蓮沼執太の音楽履歴書。

アーティストの音楽履歴書 第29回 [バックナンバー]

蓮沼執太のルーツをたどる

常に新しいものを追い求めて、人も音楽もつながっていくほど面白い

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アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回は音楽家としてのソロ活動や、蓮沼執太フィル / フルフィルとしてのグループ活動、個展やインスタレーションといったアート作品の制作などを幅広く手がける蓮沼執太にアーティストとしてのルーツを聞いた。記事の最後には、彼の音楽的なルーツとなった楽曲で構成されたプレイリストも掲載する。

取材 / 南波一海

生徒会長でピアノ伴奏をしていた小学生時代

母親がよく言うには、幼稚園くらいの頃はよく鼻歌を歌っていたと。だから歌とか音楽みたいなものはずっと好きだったんだろうなと思います。幼稚園の中にあった音楽教室みたいなものに通わされていたので、みんなでやろうみたいなクラシックの曲に触れていました。覚えてないけど、普通にチャイコフスキーとかブラームスとかなんじゃないですかね。

小学生のときにおばあちゃんがエレクトーンを買ってくれて、すごく暇な時間に弾いたり、今でいうシーケンスが組めるので、音を重ねて遊んだりしていました。ある意味、今とやってることは一緒ですよね(笑)。でもそれをやったのは小学校時代の本当にわずかな時間です。

あとは、ちょっと耳がいいのと譜面が読めるのもあって、低学年の頃はずっと合唱会とかでピアノ伴奏をやらされてました。これはあまり言いたくないんですけど、生徒会長をやっていて、いわゆる学級委員キャラみたいな感じなので、そういうのをよくさせられるんですよ。ちゃんとしてるふうの子だったというか……(笑)。僕、いじめが大嫌いで、いじめられてる子に声をかける子だったんです。かつ、超悪いやつとも仲良かったりするので、そういう性格が人に見抜かれていたのかもしれない。

幼稚園で鍵盤を弾く蓮沼(左端)。

幼稚園で鍵盤を弾く蓮沼(左端)。

小学校高学年になると、僕らの時代はレンタルCD店が盛んだったので、流行っていたJ-POPを片っ端から聴いてました。特定のアーティストとかジャンルが好きというのはなくて、レンタルCD店という与えられた領域の中でドサドサ借りてずっと聴いてました。音楽とかアートは自分で知っていった感じなんです。

父は大滝詠一が好きだったんですけど、いわゆる音楽好きでジャズとかクラシックのレコードがたくさんある家ではまったくないし、僕は長男なので、兄貴の影響であれを聴き始めて、みたいなこともなくて。そういう子に対して悔しいと思っていたくらいですし(笑)。だから、たくさんレンタルしていたのは音楽が好きとかじゃなくて、そういう子よりも知っていたいという気持ちの表れだったのかもしれないです。

通学で世界が一気にばかっと開けた

中学校は私立に入るんですけど、急に世界が変わりました。まず、音楽を聴く時間が通学で莫大に増えて。そのタイミングで守備範囲も広がって、タワーレコードとかHMVに行けるようになったんです。読書とかに関してもそうなんですけど、一気に世界がばかっと開けたんですよね。その頃は今よりも雑誌が強くて、ファッション誌とかを見ると全然知らない音楽が載ってるわけですよ。今考えると偏ってたなと思うんですけど、アメリカのヒップホップとか、イギリスのダンス音楽とか、裏原系の人がお薦めする音楽が新たな情報として入ってきて。やけにハウスがカッコよく思えたりもしました。DJ EMMAっていう人がいるんだ、みたいな感じで。

というのと同時に日本語ラップが盛り上がってきて。僕が中1のときに「さんぴんCAMP」が開催されて、シーンが形成されていったんです。中学に入ると急に日本語の音楽を聴かなくなったんですけど、日本語ラップだけは聴いてました。よく聴いたのはBUDDHA BRANDですかね。2枚組のベスト(「病める無限のブッダの世界 ~BEST OF THE BEST(金字塔)~」)はすごく聴いてました。ある世代で日本語のラップを聴いてる人には大きい作品だから、ここでこれを挙げるのは当たり前すぎますかね。

