生きるための闘いから、1人の人物の生涯、燃えるような恋、時を止めてしまうほどの喪失、日常の風景まで、さまざまなストーリーをドラマチックな楽曲が押し上げ、観る者の心を劇世界へと運んでくれるミュージカル。その尽きない魅力を、作り手となるアーティストやクリエイターたちはどんなところに感じているのだろうか。
このコラムでは、毎回1人のアーティストにフィーチャーし、ミュージカルとの出会いやこれまでの転機のエピソードから、なぜミュージカルに惹かれ、関わり続けているのかを聞き、その奥深さをひもといていく。
第8回は
前編では石井が、勉強に明け暮れた幼少期から、ミュージカル「ミス・サイゴン」のオーディションを受け、夢と現実の間でもがいた時期を乗り越えるまでのエピソードを語ってくれた。
取材・
ガリ勉少年が音楽に目覚める
──音楽との出会いを教えてください。
家にピアノはあったんですけど、子供の頃はピアノに触れることはありませんでした。長男だからか、親が良い大学に入れさせようと、勉強ばかりさせられてて。でも、反抗することも知らなかったから、素直に受け入れて、毎日塾に行くような子供で。当時、葛飾区にはそんな小学生はあまりいなくて、変わり者だったんじゃないかな。僕自身、勉強が嫌いではなかったので、夜遅くまで机にかじりついて、0時を過ぎてから寝ていましたね。
──音楽とは無縁の幼少期だったんですね。
小学5年生くらいから深夜ラジオを聴き出すんです。当時テレビは一家に1台しかない時代で、勉強部屋にあったのはラジオだけ。それが唯一、僕を慰めてくれる“勉強以外のもの”だった(笑)。ラジオから流れてくる音楽を聴いて、「音楽って良いな」と思っていました。結局、受験に落ちて地元の公立中学に行くんですが、今度はそこで学年上位の成績優秀者になるんですよ、勉強の“貯金”があるから。すると、「俺、できるな」なんて余裕が出て、世の中を広く見られるようになったんです。当時、オフコースが全盛の時代で、同級生たちと歌を歌ったり、ハモったりしながら、「歌が好きだな、俺、歌手になろう!」って決心しました。
──迷いがないですね(笑)。
そして勉強しか知らなかった中学生が音楽の洗礼を受けることになるんです。高校に入って、フレディ・マーキュリーの声を聴いたときに、「世界にはこんなにすごい声の人がいるのか!」とまた衝撃を受けて。僕が好きだったオフコースの小田和正さんもフレディも、ピアノを弾いて歌を歌って、曲を書く人だった。だから自分もそうなろうと思いました。やがてその“憧れの人”に山下達郎さんや桑田佳祐さんが入ってくるんですが。ちなみにこの段階ではまだ、舞台の“ぶ”の字にも出会っていません。
進む道を変えた「ミス・サイゴン」のチラシ
──ではその“ぶ”の字にはいつ出会うのですか?
俳優って、演劇好きだった(岡)幸二郎や、ミュージカル好きだった(井上)芳雄など、大なり小なり演劇愛のある人がなる職業だから、僕なんかはかなりの不埒者だと思います。僕は本当にロックやポップス、Soul Musicが好きで、シンガーソングライターになりたかったんです。だから、大学を卒業した1990年当時は大売り手市場だったにもかかわらず、就職せず、三越のお中元やお歳暮の配達をしていました。それで、カセットテープに歌を吹き込んだものをレコード会社に送るんですけど、どれも門前払いだったんです。
そんな姿を見かねた当時の友人が「これも受けてみたら?」と持ってきたのが、えんじ色にヘリコプターが描かれたチラシで。募集要項を見てみると、カセットテープに吹き込んだ歌と履歴書を送るっていう、手順が一緒だったんですよね。俺は「ミュージカルって何?」という状態だったけど、試しに応募したら一次審査を通って、外国人の前で「ブイ・ドイ」を歌うことになった。よくわらないままガッツあふれる感じで歌ったら、「ファンタスティック!」とすごくほめてくれて。人前で歌って称賛されるのが初めてだったので、すごくうれしかったのを覚えています。「この外国人良いやつだな」なんて思ったりして(笑)。それが「ミス・サイゴン」のアラン・ブーブリルとクロード=ミッシェル・シェーンベルクだったという。
──“知らない”ことが功を奏したんですね。
まさに。それから、審査員に「2カ月後に三次審査があるので、それまでにジャズダンスを習ってきてください」と言われて。“ジャズダンス”という言葉を初めて耳にした素人でした(笑)。最終のダンス審査を帝国劇場の本舞台でやったんですが、僕は「アメリカン・ドリーム」の振りを、周りをチラチラ見ながら踊っていたんです。その姿を石川禅さんが覚えてて、その後、「最終審査の日にすごく踊れないやつがいた」「万が一、受かっていたらきっと歌がうまいんだろう」と仲間内で話してたらしいんです。そうしたら制作発表の日に僕がいて、「あー!」ってなったという(笑)。
──相当目立ってたんですね(笑)。観劇をきっかけに演劇の道を目指すのではなく、いきなり大型ミュージカルのオーディションに挑むのは、珍しいパターンです。
この十数年、尚美ミュージックカレッジ専門学校で講師をさせてもらっているんですが、僕の経歴はあまり生徒たちの参考にならないかもしれません(笑)。
1度きりのつもりだった舞台出演、なのに「He is Marius」
──舞台との出会いを経て、石井さんは大型ミュージカル作品で中心格の役を次々と演じていきます。
「ミス・サイゴン」の公演中にミュージカル「レ・ミゼラブル」のオーディションの話が回ってきたんです。よく知らなかったので、「僕が受けるとしたら何役?」と周りの先輩方に尋ねたら「カズの年齢ならアンジョルラスかマリウスだ」と。アンジョルラスのほうがロック的だというので「じゃあアンジョルラスで受けようかな」なんて思いながら、当時習っていた歌の先生に両方の役の歌を聴かせると「『カフェ・ソング』のほうが圧倒的に出来が良い」と言うので、「じゃあそっちにします」って、やっぱり不埒者でしたね(笑)。でも一生懸命練習して、ジョン・ケアードの前で精一杯歌ったら、ジョンが「He is Marius」と推してくれたそうで、なんと合格したんです。半年後、今度は映画「アラジン」の吹き替えオーディションがあるというので受けてみたら、これも受かって。奇跡ですよね!
