本作は、突如現れた「ヤジルシ」に導かれて歩くうちに、奇妙な人々と断片的な記憶に出会い、自分たちの人生を見つめ直す、1組の男女を軸にした物語。2001年に起こったアメリカ同時多発テロ事件を背景に、グローバル化の名のもと、複雑かつ多様化していく現代社会の有り様を、さまざまなテクストのコラージュによって描き出す。
今回の上演に際して、鳥公園主宰の
「→ヤジルシ」は、9月14日から19日まで東京・BUCKLE KOBO内の各所にて上演される“回遊型上演”を経て、10月8・9日に香川・豊島にある唐櫃岡の棚田にて野外上演される。
西尾佳織コメント
太田省吾さんの最後の戯曲「→ヤジルシ」を上演します。
この戯曲は、2001年の同時多発テロに対する応答です。9.11が起こってしまうに至る世界を生きてきた者として、9.11以後をどのように生きられるか? 9.11以後の世界で、どのような表現が可能か?(そもそも、表現行為自体が可能なのか?)という問いを、太田さんがどれほど重く捉えていたか。そのことは、2002年に太田さんが批評家の鴻英良さんと創刊した雑誌「舞台芸術」に満ち満ちる意志からも推し量られます。
9.11は、どこか遠くで、誰か知らない野蛮な人が起こした出来事ではありませんでした。ブッシュ元大統領は「敵」を「我々」の外側に作ろうとしたけれど、「イスラム過激派のテロリスト」たちはヨーロッパで学び、アメリカで学び、ツインタワーに突っ込んだのです。「敵」のオリジンを辿れば「我々」に行き着いてしまう。グローバル化が進み、経済が一元化されて、全てが繋がってしまった世界では、からがら今日を生き延びた「私」が、どこかで別の「私」を踏みにじっています。「テロリスト」は「私」たちから生まれます。誰も無垢ではありません。
そして 9.11から15年が経った今、テロはずいぶん日常的な位置に置かれるようになってしまいました。あまりに頻繁に起こり過ぎて、「○.○○以降の表現」を問い直す間もありません。ちなみに日本について言えば、3.11で明るみに出た「私」による別の「私」への搾取/支配は、より強い力でねじ伏せられ、再び覆い隠されつつあります。「私」たちによる「私」たちの殺害が加速しています。
芸術になんの意味があるのか、けっこう本気で分からなくなっています。これは一体誰に、どんな現実に効くんだろうか?と思う作品に出会っていると、芸術は、まだ比較的生きられている側の人たちによる/人たちのための慰みなのか? と思います。
そうではないと思うから、つくります。
鳥公園 #12「→ヤジルシ」
2016年9月14日(水)~19日(祝・月)
東京都 BUCKLE KOBO
2016年10月8日(土)・9日(日)
香川県 唐櫃岡の棚田
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演出:
出演:
※タイトル「→ヤジルシ」の「→」は右斜め上を指すのが正式表記。
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