中学2年生の頃、イギリス・ロンドンのホームステイ先の家族と。

中学2年生の頃、イギリス・ロンドンのホームステイ先の家族と。

僕らの時代だとミュージックビデオが超流行っていて、MTVとかスペースシャワーで流れるBeastie BoysやTalking Headsといった洋楽のMVが面白いなというのもありましたね。あと僕はディスクガイドが嫌いなので、アンビエント50選とかヒップホップ50選みたいなものを見るよりかは、CDショップのポップを見てまぐれヒットを狙う買い方もしてましたね。お金がない中で。あと、ちょこっとスケボーをやっていたので、そうするとハードコアも避けて通れなくて。スケートビデオってヒップホップとかハードコアが本当に同列でかかるんです。それも入り口になりました。DC系というか、Minor Threat、Fugaziと聴いていって。それも雑誌やカルチャーの影響もあるかもしれないなあ。何がカッコいいのかもわからないんですけど、カッコいいんだろうという感じでどんどん掘っていきました。「ディスコード(・レコード)ってなんなんだろう?」って思いながら(笑)。

僕の中ではアメリカのハードコアとかインディーズミュージックと、のちのポストロックというのは全然違う経路でたどり着いたものなんですけど、ポストロックをやってる人はもともとハードコア出身の人だったり、地元の音楽仲間で新たに結成されたバンドが多くて、そこがつながってるのはうれしいなと思いました。結局はそうやって、ヒップホップだったらサンプリングからソウルとかファンクにつながってモータウンはこんなにいろいろあるんだと知ったり、Afrika Bambaataaの「Planet Rock」からテクノにいくとか、音楽の中を泳げば泳ぐほどつながっていく感じが面白かったんですよね。

同級生の斉藤亮輔とOasisを演奏した学園祭

自分が音楽を作り始めるのはまだ先です。でも高3の頃、フィルのメンバーで同級生のさいちゃん(斉藤亮輔)が学祭でOasisをやりたいと言っていて、彼は僕が鍵盤弾けるのを知ってたので、ピアノを頼まれて弾きました。けっこうイヤでした(笑)。中高とずっと勉強してなくて、勉強しないと大学行けないなと思っていた時期だったので、大事なときに誘われてしまったという思い出がある(笑)。さいちゃんのバンドだから参加したし、そうでもなければ今も一緒にやっていないです。そういう遊びのバンドをやったりはしましたけど、自分で作るみたいなことは一切ないですね。その時代は何もなく、ただ街をぷらぷら歩いたりしてました。本当に何もしてなかったです。

大学に入っても変わらず、音楽を作り始めなくて(笑)。二十歳を過ぎてからヤマハのMTRを買ったくらいなんですよね。けど、今思うと……中学生くらいだったかな、VAIOが発売されたときに、それがあれば1人で音楽が作れるというのを知って、そういうのっていいなとは思ってた気がする。進路を決めるときも、好きだから美大とか音大に行くかと思ったりもしたんだけど、やっぱり人に教わるのはイヤだなと思って。変にヒップホップとかのインディペンデント精神の影響を受けちゃったんですね。とにかく、VAIOいいなとは思ってたんだろうけど、ちょっと思った程度で、ガチで音楽を作ろうとは思ってはいなかったです。

その頃には、それこそ「FADER」を読んだり、disk unionとかWARSZAWAに通って新譜を追うようになって、どんどんリテラシーが付いていくんですよね。エレクトロニカとかも聴いていく中で、ポップなものはダサいと思ったりしてました。リスナーとしても主義があると思っていたタイプなので、今思うとそんなの捨てたほうがいいんですけど(笑)、ポップなものよりストイックなほうがカッコいいんだと思いながら聴いてました。パソコン内でジェネラティブに音を完結させるほうが男前だ、というタイプのリスナーだったんですよ。ただの未熟者だったという(笑)。でも、そういうリスナーが常にいるというのは僕も作る側になっても思っているし、そういう気持ちと対峙できるようにしっかりしなきゃなと。当時の自分の経験を踏まえながらやっています。

