現在の劇団壱劇屋。

大熊隆太郎が大阪で劇団を15年やってわかった9のこと その1 [バックナンバー]

劇団壱劇屋は、なぜそんなに続けられたのか?

バイタリティを保つ、ケチる、変化を受け入れる

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劇団壱劇屋が、創立15周年を迎えた。壱劇屋は音楽性と身体性の高さを武器に、大阪と東京の2拠点で活動する劇団で、大阪班16名、東京班15名、さらにフォトグラファー1名と、多数の劇団員が所属している。さらに驚くべきは客層の豊かさで、「ストレンジシード静岡」など、屋外でパフォーマンスをすることも多い彼らは、老若男女の心を一瞬でつかむコツをしっかりと心得ているのだ。この連載では座長の大熊隆太郎が、そんな壱劇屋の15年の軌跡とこれからについて、9つのポイントでつづる。

劇団壱劇屋の結成当時の写真。

劇団壱劇屋の結成当時の写真。

15年休まず公演を打ち続けてきました

壱劇屋という劇団を関西で15年続けてきました、座長の大熊と申します。15年休まず公演を打ち続けてきました。ある時期「もしかして劇団員が自分1人になっちゃうかもしれない」みたいな話を先輩にしたら「団体って桃栗三年柿八年と同じで、三と八で解散の時期がくるんだよ。俺も10年やったけど最後の2年は惰性だった」と教えてもらいました。先輩、うち15年経ってしまいました。

なんでそんなに続けられたのか? 地方で長年劇団を続けられてきたポイントを考えてみました。

1.演劇はバイタリティ

これはMONOの土田英生さんが仰っていた言葉で、めちゃめちゃ感銘を受けた言葉です。MONOの土田さんは、お会いしたことがある人はわかると思うのですが、稽古場で誰より喉を酷使してしゃべり、動き、人を笑わせ、働いている。この言葉を聞いた状況としては、当時アトリエ・ダンカンプロデュース「トリツカレ男」(2009年)にアンサンブルで私が出演していたときで、土田さんは演出。朝から夜まで稽古して、土田さんはずっとしゃべって、終わってから俳優たちと飲み屋へ行き、またさんざんしゃべって、そしてこのあと帰ったら別の書き物の締切があって仕事するという。それに仰天した若かりし大熊を見て土田さんが仰ったのが「演劇はバイタリティだよ」という言葉でした。

実はそれまでもぼんやり、劇団を続けて演劇を仕事にしていくのって体力的なものが重要だよなあと思っていたので、それを実績あるベテラン演劇人が明言したことでとても奮い立ったのです。

劇団壱劇屋の活動初期、泊まり込みで稽古したときの様子。

劇団壱劇屋の活動初期、泊まり込みで稽古したときの様子。

思い返せば、私が初めて小劇場に出演したのがKAVCプロデュース「XとYのフーガ」(2008年)というマイムの作品で、これはYチームをいいむろなおきさん、Xチームを小野寺修二さんが担当し、順番に上演するという企画でした。私はXチームで、初めての小劇場体験が小野寺さんの現場だったという極めて幸運な若者でした。当時22歳で、壱劇屋として公民館で公演をしたことはあるけれど、ちゃんとしたプロの現場が初めてだったので大興奮のしゃかりきな若者でした。で、後々それはすごいことだと知るのですが、小野寺さんの現場って10時から22時までとかの稽古がたくさんあるわけです。しかも1日かけて1分くらいのシーンをこねくり回したりして、その間ずっと踊ったり走ったりしてるわけです。今思えば全員ものすごいバイタリティだったと思います。疲れ以上に創作が面白くて仕方なかったので気になりませんでしたが、これがプロの当たり前なのかと洗礼を浴びていたのでした。

