音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く連載「あの人に聞くデビューの話」。前回に引き続き、
取材・
大滝詠一とのファーストコンタクト
──1985年6月15日に国立競技場で開催されたライブイベント「ALL TOGETHER NOW」に、デビュー直前のピチカート・ファイヴは出演します。この日限りの再結成が実現した
あの日は、はっぴいえんどのメンバー全員がここにいるというだけでドキドキしました。大滝詠一さんが僕らのコーラスパートの振り分けをする担当でした。SHI-SHONEN、ワールドスタンダード、ピチカート・ファイヴのメンバー1人ずつに「声を聴かせて」って訊ねて。僕の声を聴いたときは「高いか低いかわかんない」って言われたので、「じゃあ僕、低いほうにします」と返事した記憶があります。
──大滝さんとのコンタクトはそれが最初?
実は高校生のときに一度お会いしてるんです。「GO! GO! NIAGARA」がリリースされた1976年に、全国で大滝さんがDJパーティをするというキャンペーンがあって。
──大滝さんの公開ラジオDJみたいなイベントですね。
当時僕が住んでいた札幌にも大滝さんが来てくれて。サインをもらおうと思って会場までレコードを持っていったんだけど、チャンスを逃してしまった。帰りに札幌リズム社という中古レコード店に行ったら、なんとそこに大滝さんがいたんですよ(笑)。店主が普段は絶対出さない箱を2つぐらい大滝さんに見せてました。それで、大滝さんに「さっきのイベントに参加しました。サインもらっていいですか?」と声をかけたら、大滝さんは「ちょっと待ってて」と言ったまま、ずっとレコードを見てる。要するに、サインするよりレコードのほうが大事な人だった(笑)。
レーベル移籍~CBSソニーから再デビュー
──最高のエピソード(笑)。話はデビューに戻りますが、当時、取材やリリースパーティなどはされましたか?
シークレット的なお披露目ライブみたいなものを、確か六本木のインクスティックでやったんですよね。いろんな人が観に来てくれた記憶があります。特にインタビューとかは受けてないと思うけど、僕の記憶違いかな。
──その後わりと早くにCBSソニーに移籍するとはいえ、ノンスタンダードでの次への構想はあったんでしょうか? 例えば、アルバムをリリースするというようなことですが。
あったことはあったんです。だけど、2枚目のシングル「アクション・ペインティング」をレコーディングしたとき、ディレクターの牧村憲一さんが「これはお蔵入りにしたい」と言ってきたんですよ。すごくショックでした。人生の挫折はいっぱいあるんですけど、そのうちの1つですね。たぶん、牧村さんは僕らを違う路線に乗せたかったんだと思います。高浪慶太郎くんの「ヴァカンス」という曲をレコーディングしようよと推してくださったんですけど、「アクション・ペインティング」は僕にとってすごく手応えがある曲だったので、どうしてもこの曲を出したいと頑なに主張しました。それで、最終的にもう1回ミックスをやり直して、レコードに残っているあの形になったんです。
──その「アクション・ペインティング」がノンスタンダードでの最後のリリースになります。
1986年の年明けに、テイチクに呼ばれたんです。それで今年どうしようかという話になった。僕としてはもう1枚12inchシングルを出してからアルバムを作りたい気持ちもあったんですけど……結局、その席でノンスタンダードに対して感じていた、いろんな不平をはっきりと言いました。あれで僕らは契約を切られたと思ったし、向こうもこの次はもうないなと思ったんじゃないかな。そしたら、86年の2月に大雪が降って、細野さんが滑って大怪我したんですよ。同じ日に、ピチカートはバンヒロシさんがやってたラジオ番組のフェスティバルで大阪に行ってたんです。その帰りの新幹線が大雪で止まって6時間くらい閉じ込められて、お土産に買ったお菓子とか全部食べちゃったという出来事があった。その缶詰状態から戻ってきたら、当時の細野さんのマネージャーで、のちに僕の奥さんになる杉村純子さんが「とりあえず細野さんの事務所はちょっと休止するし、その影響でノンスタンダードも終了になるよ」と教えてくれたんです。