音楽を作ることになったきっかけは、大学の課題で環境音を録っていたことでした。当時はもうクリス・ワトソン(イギリスのフィールドレコーディング作家)とかも聴いてたんですよね。だからフィールドレコーディングも音楽として扱われるんだという意識はあって、こうやって録音するんだって学んだりしていきました。それと、なんで始めたかは覚えてないんですけど、パソコンでパッチを組んで電子音を作るみたいなこともちょこっとやっていて。それらを組み合わせてちょっとメロディを作ったら音楽ができた、みたいな感じのものがファースト(「Shuta Hasunuma」)なんですよね。MySpaceに曲を上げていたんですけど、そこでアメリカのWestern Vinylというレーベルからコンタクトがあったのと、僕からもデモを送ったりしていて。前後関係は覚えてないんですけど、MySpace経由での出会いでした。Western Vinylって今もやってるんですよね。すごいことだと思います。1枚目はさらっとできてしまって。自分と対峙して突き詰めたものではなく、わりとこう、あるものを自然に出しちゃったという感じ。それを編集したりコンポジションするスキルもなかったですし。そういうアルバムなんです。それも気に入ってはいるんですけどね。

HEADZ佐々木敦との出会い、mabanuaと初バンド結成

2006年から2008年まで、「POP OOGA」ができるまでは毎日制作してました。バイトも削ってましたね。家でのレコーディング方法や音の作り方とか、全部にのめり込んで、ずっと作業していて。夕方になったら肩が凝ってるからマラソンして。そのルーティンでした。佐々木敦さんと出会ってHEADZから「POP OOGA」を出すんですけど、佐々木さんって要はチャンスオペレーターなので、「この人はこうすれば面白くなるんじゃないか」というのを考える才能があるんです。「蓮沼くん、今までやってきたことを1枚にまとめるべきだよ」と言われて、初めて自分のクリエイションにお題をもらったんです。そうか、まとめてみよう、できることを全部出してみようってことで1年くらい毎日作って、できたのが「POP OOGA」なんです。2、3年くらいの間で学んだDAWでできることを全部投入しました。今聴くと粗い部分はあるんですけど、アルバムとして満足できるものではあります。

石塚周太、尾嶋優が初めて加わったバンド編成ライブの様子。

石塚周太、尾嶋優が初めて加わったバンド編成ライブの様子。

それまではずっと家にいたんですけど、HEADZに出入りするようになって人と出会うようになりました。一番大きいのは「POP OOGA」のリリースパーティがあったことですね。ASUNAの嵐(直之)くんとかキノピー(木下美紗都)も出ていて。僕は自分の音源をピッと再生して、それに合わせて弾くみたいなのがすごいイヤで。全部生演奏にしようと思って、そのときに「チーム ポップ オーガ」というのを作って、バンド編成で初めてやりました。さいちゃんと文化祭でやったりしましたけど、人と音楽を演奏するというのはそれ以来初めてだったから、そういうことを含めてリリースパーティで広がっていったというのはあります。そのときは勝賀瀬司くんとmabanuaと僕という編成。そのあと石塚周太くんと尾嶋優さんとイトケンさんに入ってもらって、いまのフィルの原型になっていきました。

チームとしていろんなところでライブをしていく中で、HEADZがドイツのOvalの来日公演を企画したときに、佐々木さんから出演を打診されたんです。そのときに「いつもと違うような感じで、例えば弦とか管とか入れて楽団みたいにしちゃえばいいんじゃない?」みたいな提案をされて、僕も「じゃあ考えてみます」と。それでいつものメンバーに加えて、特別バージョンの編成を組んで代官山UNITに出たんですよね。そのときの編成を蓮沼フィルと名付けました。

よく言ってるんですけど、あのライブは大失敗だったと思っていて。悔しくてしょうがなくて絶対リベンジしてやると思って、VACANTで「ニューイヤーコンサート2011」というイベントをやったんですよね。そのときのライブで、それまでにない手応えを感じたんです。自分のライブでは一切感動したことがなかったのに。自分1人では作れない現象だなと思いました。そこからフィルの活動が続くようになって今に至るという感じですね(笑)。

いつも言うんですけど、インスタレーションや展覧会も音楽的に考えているので、あえて今回の履歴書に載せてみたところはあります。こう並べて見てみると本当にアルバムのようなニュアンスというか。もちろんアウトプットは違うし、ジャンルも違うと言われたら違うんですけど、僕としては展覧会も1個の作品という気持ちで作っているし。そのせいでソロアルバムというものが本当に少ないんですけどね。「メロディーズ」というソロアルバムがあるんですけど、最初から歌モノにするというコンセプトで作ったものなので、「POP OOGA」みたいなものとはちょっと違うというか。