劇団壱劇屋の活動初期の様子。

劇団壱劇屋の活動初期の様子。

なので自分の劇団に帰ってきてからも、それが常識なので劇団の創作もとにかく長い時間やりました。みんな学校やバイトの後に夕方から集まって稽古するのですが、公民館が21時で閉まったあとも近くの河川敷の駐車場へ行き、0時まで稽古していました。これははっきり言って頭悪いです。とにかく演劇がしたいという気持ちが先行して、バイタリティの使い道を間違えておりました。もっと公演計画をちゃんと立てて、無理のないスケジュールを組み、余剰バイタリティを広報とか勉強とか息抜きに使うべきだったと思います。でも当時は今よりネットが発達してなかったので、劇団の運営の仕方とか、公演の作り方とか、そういうものを自分たちだけで研究していたので、まあ仕方なかったのかなとも思います。一個良いことと言えば、河川敷稽古などでよりバイタリティが鍛えられ、今もかなりタフに活動できているということです。

私は京都でノンバーバルシアター「ギア-Gear-」という作品にレギュラー出演しているのですが、この演目がかなり体力を使う演目でして、なにせロボットの役なので90分ロボットマイムをするという常軌を逸した演出を週1回食らっています。伝わりづらいかもしれませんがロボットマイムってかなり肉体を酷使するのです。今はもうトレーニングもしてますし、作品用の筋肉が発達して慣れましたが、出演し始めた当初は、ギア出演の翌日は体がバキバキに固まって使い物になりませんでした。それくらいハードな舞台なのですが、「演劇はバイタリティ」という言葉を大事にしている私は、「ギア」の本番後に劇団の稽古に行ったり、劇団の公演の千秋楽の翌日に「ギア」に出演したりしております。

なんだか書いててかなりブラックなヤバい言葉だなという気がしますが、劇団を15年続け、なおかつ休まずに作品を上演し続けるというのはかなりバイタリティが必要というのは事実だと思います。

「ギア-Gear-」より。(Photo:OTSUKI Yusuke)

「ギア-Gear-」より。(Photo:OTSUKI Yusuke)

なので体力の無い人はできる範囲からでいいので、走ったり筋トレしたりして物理的なバイタリティを増強することをお勧めします。なにせ企画して創作して稽古してスタッフワークして宣伝して同時に次の公演企画して、みたいなことをマラソンのように続けるわけですから、スタミナが命なところがあると思います。

ちなみに最近、リリパットアーミーIIのわかぎゑふさんと初めてご一緒しまして、改めてバイタリティは大切だと思いました。わかぎさんも、毎日稽古をしながら別の脚本を書きつつコラムの締切があって衣裳の用意しつつ出演者が稽古後に食べるご飯を炊き出しして稽古後の飲み会も行ってスポーツの試合を毎晩2個ぐらい見てる演劇サイボーグでした。

2.ケチろう

劇団の多くは任意団体だと思います。劇団員は劇団側と契約書を交わしてないでしょうし、毎月給料が発生するということも無いと思います。給料どころか壱劇屋が劇団を作った15年前は団費やチケットノルマが当たり前だったと思います。じゃないと活動資金が無いので劇場も借りることができないし、稽古場も借りられない。チケット代は公演後の収入ですから、公演を実現するまでにかかる経費を賄うには、団費で集めた資金をあてにするわけです。それどころかできたての劇団がチケット収入だけで公演を成り立たせるのは至難の技でして、自分たちでバイトしてお金を出し合うのが手っ取り早かったのです。壱劇屋も最初は団費を集めておりました。確か月に3000円か5000円かそんなものだった思います。しかし、当たり前ですが誰も団費なんて正直払いたく無いわけです。この制度は早々に廃止され、どうにかお金をかけずに公演する方法を模索するようになりました。

劇団壱劇屋が公民館で公演していた頃の様子。(撮影:河西沙織)

劇団壱劇屋が公民館で公演していた頃の様子。(撮影:河西沙織)