──すごい巡り合わせですね。レーベルそのものがなくなってしまった。
でも、そこから杉村さんが1人で、僕らのためにいろいろ動いてくださったんですよ。EPICソニーのディレクターだった福岡知彦さんに僕を紹介してくれて、オムニバスアルバム「別天地」(1986年)に僕は個人名義で2曲(「新パゾリーニ」「黒い十人の女」)参加しました。それから、杉村さんはミディレコードに当時いた塚田千春さんとも仲がよかったので、EPOの「TWINKLE CHRISTMAS」という曲のアレンジを僕が担当しました。その前後で、ミディを設立された宮田茂樹さんにも会いました。宮田さんにも以前ピチカート・ファイヴのデモテープを送ってたんですけど、ちゃんと聴いて覚えてくれていたんですよ。それはちょっとうれしかったな。そしてさらに、杉村さんと仲良しだったのがソニーの河合マイケルさん。
──ピチカート・ファイヴの1stアルバム「couples」のディレクターを務められる方ですね。
マイケルはその頃、大滝詠一さんの担当でした。でも、大滝さんは何もしないから、何か始めるのをひたすら待つのが彼の仕事になっていた。そんなタイミングで、杉村さんが僕らをマイケルに紹介してくれたんです。これは、あとから聞いた話なんだけど、大滝さんがピチカートに興味を持っているという話も当時あったそうです。ピチカートを大滝さんがプロデュースするかも、みたいな。
──日本の音楽史が変わりかねないトピック!
でも結局、大滝さんは動かなかった。だから、マイケルが自分でピチカートを担当すると言ってくれたんです。まずは、彼がいたセクションでオムニバスのクリスマスアルバム(「WINTER LOUNGE」)を作るから、ピチカート・ファイヴで1曲参加してほしい、と言われました(「Kiss, Kiss, Bang! Bang!」で参加)。その直後、マイケルが僕の家にワインを2本下げてやって来て、その夜、アルバムについての話をいろいろしました。「全部アコースティックで、打ち込みじゃない作品にしよう」というのはマイケルのアイデア。僕は「それはやりたい」と言って、そのアイデアに乗った。「エンジニアは吉田保さんにしようか」ともマイケルは提案してくれて話が盛り上がりましたね。ただ、僕自身はアルバム1枚分も歌詞を書ける自信がなかった。だから、歌詞は周りにいた誰かに頼もうかなとも思ってたんですよ。
──それは意外です。小西さんが歌詞を書く自信がなかったなんて。
でも、マイケルに「小西が全部(歌詞を)書いたほうがいい」と言われた。それで自分で書いてみたら書けちゃった、という感じです。当時はまだ、それほど作詞に興味を持ってなかったんですよね。
──ともかく、マイケルさんとワインを飲みながら、小西さんの家で86年の暮れに「couples」の全体像というかイメージが作られたわけですね。
それで、僕は12月に札幌に帰って、井上大介くんという高校時代の友達と一緒にデモテープを作りました。
活動の原動力は「レコードを作りたい」という気持ち
──アルバム制作に動き出すまで約1年の間、ピチカート・ファイヴのメンバーは待ちぼうけ状態?
86年は、バンドとしては見事に何もしなかったですね。NHKラジオで祝日にやっていた「ポップ&ロック・デイ」という音楽番組のジングルを作ったり、あんまりお金にならない仕事をやってました(笑)。ただ、ピチカートの曲はちょっとずつ作ってました。当時はギターで作曲していたんですよ。「連載小説」という曲は、半年ぐらいギターをいじくって作った記憶がある。あの頃は全然仕事がなかったし、結局、みんな実家からの仕送りで乗り切った感じです(笑)。
──その当時のピチカートは、小西さんにとっては自分のバンドという意識でした?