──急に受かり始めるものなんですね。
演劇の女神がほほ笑んでくれてるとしか言いようがなかったですね。実は「ミス・サイゴン」が終わったらまたバイト生活に戻って、シンガーソングライターを目指そうと思っていました。それがマリウス、アラジン、さらにはミュージカル「シンデレラ」で王子様という役をもらい、3年先までの仕事がレールを敷かれるように決まってしまった。とても幸運なことだったのですが、下積みなく次々と舞台に出演することになったのが、僕にとっての悲劇だったんです。
身体がバラバラになりそうだった二十代後半
──どのようなことが大変だったんですか?
シンガーソングライターになりたいという強いパッションを胸に持ちながら、将来俳優としてやっていこうという確かな決意もなく、舞台に立ち続けるということへの葛藤ですかね。その頃、大地真央さんの舞台「アイリーン」(1995年、1998年公演)に相手役として出演させてもらう機会があったのですが、真央さんに手取り足取り演技を教えてもらって。「右手と右足が一緒に出ているように見える」「カズちゃんは歌はうまいけど、もっとお芝居を勉強したほうがいいわよ」と熱心に指導してもらいました。なんとか稽古を乗り越え、舞台が開幕したんですが、真央さんのような大スターと共演すると、身体のコントロールもままならないレベルの自分は、やはり「下手だ」と新聞評などで書かれるんですよね。それがすごくつらくて。演技自体嫌いじゃないけどノウハウがない、応援してくれるファンの存在はありがたいのに「自分はこれでいいのだろうか」という迷いもあった。30歳までは順風満帆のように見える俳優人生の影で、身体がバラバラになってしまいそうな時期でした。
──そのような状況を打破するきっかけは何だったのですか?
悔しくて、劇団民藝や劇団昴、文学座など“新劇”の舞台を足繁く観に行って、自分なりに演技の勉強をし始めたんです。そこは、“芝居こそ人生”という高度なセリフ術を持った役者ばかりの世界だったからです。自分なりにもっとうまくなりたいって必死だったんですね。またその頃、自分で作曲したオリジナル楽曲ばかりを収録した1st CDを自主制作で出したんです。勝手に歌手デビューしたんですよね(笑)。それで、ずっと蓋をしてきた「音楽の世界に行きたい」という心を解放してあげたら、ストレスがなくなって。うまく物事が回るようになった。自分の生きる道を演技だけにしてしまっていたのが間違いだったんですよね。俳優活動と歌手活動、その“二足のわらじ”を履いて人生を歩き始めたら心に余裕が出てきて、逆に“舞台に立つ自分”が恋しくなっちゃって(笑)。
──中学時代と同じですね。
何かやりたいことがあって、それが誰かに迷惑をかけないことで、状況が許すなら、少しずつでもチャレンジしてみるのが良いと思うんです。そうしないと自分が自分の人生に満足できない。僕の場合はそこから人生の歯車が回り始めました。ほどなくして宮本亞門さん演出のミュージカル「キャンディード」(2001年公演)でタイトルロールを担ったときは、重責を楽しんで演じることができたし、35歳のときにジャン・バルジャンを演じさせていただいたのが最大の転機に。あのときに「生涯、演劇と向き合おう。俳優をやり続けよう」と決心しました。
前編では石井の嵐のようなミュージカルとの出会い、そこから生まれた葛藤を語ってもらった。後編では最年少で挑んだジャン・バルジャンの役作りレシピ、ミュージカルとポップス両方の世界を生きる彼ならではのミュージカルの魅力をたっぷりと聞く。
プロフィール
1968年、東京都葛飾区生まれ。俳優。1992年、ミュージカル「ミス・サイゴン」でデビュー。1993年、ディズニーのアニメ映画「アラジン」日本版で歌唱を担当。1994年、ミュージカル「レ・ミゼラブル」のマリウス役に抜てきされ、以降、数々のミュージカルに出演。2010年、第35回菊田一夫演劇賞演劇賞を受賞。主な出演作にミュージカル「マイ・フェア・レディ」「蜘蛛女のキス ~KISS OF THE SPIDER WOMAN~」「三銃士」「シスター・アクト ~天使にラブ・ソングを~」「スカーレット・ピンパーネル」「デスノート THE MUSICAL」、舞台に「夢の裂け目」、こまつ座「小林一茶」、「ハルシオン・デイズ」など。舞台出演と並行してシンガーソングライターとしても活動し、コンサートやアルバム発表を積極的に行う。最新CDは「In The Scent Of Love ~Top Note~」。MonSTARS、岡幸二郎、曾我泰久、姿月あさと、湖月わたる、AKANE LIV、麻生かほ里、南里侑香、坂元健児、渡辺大輔などに楽曲提供も多数。また、2018・2019年には自身で原案・作曲・主演を務めた一人芝居ミュージカル「君からのBirthday Card」を上演。現在、ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」にロレンス神父役で出演中。6月27日に岸祐二をゲストに迎えた生配信コンサート「Forever Green」を開催。8・9月にミュージカル「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」、10月に「夫婦漫才」が控える。
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