しくなって、起きたときはハイなのにすぐにドーンって落ちちゃったりで、yukarinが毎日家に来てくれるおかげでなんとかなってる感じです。生と死みたいなことだけずっと考えてしまう。今は夜も1人で眠れなくなっちゃってお母さんの足元で寝るようになりました」(chanchala)
江崎はここ数年、静岡の実家と都内の自宅を行き来しながら平日は実家で母親の介護、週末に自宅で音楽制作を行う日々を続けていた。8月24日に新型コロナウイルス感染が判明した際にはまだ軽症だったこともあり、静岡の実家から車で数分のところにある別宅での自宅療養を選択。保健所の指示を受けつつ8月31日午後までは家族やメンバーとも連絡を取っていたが、その後病状が急変し、9月1日に別宅を訪れた家族がソファの上で亡くなっている江崎を発見したという。
「31日の昼頃にPちゃんに電話をかけたら出たんですけど、めちゃくちゃ息苦しそうで。『自分はしゃべれる状態じゃないけど週末のイベントの件で担当の人に連絡してほしい』っていうのだけどうにか聞き取れて『わかりました』と言って電話を切ったのがPちゃんとの最後の会話でした。次の日の朝スタッフさんから『江崎が亡くなりました』と連絡が来たときは『えっ!』ってもう頭が真っ白になってしまって。亡くなったソファのすぐそばに、ギターと私たちのグッズの湯呑みが置いてあったと聞きました」(yukarin)
“ちょっと妖精みたい”な江崎マサルの、これまでの道程と知られざる素顔
ここからは江崎の経歴を振り返ってみたい。本名は江崎博洋(ひろみ)。静岡県藤枝市にて生まれ育った江崎は、その端正な顔立ちが芸能プロダクションの目に止まり、俳優を目指して上京。「加藤永二」という芸名で根津甚八主演「ゴト師株式会社 悪徳ホールをぶっ潰せ!」(1993年)や渡辺美奈代主演「麗霆゛子 レディース!!」(1994年)などの映画・Vシネマ作品に出演した。
しかしもともとミュージシャン志望だった彼は早々に俳優業に見切りをつけ、共演者の紹介で出会った葉加瀬太郎プロデュースのもと1995年にロックバンド「STROBO LOADIES(ストロボローディーズ)」を結成する。
江崎はボーカルと作詞作曲を担当しその才能を開花させるも、バンドは音源リリース直前で惜しくも解散。その後はソロアーティストに転身し「ザ・エザキマサル」名義で2001年にメジャーデビューを果たした。当時の衣装はなぜか文豪をイメージした着流し姿。自身の音楽を“SFロック純文学”と呼び、1stアルバム「ビート文豪 処女作集 ~我が愛しのロミ篇」をはじめソロで計5枚のCDをリリースしている(※ザ・エザキマサルの音源はこちらのサイトで今も試聴可能)。
ちなみに当時行きつけの楽器店は渋谷のイシバシ楽器だった。原宿界隈で過ごすことも多く、カフェバー「OH! GOD」やレストラン「ZEST」によく足を運んでいたが江崎は酒もタバコもやらないため、バンドの打ち上げでワイワイ騒ぐ仲間を眺めながらいつも紙にイラストや歌詞を書いていた。店にあった「アダムス・ファミリー」のピンボールが得意でよくプレイしていたという。
その後も江崎はあふれんばかりのクリエイティビティを存分に発揮し、2004年頃からはソロと並行して4人組ロックバンド「AMIDA」、すわひでおとのユニット「すわマサル」「SMフレンズ」、琉球音楽アコースティックバンド「島グニーズ」といったグループを作り、フロントマンとして精力的な活動を続けた。そして2005年からhy4_4yh(前身ユニット含む)のプロデュースを手がけ、こちらはその後16年以上続く彼のライフワークとなった。
「Pちゃんは自分の話をマジでしないんです。本名も年齢もPちゃんの口からは聞いたことはなくて、亡くなってからご家族に教えてもらいました(笑)。ちょっと妖精みたいな感じでしたね」(yukarin)
なるほど“妖精”とはよく言ったもので、筆者もライブや取材の現場で彼とはたびたび顔を合わせているが、気さくで柔和な笑顔と裏腹にどこかミステリアスな雰囲気が記憶に残っている。生前遺したエッジイな作品群が示すとおり、彼は単なる人のいいお兄さんではなかった。その穏やかな表情の奥には底知れない才能と隠しきれない狂気がいつも渦巻いていたように思う。
「それは間違いないです(笑)。誰よりもPちゃんが一番ヤバかったです。どう伝えたらいいのかな。Pちゃんが亡くなったあとご家族と一緒に自宅にお邪魔して掃除とかしてたんですけど、棚を開けたらものすごい量の小銭が出てきて、500円玉貯金の缶と小銭でいっぱいの紙袋がすごい量あったんですよね。とにかく収集癖がすごかったみたいで、ギターがたくさんあるのはわかるんですけど、棚に『クイックルワイパー』が死ぬほど入ってたり、ケーブルだらけの棚があったり、マジでなんなんだという感じでした(笑)」(yukarin)
「一番ヤバかったのが、冷蔵庫を開けたらおびただしい量のペットボトルがぎっしり入ってたことですね」(chanchala)
「だいたいお茶なんだけど全部賞味期限が切れてたよね。野菜室はPちゃんが大好きだった『つぶらなカボス』っていうジュースで埋まってて、それも全部賞味期限が切れてる。たぶん買ったことを忘れちゃうんでしょうね。Pちゃんは飲み物をめちゃくちゃ飲む人で常に水やお茶を飲んでて、ひどいときはズボンのポケット全部にペットボトルが入っててその重さでズボンが下がってました(笑)」(yukarin)
江崎がhy4_4yhに託し続けた思い
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吉田光雄 @WORLDJAPAN
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