いやー、最年長メンバー、ぐらいな感覚でしたね(笑)。ソングライターとしての高浪くんを尊敬していたし。
──メンバーの意見がうまく合わないときに、自分が一歩引いて調整をするタイプと、自分の意見を押し通すタイプがいると思うんですけど。
そういうときは、わりと自分の意見を通していたかな(笑)。「couples」では、A面の1曲目をどうするかで意見が分かれたんですよね。あれは本当に揉めた。で、ちょっと時間を置いて「じゃあ、『マジカル・コネクション』を1曲目にしようか」と言ったのは僕だった。そしたらみんなすんなり納得しましたね。みんながぶつかってるときに意外な意見を提案してみるというのは、その頃からやってました。
──ピチカート・ファイヴが87年に「couples」でCBSソニーから再デビューできたというのは、今振り返ってみても重要な出来事だったと思うんです。何が小西さんの原動力になっていたんですかね?
やっぱり「レコードを作りたい」という気持ち。レコードになった音楽に、ものすごく興味と愛着があるし、バンドをやりたいとか、ライブをやりたいという気持ちじゃなくて、「レコードを作りたい」という気持ちがすごく強かったんです。「俺の人生って自分の家のレコード棚を充実させるためだけにあるのかもしれない。その中に自分の名前のレコードとか入ってたりするといいな」みたいなことだけしか考えてないんじゃないかな(笑)。今の時代、リリースは配信が中心になっているけど、僕にはレコードが出せないなんて想像がつかないですね。よく音楽を続けられるなと思っちゃう。
「ピチカートでは自分が歌う曲のデモを作ってたんだ」みたいな気持ちになった
──今、小西さんは自分でギターの弾き語りをされてますよね。初のボーカルアルバム「失恋と得恋」もリリースして、ある意味、男性シンガーとして“デビュー”したというか。ピチカートでも最初から女性シンガーを探したぐらいですから、自分ではない誰かが自分の曲を歌うべきと考えていた? 自分の歌声についてはどのように自己評価していたんでしょうか?
今回のアルバムの取材でいつもする話なんですけど、大学の音楽サークルに入ってすぐ、新入部員のバンドのお披露目ライブみたいなのがあったんですよ。当時はソウルミュージックに傾倒していた時期で、確かThe Miraclesの「You've Really Got a Hold on Me」と……あとの2曲は忘れちゃったな。ソウルのカバーを3曲歌ったんです。ギターも持たずに自信満々で歌ったんですけど、家に帰ってそのテープを聴いたら、もう絶望的な歌で、本当にあの残念さは忘れられない(笑)。超トラウマになっちゃって、自分は歌わないほうがいいんだと思った。でも、バンドのフロントで歌うのに向いてないというのが自分でよくわかったからこそ、ピチカート・ファイヴができたんですけどね。
──小西さんが歌う姿を僕が初めて見たのは、フジテレビの音楽番組「FACTORY」(「FACTORY covers pizzicato five」2002年6月15日放送)でした。
僕が司会をやっていた番組。
──あのとき歌ったのは、「マジック・カーペット・ライド」と「子供たちの子供たちの子供たちへ」の2曲でしたね。
今の自分の弾き語りライブでは、特にピチカートの後期の曲をたびたび取り上げているんですよ。僕は長いこと、そういう曲が届くべき人に届いていないと思ってるからしつこく自分で取り上げてると考えてたんですけど、今回「失恋と得恋」というソロアルバムを出したことで、要するに「ピチカート・ファイヴでは自分が歌う曲のデモを作ってたんだ」みたいな気持ちにもなった。あの時期は、歌うのは野宮真貴さんなのに「僕」という一人称の曲ばっかり書いてた。あれはきっといつか自分が歌うための曲だったんだなと最近になってようやく気が付いたんです。
──アメリカに昔、Bellというレコード会社がありましたよね。あのレーベルは、ダン・ペンやマーク・ジェイムスみたいな職人的なソングライターが自作自演したレコードを多く出している。あれってもしかしたら、レコード会社や音楽出版社の立場から見たら、他人に曲提供をたくさんしているソングライターに「自分で歌うアルバム出せるよ」って言ったら張り切って曲を書くだろう、それを他人にカバーさせたらいい、みたいな考えがあったかもしれない。
頭がいい(笑)。この間ウェイン・カーソンというソングライターのレコードを買ったんです。B.J. トーマスがライナーを寄せてて、地味だけどよかった。そうか、ソングライターに「歌ってみれば?」ってけしかけると、確かに気持ちよく曲を書くかもしれない(笑)。そういう意味で言うと筒美京平先生は偉いですね。自分では歌うことがなかった。そういえば自分が歌ったライブを「前夜」(2020年)というCDにして出した頃、ノラオンナさんと神戸に行って、松本隆さんにお会いしたんですよ。「風街ろまん」にサインしてもらったんですけど、勢いで松本さんにもそのCDを送った。そのときに添え書きで手紙を付けたんですけど、「松本さんのソロを作ってください」って書いた(笑)。
──松本隆さんが自分で歌うアルバム!