まずやったのは劇場費を免除・減免・補助してくれる企画を探すことでした。探せば意外にあるもので、当時は大阪市立芸術創造館の企画で劇場費を補助してもらったり、演劇祭に参加して広報にかかるお金を補助してもらったりしていました。更に参加した演劇祭で賞をいただければ、ご褒美に劇場費を免除して公演を打たせてもらえたりしたので、幸運ながら壱劇屋はそれで何度か劇場費をかけずに公演が出来まして、そのお陰で活動資金を少しずつ蓄えていくことができました。さらに幸いなことに、壱劇屋は身体を使った表現をしていきたかったので、舞台美術を最低限にすることができました。身体を動かすにはスペースが必要で、むしろ大掛かりな舞台セットは邪魔な場合もあるので相互作用でケチることができました。どうしても必要な舞台セットは自分たちで作りました。また、なるべく現代を舞台にした作品を上演しました。そうすることで衣裳を手持ちから賄えるのでケチることができました。あとこれは地方ならではかもしれませんが、稽古場代をケチるために公園や河川敷で稽古しました。雨が降っても橋の下とかで稽古して、音楽は電池式のスピーカーを使ったりしていました。

劇団壱劇屋「新しい生活の提案」より。(撮影:河西沙織)

劇団壱劇屋「新しい生活の提案」より。(撮影:河西沙織)

そしてケチりながらもどうにかお客さんを増やしてチケット収入を上げる努力もしました。多くの人に自分たちの表現を観てもらいたいという原動力も事実ですが、その裏では継続して活動していくためにお客さん増やして資金を途切れさせないというのも、集客がんばる大きな要因でした。壱劇屋はチケットノルマを設けていなかったうえに、みんな友達が少ない内弁慶ばっかりだったので、その分頭と時間使ってがんばりましたし、現状も大きく変わっておりませんので今もがんばっています。

結果として団費を取らずに活動することが演劇祭での受賞につながったり、ノルマを設定しないのが集客につながったりしたので、ケチればいいことありますね。楽しくケチりましょう。あと人に甘えていこうというのも大事なのですが、それはまた別途書きます。

3.変化を受け入れよう

15年やっているとやっぱり劇団はどんどん変化していくわけで、壱劇屋も相当変化して今にいたっております。まず壱劇屋自体は高校の演劇部出身でして、大阪府立磯島高校という学校なのですが、3年生の卒業公演ではそのとき限りの劇団名をつけて公演するという慣わしがありました。そこで我々も劇団名をつけようと、みんな思い思いの劇団名を紙に書き、くじ引きで決めました。そして当たったのが「壱劇屋」という名前でした。私は若気のいたりで「劇団筋肉ムキムキ」とかを入れていて、その劇団名が選ばれていたら今ごろ劇団は続いてなかったと思うので、マジでゾッとします。

卒業後も地元の枚方市で壱劇屋の名前を使い、公民館で本当に小さい公演を打ったりしていました。そのころは10人くらいの同級生でやっており、私も平劇団員で座長は別の同級生がやっておりました。1、2年やって進路などどうするか?という時期になり、そのままがんばって劇団を続けていこうとパチンコ屋の駐車場で決めた5人が旗揚げメンバー的な感じになったのですが、微妙に旗揚げは卒業公演だったりして、もうスタートに靄がかかっています。その後劇団員の増減を繰り返しながら活動していくのですが、基本的に壱劇屋は劇団員をどんどん増やしていく作戦でいきました。単純にマンパワーが増えるとその分バイタリティが増えて公演のクオリティを上げられるので、私はメンバーは多いほうが良いと思っています。

2014年に上演された、劇団壱劇屋「突撃!ゴールデンチャイナタウン!!~暗黒霊幻道士VSドラゴンナリタ~」より。(撮影:河西沙織)

2014年に上演された、劇団壱劇屋「突撃!ゴールデンチャイナタウン!!~暗黒霊幻道士VSドラゴンナリタ~」より。(撮影:河西沙織)

