歌六は、認定の電話がかかってきたときのことを「私などが認定していただけるものではないと思っておりましたので、『重要無形文化財保持者の認定を……』とお電話をいただいたときも、なんのことかわからなくて。『それはもしかして、俗に言う人間国宝ということでしょうか』とお尋ねしたところ、『そうです』と(笑)。びっくりいたしましたね」とにこやかに明かす。「そのとき、家内はもとより、倅2人も『よかったね、おめでとう、おめでとう』と号泣してくれまして。こいつらこんなに泣くのか、と思いつつ(笑)、家族の力が(認定を)後押ししてくれたものと、感謝しております」と話す。
記者から印象に残っている演目を問われると「いろいろなお役をさせていただきましたが、やはり(中村)吉右衛門の兄さんとさせていただいた、『伊賀越道中双六』の2つの狂言、『沼津』と『岡崎』ですね」と回答。2014年に東京・国立劇場で行われた通し狂言「伊賀越道中双六」は、第22回読売演劇大賞で大賞と最優秀作品賞に輝き、歌六は優秀男優賞を授賞した。「『沼津』は最初はにぎやかで楽しいですが、最後にグッと重たい親子の別れがある、実によくできたお芝居。お客様の反応をダイレクトに感じますし、やっていて楽しい演目で、大好きな狂言の1つです。『岡崎』は、戦後にほとんど上演されておらず、“模範”があまりない状態でした。上方と江戸では台本もかなり違いますし、お兄さん(吉右衛門)と暗中模索で作り上げていった記憶がありますね」と振り返る。
歌六は、2010年に屋号を播磨屋に戻して以来、吉右衛門と数多くの舞台を共にしてきた。「吉右衛門の兄さんのご仏壇には(認定を)ご報告いたしました。(21日に)正式に認定が発表されたあと、お墓にお伺いしようと思っています」と話し、「うれしいことがあると、いつも『お前、良かったな』と自分のことのように喜んでくださるので、今回、そのお声が聞けないと思うと寂しいですね」と目を伏せる。播磨屋の芸の継承については「大事なのは、型ではなく気持ちだと思っています。そもそも私自身、吉右衛門のお兄さんの相手役を勤めることが多かったので、ちゃんとお稽古していただいたのは『松浦の太鼓』の松浦候ぐらい。そのほかのお役は『俺そっちやったことないもん、知らないよ』と(笑)。それでも、稽古で見ていただく中で『誰々兄さんはその役をこういうふうになさっていたよ。だからそのあたりを研究してみたら』と軌道修正してくださって。そういう姿からも、播磨屋の芸風や教えというものをわからせてくださっていたのかなと」と懐かしそうに語る。
また、自身がかつて劇団四季で勉強していたことに触れ、「踊りや義太夫、鳴り物といったお稽古は、子供の頃から通っておりまして、私にとって四季に通うことも、お稽古ごとの1つでした。浅利(慶太)さんにも『どうせお前は歌舞伎に戻るから、ここで吸収できるものは勝手に吸収して帰りなさい』とおっしゃっていただいて。浅利さんから教わったことが、私のどこかに残っていて、無意識のうちに演技に出ていることがあるかもしれません」と述べる。さらに若さの秘訣を聞かれると「私、まだ自分が年をとったと思っていないんです(笑)。“一生修行、毎日初日”と思い、まだ発展途上中です」とはにかむ。
そして、話題は歌六の家族仲に。「実は、(認定の)お電話をいただいたとき、私はソース焼きそばを焼いていたんです。最初は家内が電話に出まして、すぐに『電話を代わって』と言われたのですが、もやしを入れた瞬間だったので(笑)、『ちょっと待って』と。『だめ、出て』『待って』『代わって』と繰り返し、ソース焼きそばを取るか、電話を取るかの2択で迷いましたね。……冗談ですよ(笑)」とちゃめっ気たっぷりに話し、会場を笑いで包む。また、記者から「人間国宝認定のお祝いに、自分へのご褒美を何か考えているか」と聞かれると、歌六は「ご褒美!? それは家内に聞いてください!(笑)」と会場の奥に座る夫人に視線をやる。夫人は「それでは、すき焼きを」と笑顔で回答し、その言葉に歌六はうれしそうにうなずいた。
歌六は、8月に「八月納涼歌舞伎」第二部「新門辰五郎」で絵馬屋の勇五郎、9月に「秀山祭九月大歌舞伎」昼の部「祇園祭礼信仰記 金閣寺」で松永大膳、夜の部「菅原伝授手習鑑 車引」で藤原時平を勤める。いずれも東京・歌舞伎座にて。
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