坂口は今回のこの取材のあと、スピッツについて独自の見解とあふれるスピッツ愛をつづった手記を送ってくれた。ここでは「坂口孝則が語るスピッツ 番外編」として掲載する。
文 / 坂口孝則
スピッツ私的10曲
20年前。毎日2冊の書籍と1本の映画を貪って、週末になるとメタルやハードコアのライブに行っては酒を飲でんいた。そんな大学生にとって、突然下宿先のCDデッキで聴かされたスピッツの感想について正しく伝えるのは難しい。それは単なるポップスにも聞こえたし、流行歌を超えた革新にも聞こえた。ただ少なくとも感じるものがあった。私はここで、スピッツを聴くことで生じた劇的な人生の変化を偽りたい衝動に駆られる。しかし、スピッツこそが、私の変わらず、変われない自己を描いていたのではないだろうか。やはり私は、偽りなくただただ、スピッツの楽曲を聴き続けてきた。
私が選ぶ、スピッツの私的ベスト10は次の通りだ。
「Y」(「ハチミツ」)
「P」(「さざなみCD」)
カバー曲「初恋に捧ぐ」(「おるたな」)
「新月」(「とげまる」)
「愛のことば」(「ハチミツ」)
「夢追い虫」(「色色衣」)
「春の歌」(「スーベニア」)
「みなと」(「醒めない」)
「ホタル」(「ハヤブサ」)
「若葉」(「とげまる」)
この順位の意味はほとんどない。しかし重要なことに、私にとってベスト曲には共通点がある。それは、“なぜ私がスピッツに惹かれたか”を示している。私が思うに、スピッツの歌詞は何かを求めている。しかもそれは、求めても手に入らないと“あらかじめ”わかっている。その何かとはいったいなんなのか。多くの楽曲で愛する対象となっている「君」とは何で、なぜ私はそれらの楽曲に惹かれざるを得なかったのか。私にとって、音楽評論家の、あるいは音楽ライターの語る正統なスピッツ解釈にはまったく興味がない。また、さらに言えば、熱心なスピッツファンが理解するところのスピッツ楽曲からも無縁でいたいと思う。10人の恋があれば10通りの恋があると歌うスピッツに対し、スピッツをスピッツ的に読み解くならば、単一の解釈を強制されてはいけない。
なお、以下はスピッツ楽曲の解説ではない。そんなものをやる場ではない。あくまで私の思い出と経験ゆえの自分語りにすぎない。
スピッツの悲しき魅力
たとえば、ユーミンのテーマは「青春と恋愛」と答えられる。サザンオールスターズのテーマは「恋愛の狂騒と静寂」と答えられる。しかしスピッツの場合は単なる「過去の恋愛への望郷」ではなく、「失恋」でもなく、もっと複雑で、テーマを表現するのは難しい。あえて言えば、「過去の恋愛の、成就しなかったゆえの美」。
スピッツの音楽には、過去に眩く輝ける恋愛があって、彼女・彼では代替できない喪失がある。現在はその輝きは完全に消え去り、取り返しのつかない中で「とにかく生きていこう」とする遺失の美がある。至高の恋人と自分は永遠に断絶されており、その思い出を忘れさせてくれる人間はもはや登場し得ない。
個人的にこのような経験をしたリスナーであれば、スピッツの、もっと言えば、草野マサムネさんの曲は深く心に刻まれる。スピッツの全曲が同じテーマと言ってはいない。一般的にアーティストは、特定のテーマを意識し創作してはいない。ひたすら、優れた楽曲を出し続けようともがき続けているにすぎない。しかし、ご本人たちが偶然に生み出した楽曲が、なぜかそのアーティストの業を表現している事実に私は注目せざるを得ない。
どのような人間も、過去が輝くだけで未来が雲に覆われていては生きる意味を見出すことができない。少なくとも、過去の輝きとは別に、将来がよりよくなる可能性を信じなければ生きていけない。過去の失敗は、将来をよくするための必然的な“学び”であるべきで、あとから振り返ると、むしろ失敗してよかったのだと認識されねばならない。ただただ過去がよかったのではいけない。当たり前だが、私たちは現在を生きているからだ。
