日本の音楽史に爪痕を残すアーティストの功績をたどる本連載、3人目に取り上げるのは、今から20年前の1998年5月に急逝した
文
hideの世界観を育んだ米軍基地の町
hideが急逝してから20年目の節目となるこの2018年、さまざまなイベントが執り行われた。4月には東京・お台場野外特設ステージでメモリアルイベント「hide 20th memorial SUPER LIVE『SPIRITS』」が開催された。PATA(
なぜhideは没後20年を迎えた現在も多くのファンを魅了し続けているのだろうか。彼の活動はX JAPANでの活動を軸に語られることが多いが、本稿ではソロ活動を開始した1993年を1つの分岐点として、前編・後編の2回に分けてそのキャリアを振り返ってみたい(なお、hideの表記はX JAPANの際はHIDE、ソロの場合はhideとなるが、本稿では後者で統一する)。
hideは1964年12月13日、神奈川県横須賀市生まれ。少し引っ込み思案で、ぽっちゃり気味だったというhide少年は、中学2年生のときに出会ったKissのライブアルバム「Alive II」をきっかけにロックの世界へと足を踏み入れる。中学3年になると初めてのギターを入手。それは米軍横須賀基地内のバザーで祖母に買ってもらったGIBSONのLesPaulで、hideのアイドルであるKissのエース・フレーリーと同じものだった。当時のhideはIron MaidenやAC/DC、BOWWOWといったハードロックバンドだけでなく、The ClashやSex Pistolsのようなパンクバンドにものめり込み、Bauhausのダニエル・アッシュ(G)に憧れていたらしい。
hideが育った横須賀の特別な環境も彼の音楽観を育んだ。言うまでもなく、横須賀は第7艦隊が出入りする米軍基地の町。hideは高校入学して間もなくから、バンド仲間を探すためにライブハウスやバーが立ち並ぶ横須賀の商店街“どぶ板通り“に足を踏み入れるようになるが、hideの実弟である松本裕士氏の手記「兄弟 追憶のhide」によると、当時のどぶ板通りは「酒、ドラッグ、喧嘩、なんでもあり。地元の人なら大人だって普通、足を向けない場所」だったという。不良でもない普通の高校生だったhideにとってはかなり勇気のいる行為だったはずだが、彼はこの場所で出会った仲間たちと人生で初めてのバンドを結成することになる。それがhideの名を横須賀中に知らしめることになるSABER TIGERだった。
SABER TIGERと美容師の二足のわらじを履いて
SABER TIGERのホームとなったのは、ROCK CITYなどどぶ板通りのライブスペースだった。裕士氏は「兄弟 追憶のhide」の中で当時のSABER TIGERのライブをこう描写している。
マネキンやら生肉やら内臓やら、まだ中学生の僕には考えられないような、いろんなスゴイものがそこいらじゅうに飛び交い、会場の中には異様な興奮が渦巻いていた。聞くところによると、血のようなものをお客さんに吹き付けたり、火を噴いたりしたこともあったらしい
このエピソードから見えてくるのは、この当時からhideがサウンド面のみならず、パフォーマンスやビジュアル面も重視していたということだ。よく知られているように、hideは高校卒業後に美容専門学校へ進学。SABER TIGER初期には横須賀中央駅裏で祖母が経営していたみどり美容室でも働いていた。なお、hideは美容専門学校の卒業制作で優秀賞を受賞しているが、このときの発表は着物をアレンジし、さらにはマネキンを手にしたかなりパフォーマンス的要素の強いものだったようだ。
hideが敬愛したKissは、メイクやファッション、ステージパフォーマンスなどあらゆる面から“Kissというアートフォーム”を構築したバンドだったが、hideが目指していたアーティスト像もまた、そうした多様な表現の総体そのものだったと言える。現在限られた写真や映像の中だけで確認できるSABER TIGER時代のファッションやステージ演出からは、後の写真集「無言激」(1992年)などで結実するアバンギャルドでシアトリカルな表現の萌芽を見ることができる。
1985年7月、SABER TIGERは初の正式音源となる2曲入りソノシート「DOUBLE CROSS / GOLD DIGGER」をジャパニーズメタルの下地を作った東京・神楽坂のライブハウス、EXPLOSIONの自主レーベルからリリース。また同年には、そのレーベルから発売されたコンピレーションアルバム「HEAVY METAL FORCE III」に楽曲「Vampire」を提供している(同作にはhide加入以前のXによる「Break The Darkness」も収録)。さらに翌年2月にはGHOULやリップクリームなどハードコア系のバンドと共にコンピ「Devil Must Be Driven Out With Devil」に参加。北海道で同名のメタルバンドが活動していたため、この作品以降バンド名の綴りが“SAVER TIGER”となった。
いずれの楽曲も荒削りではあるものの、80年代のジャパニーズメタルらしいトガったアンダーグラウンド感とLAメタル的なグラマラスなムードを漂わせている。彼らが当時の横須賀で絶対的な人気を獲得していたことが納得できるカッコよさだ。
失意のSAVER TIGER解散からXへ
のちに
ところが解散から数日後、
(Xは)どこにも属さないバンドだったと思うんです。スラッシュメタルでもないし、正統派ハードロックでもないし、僕はパンクが好きだったり。でも、やっている曲はメロディアスだったり、クラシックっぽいものも好きだったりとか。そういうサウンドをやりたいと喋れば喋るほど、メンバーは混乱してました。だから、なかなか他のパートも決まらなかった
言うまでもなく、hideはXに多くのものをもたらした。「SADISTIC DESIRE」(原曲はSAVER TIGER時代の「SADISTIC EMOTION」)や「CELEBRATION」「JOKER」など、hideが作曲した楽曲にはある種のロックンロール感覚とポップセンスがあり、そうした要素はそれまでのXにはないものだった。hideはSAVER TIGER時代からメタル系ギタリストには珍しいほどアンサンブルを重視していたが、そんなhideの存在があったからこそ、YOSHIKIの脳内に広がっていた音像は初めて形になったとも言えるだろう。
Xは1988年4月には満を持して1stアルバム「Vanishing Vision」をYOSHIKI主宰のレーベル、エクスタシーレコードからリリース。発売1週間で初回プレス1万枚を売り切ると、翌89年4月にはメジャー初アルバム「BLUE BLOOD」を発表してオリコン最高位6位を記録した。hideの名はX加入からわずか2年ほどで全国区のものとなったのである。
その後の快進撃は説明不要だろう。Xは2ndアルバム「Jealousy」(1991年)でオリコン1位を獲得すると、翌92年1月には日本人アーティストとしては初めて東京ドーム3日間公演も成功。前例のない活動を展開していく。
<つづく>
バックナンバー
- 大石始
-
世界各地の音楽・地域文化を追いかけるライター。旅と祭りの編集プロダクション「B.O.N」主宰。主な著書・編著書に「奥東京人に会いに行く」「ニッポンのマツリズム」「ニッポン大音頭時代」「大韓ロック探訪記」「GLOCAL BEATS」など。最新刊は2020年末に刊行された「盆踊りの戦後史」(筑摩選書)。サイゾーで「マツリ・フューチャリズム」連載中。
関連記事
hideのほかの記事
リンク
- hide official web site [hide-city] www.hide-city.com
※記事公開から5年以上経過しているため、セキュリティ考慮の上、リンクをオフにしています。
燵朔-tatsuki- @tatsuki1125
hide(前編) | 音楽偉人伝 第5回 https://t.co/wWNVY3vJ5N