ずっと公演を打ち続けるのは単純に疲れます。疲れますし飽きますし、ずっと好きでいるというのはとても難しいです。私も年々壱劇屋で公演を続けることが好きではなくなっていき、創作意欲が無くなっていった時期がありました。たくさんの劇団員を抱えているのに申し訳ない気持ちでしたが、自分の気持ちに嘘もつけず、団員たちから見たらあの時期は多分かなりやる気が無いように見えたかもしれません。ごめんね。でもそんなとき、幸運にも旗揚げメンバーである竹村晋太朗という団員が作・演出をやりたいと言い出しました。竹村はそもそも劇団の創作中心にいて、稽古場でもリーダーとしてシーンを創作してましたし、台本をみんなで考えるときにたくさんアイデアを出したりと、既に演出家のような立場でもありました。彼はもともとアクションをやっており、JAEというアクションの学校に通い、その年の首席だったりしたので、とにかく殺陣が上手かったのです。

劇団壱劇屋東京支部(撮影:河西沙織)

劇団壱劇屋東京支部(撮影:河西沙織)

というわけで私の創作意欲減退の時期に逆に竹村が創作を始め、殺陣メインの芝居を作るようになりました。このまま竹村は壱劇屋を離れるのかもしれないなあと思っておりました。そしてある日、竹村から「東京に行こうと思う」と言われました。ついに劇団も分裂かと思いました。しかし竹村は「劇団は辞めない」と言います。「東京に行ってそのまま壱劇屋をやる」と言います。昔から「各地に壱劇屋があって宝塚みたいになったらいいなあ」と言ったりしてたのですが、本当にそれになる第1歩をやりだしたのです。そして東京にチャレンジしたい劇団員たちは一緒に東京へ行き、今では壱劇屋東京支部として殺陣芝居を上演しており、大阪の壱劇屋に比べると大変人気が出ています。劇団が分裂解散する話は稀に聞きますが、劇団が増殖するとは思いませんでした。

劇団壱劇屋大阪(撮影:河西沙織)

劇団壱劇屋大阪(撮影:河西沙織)

ところで大阪はと言うと、長年一緒にやっていた劇団員たちがごっそり東京へ行き、若手たちがメインの劇団へと変貌しました。突然ですが私はNBAが大好きでして生きる活力の1つであります。NBAを見ていると、チームの代謝はある程度よく無いと良いチームにならないのがわかります。継続して良いチームであり続けるには、若手を入れては育てを繰り返し、若返り続けねばなりません。大阪の壱劇屋は正にそれで、戦力ダウンはしたものの、反面若返りに成功しました。コロナで出鼻を挫かれた時期もありましたが、大阪の壱劇屋は座長の一回り近く年下の劇団員たちがコアメンバーとして動く、セミ若手劇団です。メンバーたちは公演ごとに成長しており、どんどん良い俳優に、できる劇団員になっていっております。今後若手たちがどういう人生の選択をしていくかわかりませんが、大阪から全国に発信するおもろい劇団に成長するため日々バイタリティを持ってがんばっております。

大熊隆太郎 プロフィール

大熊隆太郎(撮影:河西沙織)

大熊隆太郎(撮影:河西沙織)

1986年、大阪府生まれ。演出家、俳優、パフォーマー。2008年に高校演劇全国大会出場メンバーで劇団壱劇屋を結成し、さまざまなアワードに輝く。2022年度大阪文化祭賞奨励賞を受賞した。個人では京都でロングラン公演中の「ギア-Gear-」マイムパートに出演しているほか、10月21日に「緑のテーブル2017~神戸文化ホール開館50周年記念Ver.~」に出演。壱劇屋としては11月4・5日に大阪・近鉄アート館で15th year Replay03「SQUARE AREA」、12月29・30日に大阪・扇町ミュージアムキューブ CUBE01で15th year FINAL「壱劇屋東西合同公演」を上演する。

※初出時、本文に誤りがありました。訂正してお詫びいたします。

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読者の反応

壱劇屋 @ichigekiya

ステージナタリーさんで書かせていただきました〜✨

なんと【連載】です!

壱劇屋の15周年にこのような記事を掲載させてもろてありがたやです〜!
是非読んでくださいませー!(大熊) https://t.co/4kp2dylDdt

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