だがしかし、スピッツにおいては「君が思い出になる前に」が象徴するように、「君」が「思い出になる」のはもはや決まった世界にいる。輝きが過去のものになる必然の世界。それなのに、ただただ、笑ってみせて、困らせて、と諦観する態度。その美を表現したのは、スピッツが初めてだろうと私は思う。
社会の進化を前提とするマルクス、ヘーゲル的というよりも、近代の絶望を描いたフーコー的な美しさ。過去をひたすら美しいと歌うのは歌謡曲的哀愁でもある。桑田佳祐さんは、きっと、その歌謡曲的哀愁が日本人を籠絡する魅力的手法だと知っている。しかし、誠実すぎる桑田さんは、その手法だけにとどまることができず、「マンピーのGスポット」といった偽悪的な曲を歌うのだ。
もちろん、スピッツは過去の輝きを歌うだけではない。スピッツの曲タイトルには「おっぱい」などエロティックなものがある。「波のり」はセックスの暗喩だし、「ミーコとギター」の歌詞「ギター」は性器の象徴として使われている。しかし、草野マサムネさんの声質ゆえに、意味は漂白され、スピッツの楽曲はまるで聖母を讃える聖歌のように響く。
冒頭で述べた通り、草野マサムネさんの歌詞では、「君」との恋が多く書かれている。しかし、きっとその恋愛は、現実には一度たりとも実現したことはなく、想像上の出来事であるはずだ。ただただ想像上の過去が広がり、それを喪失と傷のみがある現実と比較される。それでもなお、存在しない恋愛への郷愁は、リスナーの心に闖入していく。
スピッツが歌っているもの
草野マサムネさんは、ビートパンクのバンドを愛聴し、その独自性にショックを受けたエピソードは有名だ。THE BLUE HEARTSなどのバンドを聴き、その後、パンク路線を狙うものの、その過程で、自分たちには合わないと頓挫する。私は失礼ながら、この“合わなさ”による転向が幸運だっただろうと思う。なぜなら、同時にそれ以降、社会や歴史を変えたロックという社会運動は、そのうち力をなくすことになるからだ。スピッツの、そして、草野マサムネさんがたまたま選んだ国民歌謡戦略は功を奏し、スピッツの楽曲は人気を博す。そして、草野マサムネさんが憧れた、ロック、さらにいえばパンクやメタルといった革新運動は、もはや影響度を持てない。今、ビートパンクやメタルといった音楽を誰が聴いているだろうか。
なお、私は、ロック、メタルという音楽を愛聴しており、専門誌に寄稿している。その立場から言っても、分野内でのタコツボ化が激しく、「これはメタルだ」「これはメタルではない」という議論ばかりで、もはやインテリのみが聴く音楽に成り下がった。草野さんが愛聴したメタルは、もともと英国の金属加工工場で働いていたミュージシャンが指を切断し、社会への反抗、社会からのドロップアウトを歌った怨恨の音楽だった(金属=メタル)。それゆえにメタルは社会を揺らす音楽となり得た。
しかしもはや現代には、資本主義や体制などといった、わかりやすい仮想敵は存在しない。反抗のロックに対して、成り上がるための音楽だったヒップホップが興隆し、今や米国音楽産業では、ロックの売上をヒップホップが上回る。パンクやメタルではなくポップスや国民歌謡を選んだ草野マサムネさんは勝利したのだ。
しかし、それゆえにスピッツをとある文脈に置くことができる。私は「君」との恋愛は想像上の恋愛であると指摘した。では、その「君」とは何か。答えはもう自明と思うものの、スピッツの歌詞における「君」とは、すなわち「社会変革としてのロック」ということになる。スピッツは、「社会変革としてのロック」との、存在しない恋を歌い続けたことになる。例えば名曲「楓」は「忘れはしない」と前置きしたうえで、「さよなら」と宣言し「僕のままで どこまで届くだろう」と叫んでいる。これはロックへの美しき埋葬歌でありつつ、育て親への決別歌と解釈すればわかる。なお楓は、辞書的にいえば、美しい思い出を意味する。なぜ「空も飛べるはず」ではなく「空を飛べる」と言えなかったのか。「隠したナイフ」の似合わない自分が「自由に空を飛べる」ではなく、「飛べるはず」としか言えなかったのか。それは、すべて“社会変革としてのロックと自分”を歌ったのだと思えば理解できる。
