2010年代の東京インディーズシーン 第4回 [バックナンバー]
ライブハウススタッフが語る2010年代のインディーズシーン
当事者たちが身近な場所で見た多様な光景
2021年5月18日 18:00 8
さまざまなムーブメントが生まれていた2010年代の東京インディーズシーンを、アーティスト、イベント、場所などの観点から検証する本連載。第4回では、2010年代のインディーズシーンを支えてきた都内各所のライブハウスのスタッフによる証言をもとに当時のシーンを振り返る。
今回取材に答えてくれたのは石田貴洋氏(東高円寺二万電圧店長)、小牟田玲央奈氏(リンキィディンクライブハウス統括 / 元吉祥寺WARP店長)、義村智秋氏(下北沢SHELTER店長)、服部健司氏(下北沢THREE / BASEMENT BAR副店長)、宮崎岳史氏(元南池袋ミュージック・オルグ店長 / 元7th FLOOR制作担当)の5名。サーキットイベントの増加やストリーミングサービスの流通などといった2010年代の象徴的なトピックを交えつつ、当時のライブシーンやライブハウスに訪れた変化を紐解いていく。
文
音楽が多様化する2010年代中盤以降
2010年代、東京のインディーズシーンではいったい何が起きていたのか。それを検証するにあたって、今回はライブハウスの運営に携わる当事者たちから話を聞くことができた。本稿ではシーンの趨勢を誰よりも近くで見てきた彼らの言葉から、当時の状況を振り返ってみたい。まずは東高円寺二万電圧店長の石田貴洋氏に、この10年間の実感を聞いてみた。
「2010年代が特別盛り上がっていたという実感はありません。むしろ90年代終わりから00年代初頭の勢いを知っていたので、人が減ったなあという印象でした」(石田)
二万電圧の前身にあたる高円寺20000Vは、1989年の創業から日本のアンダーグラウンドシーンを名実ともに牽引してきたライブハウス。この地における「90年代終わりから00年代初頭の勢い」は、シリーズ第3回の鼎談からも伝わってくる(参照:死神紫郎×中尊寺まい(ベッド・イン)×えらめぐみ(股下89)鼎談)。そんな20000Vがビル火災に遭い、2010年に移転という形でスタートしたのが二万電圧。「地上の世界とは違う、非日常の地下空間でありたい」という石田氏の思想は二万電圧のブッキングや雰囲気にも表れており、実際その始まりはパンク・ハードコアの聖地にふさわしいものだった。
「今でこそ二万電圧のキャパは130人となっているのですが、オープン初日はキャパの把握をしておらず180人くらい受付してしまい、人が入りきらず外にあふれドアが閉まらなくなり、仕方なくドア全開でライブをしたら近隣から苦情の嵐で、初日から店が潰れかけました」(石田)
高円寺と同じく多種多様なライブハウスがひしめく街、下北沢はどうだろう。下北沢THREE / BASEMENT BAR副店長の服部健司氏は2010年代をこう振り返る。
「下北沢の南端で流行り廃りとはあまり縁がなく好きなイベントを制作してきたので、世の中の流れやシーンみたいなことは、あまり感じたことはありません」(服部)
下北沢駅から南に徒歩10分ほど離れた場所で1995年から営まれてきたBASEMENT BAR。そのすぐ隣に位置し、深夜のクラブイベントなども開催されるTHREE。どちらもこの10年で現場としての役割に大きな変化はないと服部氏は語るが、一方で音楽視聴を取り巻く変化はライブハウスにも影響をもたらしたという。
「サブスクの定着で若いバンドマンやミュージシャンが手軽に多ジャンルの音楽に触れることが可能となり、そこが2010年代中盤以降のライブハウスの音楽の多様化につながっていると思います。ジャンルにかかわらず、自分たちの作りたい音楽を意識して活動しているバンドはこの10年で増えたように感じます」(服部)
定額ストリーミングサービスの定着やSNSの普及など、2010年代はオンライン上のシステムが整備されたディケイドでもあった。2011年までF.A.D YOKOHAMAでブッキングを担当し、現在は下北沢SHELTERで店長を務める義村智秋氏は、そんな時代をどう見てきたのだろう。
「お客さんが入る入らないはともかく、ライブシーンは盛り上がっていたと思います。ただ、これはワンマンが多くなってきているのも関係してるかもしれませんが、つながる場としてライブハウスを活用するバンドは減ったと思います。そういう意味では、アイドルのほうが活用してるかもしれませんね。例えばBiSが1週間SHELTERで連続異種格闘ライブをやったりとか。急遽空いた日なんかも、圧倒的にバンドよりもフットワーク軽く使ってくれるので」(義村)
面白い発想がそこら中にあった
近接するライブハウス同士が連携したサーキットイベントの増加も、2010年代の音楽シーンにおける重要なトピックだ。とりわけライブハウスが多い下北沢では、この10年間に「下北沢インディーファンクラブ」「Shimokitazawa SOUND CRUISING」「下北沢にて」などのサーキットイベントが次々と誕生。「KITAZAWA TYPHOON」を開催する義村氏も、サーキットイベントの定着は自然な流れだったと語る。
「なんでよそのブッキングをわざわざ組まなきゃいけないんだとか、そんなことは超越していて、街を盛り上げたいとか、シーンを盛り上げたいとか、ポジティブな思いだけでやっているものがほとんどです。確かに増えすぎて新鮮味がなかったり、比べてしまうこともありますが、サーキットをきっかけに初めてライブハウスに行きますなんて子がいたら、ドリンク1杯奢りたくなりますね(笑)」(義村)
元吉祥寺WARP店長で現在はリンキィディンクのライブハウスを統括し、自ら「CRAFTROCK CIRCUIT」も手がけている小牟田玲央奈氏にも、イベント開催者についての所感を尋ねてみた。
「サーキットイベントは個人的にあまり好きではなかったのですが、実際やってみるといろいろな会場に移動して街を散策できたり、会場ごとの雰囲気を変えて楽しんでもらったりして。遊び方が増えるのでいいと思いました。ただ、サーキットイベントにもそれぞれの特性や色があるので、そこは制作する側の『意味』がキーワードになってくるのかなと。これは統括しているライブハウスのブッキングマンともたまに話すことですが、『なぜこの組み合わせなのか』を出演者やお客さんに説明できるかどうかは重要だと思います。なんとなく同じジャンルっぽいから一緒にやらせたいというのもわかりますが、何かしらの意味がそこに存在しないと、イベントとしてもバンドのつながりとしてもつまらないものになりそうな気がします」(小牟田)
そんな小牟田氏は2010年代というディケイドをこう振り返る。
「盛り上がっていたというより、バンドがたくさんいたイメージがあります。それもジャンル分けをあえてしても事足りるくらい、1日5バンドから6バンドは当たり前にブッキングできていました。吉祥寺WARPは本当にいろいろなシーンの人が出演してくれていたので、2015年にはそれをクロスオーバーさせたアニバーサリーイベント『FAMILY』を渋谷O-EASTで開催しました。今でこそクロスオーバーなインディーズのサーキットやフェスはいくつかありますが、自分は当時このイベントを超えるブッキングを見たことなかったです。当時のインディーズには面白い発想がそこら中にあった気がします」(小牟田)
その場所だからこそできること
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