歌じゃなくて、朗読でもいい(笑)。
──そう考えると、松本さんにも“デビュー”のチャンスがまだ残されているのかもしれない(笑)。今日は、このテーマでいっぱい話していただいて、めちゃめちゃ面白かったです。
普段は、自分から昔のことを思い出したりはしないんですけどね。
──デビューについて一番の感謝を捧げるとしたらやはり細野さん?
そうですね。でも、1人に絞るのは難しいな……。ここ何年か考えてるんですけど、やっぱり音楽そのものに感謝してますね。今日話に出てきた細野さん、和田さん、高浪くん、鴨宮さん、鈴木智文さん、マイケルや杉村さんにも感謝してます。あとは学生時代の音楽仲間にも。そういえば、マガジンハウスの「GINZA」という雑誌の編集長だった女性が大学時代の俺を知ってるんですよね。サークルの後輩だったんです。「あの頃の小西さんを見て、この人は絶対に社会人としてやっていけないんだろうなと思っていた」と彼女は言ってた(笑)。それがこうして立派にやってるんだから、音楽があって本当によかったと思う。まあ、僕も彼女が「GINZA」の編集長になるとは思わなかったけど(笑)。
小西康陽(コニシヤスハル)
1959年、北海道札幌生まれ。1985年にピチカート・ファイヴでデビュー。豊富な知識と独特の美学から作り出される作品群は世界各国で高い評価を集め、1990年代のムーブメント“渋谷系”を代表する1人となった。2001年3月31日のピチカート・ファイヴ解散後は、作詞・作曲家、アレンジャー、プロデューサー、DJとして多方面で活躍。2011年5月に「PIZZICATO ONE」名義による初のソロプロジェクトとして、アルバム「11のとても悲しい歌」を発表。2024年10月には、ピチカート・ファイヴ時代のレパートリーを中心に、他アーティストへの提供曲やカバー曲を自らが歌うボーカルアルバム「失恋と得恋」を発表した。
小西康陽「失恋と得恋」アルバム発売記念ライブ
2025年1月24日(金)大阪府 Billboard Live OSAKA
1st STAGE:OPEN 16:30 / START 17:30
2nd STAGE:OPEN 19:30 / START 20:30
2025年2月1日(土)福岡県 福岡ROOMS
1st STAGE:OPEN 17:00 / START 17:30
2nd STAGE:OPEN 20:00 / START 20:30
- 松永良平
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1968年、熊本県生まれの音楽ライター。大学時代よりレコード店に勤務し、大学卒業後、友人たちと立ち上げた音楽雑誌「リズム&ペンシル」がきっかけで執筆活動を開始。現在もレコード店勤務の傍ら、雑誌 / Webを中心に執筆活動を行っている。著書に「20世紀グレーテスト・ヒッツ」(音楽出版社)、「僕の平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」(晶文社)がある。
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