私はここで「スピッツはロックではない」とは言っていない。もちろん、スピッツには、ビートパンク風、リフがメタリックな曲もある。そして、スピッツは、いわゆるロックバンドという評価に私も賛成する。私が言いたいのは、“社会改革としてのロック”へのルサンチマンを“人気”という形に転化したスピッツの業に似た宿命のことである。
ロックという革命は終わった、あとは、リスナーはタコツボ化した狭い音楽的嗜好のなかで、自分たちの小宇宙のなかで生きて行かざるを得ない。まさにスピッツファンのコミュニティがそうだろう。音楽には、社会全体の意識を統一しようとする思想は存在しなくなった。
スピッツの完全な勝利
もはや音楽には社会的意味がなく、個人的な意味しか持たなくなった。それは、きっとビートパンクから離れ個人の恋愛を歌い続けた草野マサムネさんが希求した状況だったはずだ。しかし、その勝利が完全になった瞬間、逆説的に哀しみは増していく。目指すべき状況が到来した、だから哀しい、という逆説。
なぜ、スピッツが2017年に「1987→」でビートパンクのような楽曲をあえて再現してみなければならなかったのか。ファンであれば、哀しみの観点から読み解かねばならない。名曲「ホタル」で「変わり続ける街の中で」なぜ「忘れたくない鮮やかで短い幻」という表現を使い、「それは幻」と決定的な決別歌を歌わねばならなかったのか。失われて戻ってこない対象物への哀愁。これが、スピッツに無意識のうちに感動や心の震えを感じ、そしてほとんど骨抜きになっている人が多い理由に違いない。
ヒップホップでは、パーティと狂乱を歌う。そして、歌姫たちはリアルな失恋を歌う。この2つはまったく異なるようで、ほとんど同じ性質を持っている。ヒップホップは踊る力があり、失恋はそれ自体に恨む力がある。それに対して、スピッツは、愛した対象がもはや存在していない。力を発揮すべき対象はすでに失われている。そのうえで、哀しみの果てに、「それでも生きていかねばならない」という次元にまで力を昇華してしまっている。
それにしても、死んでしまった恋人を心に抱き続けることによる生きる力など存在し得るのだろうか。それは、生きるものに燃えるような情熱を叩きつけるものではない。むしろ、存在しないものに対して、それでもなお、そこに生きる意味を見出し燃やし続ける“情念”に似た類の炎である。
きっとそれは、草野マサムネさんがビートパンクという音楽に頓挫してもなお、ポップスや国民歌謡で人気を博している倒錯ゆえの炎にほかならない。
草野マサムネさんが30年間ほどさまよってきた音楽界で、ロックが死んでもなお、この世界を肯定する理屈はあるだろうか。それこそまさに、「君」は死んだ、でも「それでも生きていかねばならない」という前述の価値観にのみ支えられているのかもしれない。
スピッツの楽曲が表現する失ったものへの途方もない喪失感が、そして、過去の失敗が、なぜだか他者への優しさへとつながる。さらにそれが、なぜか同じ悩みを抱えるリスナーの生きる支えとなり得る──。
もしかするとスピッツを聴いているファンの少なからぬ年齢層は「人生こんなもんさ」と納得し合う世代なのかもしれない。しかし、きっと私たちはスピッツを聴くとき、諦観と青春の中間にいる。
この解釈が正しいのか、ご本人たちに会ったらぜひ聞いてみたいと思うのだ。
<了>
坂口孝則
佐賀県生まれ、大阪大学経済学部卒のサプライチェーンコンサルタント。「週刊プレイボーイ」「幻冬舎PLUS」「日経×TECH」などで連載を担当するほか、「未来の稼ぎ方」「営業と詐欺のあいだ」「調達・購買の教科書」など著作も多数。現在日本テレビの情報番組「スッキリ」にコメンテーターとして出演している。
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