あと、ここに書いた中で大きいのは、アメリカに渡ったことです。「Asian Cultural Council(ACC)」という、アーティストを半年間ニューヨークに送り込むプログラムに選ばれたんですね。で、村上隆さんとかもそうおっしゃっていたんですけど、ACCでニューヨークに行ったら何もしないっていうのがあって(笑)。考えてみたら自分はずっと動いていたし、アメリカで何もしないのはいいなと思ったんです。で、ニューヨークでは人に会ったり、作品を見たり、観劇したり、コンサートに行ったりしてました。「アウトプットもインプットだ」くらいの感覚で人生進んできたので、ニューヨークでの半年間は、ひたすら人の作品に時間を費やす期間になりました。あれはぜいたくだったなあ。戻りたいくらいですね。

「Asian Cultural Council(ACC)」で過ごしたアメリカ・ニューヨークでの様子。

「Asian Cultural Council(ACC)」で過ごしたアメリカ・ニューヨークでの様子。

変化は常に起こしておきたい

最後にアルバムの話もしたほうがいいですよね。蓮沼フィル / フルフィルの第1期が「時が奏でる」までで、第2期が「Meeting Place」「東京ジャクスタ」というイベントをやって、「アントロポセン」を出して、ツアーして、「フルフォニー」を録音したところまで。これから次の第3期に臨もうというところなんですよね。だから8月にリリースした「フルフォニー」は、第2期の完全集大成という感じです。

蓮沼フィルというと、RYUTistでやったように(※蓮沼は新潟のアイドルグループRYUTistのアルバム「ファルセット」に「GIRLS」「ALIVE」の2曲を提供)、音を聴けば「蓮沼フィルですね」と伝わるくらいに個性がある。楽器構成が決まっていて、そこに歌が乗るというスタイルができあがっているんですよね。それはとてもいいことだし、一方でとても悪いことでもある。どんどん前進して新しいものにしていきたいんですよ。フィルはメンバーそれぞれ活動しているので、その都度スタイルが変化して、新しい発見がある。そこが魅力で続けてきたというのがあるんです。だけど、活動を続けてきた中で、ある程度形ができあがって、さらに当て書きのようにしてスコアを書いてレコーディングした「アントロポセン」というアルバムまで作って。バンドとしても仲がいいし、ぎゅっとしたいいものができてはいるんだけど、やはり前進していくには、そこに甘んじることなく、むしろ真逆の関係性を持ち込むことで何か作れるんじゃないかっていう発想があって。それをメンバーにも伝えて、OKをもらったうえでメンバーを一般公募してやってみたというのがフルフィルです。

新しいことを作り出すには、自分がやってきていることを壊さなきゃいけないと思うんです。変化は常に起こしておきたい。こうして振り返るとフルフィルに限らず、ずっとそうしてきたんだなって思います。もしかしたらそれが僕の活動をわかりにくくしてるのかもしれないんですけどね(笑)。

蓮沼執太(ハスヌマシュウタ)

蓮沼執太

蓮沼執太

1983年9月11日生まれ、東京都出身の音楽家。2006年10月にアメリカのインディーズレーベルから発表したアルバム「Shuta Hasunuma」でデビュー。2010年に総勢16名からなる現代版フィルハーモニックポップオーケストラ「蓮沼執太フィル」を結成し、2014年1月に1stアルバム「時が奏でる」をリリースする。2016年2月には蓮沼がシンガーソングライターとして制作したソロアルバム「メロディーズ」を発表。11月に公募から選抜した新メンバー10名を蓮沼フィルに追加した26名の新たなクリエーション「蓮沼執太フルフィル」を始動させる。2018年8月に東京・すみだトリフォニーホールにて蓮沼執太フルフィルのお披露目公演「フルフォニー」を行った。2019年には平成30年度「第69回 芸術選奨 文部科学大臣賞」メディア芸術部門において新人賞を受賞。同年8月に東京・日比谷野外大音楽堂で蓮沼執太フィル単独公演「日比谷、時が奏でる」を開催し、この模様を収めたBlu-rayボックスが2020年4月に発売された。5月には蓮沼フィルが完全リモートで制作した楽曲「Imr」を配信リリース。8月に蓮沼執太フルフィルとしての1stアルバム「フルフォニー|FULLPHONY」を配信し、10月に同作のCDとアナログが発売される。

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