ユニコーン(写真提供:三浦憲治)

音楽シーンを撮り続ける人々 第19回 [バックナンバー]

古希を過ぎてもチャレンジし続ける三浦憲治

長く続ける秘訣は写真とライブへの愛

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アーティストを撮り続けるフォトグラファーに幼少期から現在に至るまでの話を伺うこの連載。第19回は、古希を過ぎた現在もなお国内外問わずさまざまなアーティストを撮影している三浦憲治に、カメラマンを志したきっかけやこれまで撮影してきたアーティストとのエピソードなどを聞いた。三浦が撮影したユニコーンの写真と共にお届けする。

取材・文 / 佐野郷子(Do The Monkey)

運動会や遠足の写真を売った小学生時代

生まれたのは1949年、広島市内。教師だった親父が趣味で写真をやっていて家に暗室があったんで、子供の頃から何かと手伝わされていてね。小学校5、6年のときには自分で写真のプリントができたから、運動会や遠足の写真を1枚5円で同級生に売って小遣い稼ぎをしていた。そんな環境で育ったから、高校時代に写真部に入り、アルバイトして初めて自分のカメラを買った。レンズや三脚なんかは部費で調達して、原爆ドームや宮島へ撮影に行ったりして。あの頃はけっこう真面目だったんだよ。この経験が還暦を過ぎて、2014年に始めた「ミウラヒロシマ」という個展の原点になった。同じ広島出身の矢沢永吉、吉川晃司、ユニコーン、奥田民生を撮影するようになったのも縁も感じるし、18歳で故郷を離れて、改めて今の自分の目に広島がどう写るのか興味があったんだ。

ユニコーン(写真提供:三浦憲治)

ユニコーン(写真提供:三浦憲治)

プロのカメラマンってどうやったらなれるんだろう……? 俺の世代だとまだそういう時代だったね。写真の勉強をするにはどこに行けばいいのか調べたら、中野に東京写真短期大学というのがあることがわかって、高校卒業後に東京へ出てきた。ところが、上京したらいきなり学生運動真っ盛りで。俺はノンポリだったけど、若者として好奇心はあったし、その熱い様子を写真に撮りたいと思ったんだろうね。新宿騒乱事件のときにもカメラを持って現地に行ったら、機動隊に投石する若者を取り締まっていた警官に「手を見せてみろ!」って呼び止められたこともあったよ。そんな時代だから、大学にまともに通ったのは半年くらい。実家の写真館を継ぐために大学に入ったような同級生が多い生温い環境にもあまりなじめなかったし、やっぱり現場を経験したくて、撮影スタジオでアルバイトを始めたんだ。

川西幸一(ユニコーン)(写真提供:三浦憲治)

川西幸一(ユニコーン)(写真提供:三浦憲治)

長濱治の弟子に

バイト先のスタジオに撮影に来ていたのが、当時の売れっ子カメラマンの1人、立木義浩さん。立木さんのアシスタントたちが学校の先輩だったこともあり、アシスタントのアシスタントみたいな立場で働くようになったんだ。立木さんを通して初めてプロのカメラマンの仕事を知り、寝る暇もないほど忙しかったけど、学校と違って楽しくてしょうがなかったね。見たこともないカメラやプロの暗室に興奮したし、ファッションから女優のポートレートまで、撮影の現場にいながら体で覚えていくほうが自分には向いていたんだよ。

自ら志願して立木さんの最初の弟子、長濱治さんのアシスタントになったのは、21歳の頃。長濱さんが当時「平凡パンチ」の仕事をしていたから、俺もくっ付いて編集部に出入りしていたら、ある日、Led Zeppelinが初来日すると聞いたんだ。これはどうしても観たいと思ったね。そしたら「平凡出版の腕章していれば入れるよ」と。喜び勇んでいた俺に長濱氏が「お前、カメラ持ってけよ」って言ってくれたんだ。写真が撮れるのはもちろんうれしかったけど、Zeppelinを一番前の席で観られることにすごく興奮した記憶がある。

ABEDON(ユニコーン)(写真提供:三浦憲治)

ABEDON(ユニコーン)(写真提供:三浦憲治)

魚眼好きのルーツはThe Byrds

中学、高校時代から音楽、特に洋楽が好きだった。というのも、広島は岩国の米軍基地が近いからFEN(Far East Network)が聴けたのが大きいね。FENでアメリカの最新チャートの音楽を聴いていたから、地方に住んでいたわりには詳しかったほうだと思うよ。その頃一番好きだったのは、「Mr. Tambourine Man」という曲がヒットしていたThe Byrds。彼らのアルバムに魚眼レンズを使ったジャケット写真があって、あれが俺の魚眼好きのルーツなんだってずっとあとになって気が付いた。

ずっと頭の隅に音楽というものがあったんだけど、俺が上京した60年代後半の新宿といえばジャズじゃない? 俺も背伸びしてジャズ喫茶に行ってみたんだけど、ジョン・コルトレーンなんて聴かされても何が面白いんだか全然わからない(笑)。先輩に「お前は写真をどう考えているんだ?」とか説教されたり、そういう理屈っぽい空気が当時はあってね。60年代後半に新宿駅西口地下広場で盛り上がっていた“フォークゲリラ”も俺にはピンと来なかったんだよ。

ユニコーン(写真提供:三浦憲治)

ユニコーン(写真提供:三浦憲治)

海外アーティストを多く撮影した70年代

70年代に入って、来日するロックミュージシャンが増えたのもタイミングとしてはよかったんだろうね。当時は音楽誌も「MUSIC LIFE」くらいしかなくて音楽専門のカメラマンはほとんどいなかったから、長濱氏のアシスタントをしながら「横で撮れ」って言われて、「箱根アフロディーテ」(1971年開催の野外ライブイベント)のPink FloydとかGrand Funk Railroadとか、外タレのライブを随分撮ったね。報道で入っているスポーツ新聞のカメラマンに望遠レンズの使い方を教えてもらったり、「MUSIC LIFE」でよく撮影していた長谷部宏さんや井出情児の撮り方を横で見ながら現場で学んだことは多かった。なんと言ってもあの頃、好きなロックの現場に行けたのは大きかったし、このまま写真を続けていきたいと思うようになったんだ。

アシスタント時代には鋤田正義さんにも刺激を受けたね。鋤田さんは長濱さんと仲がよかったからカメラを借りに行かされたりしていたんだけど、事務所にデヴィッド・ボウイの渋谷公会堂ライブ写真が貼ってあって、日本でもこういう写真が撮れるんだと驚いた。それから俺もライブをちゃんと撮りたいと思うようになった気がするね。

奥田民生(ユニコーン)(写真提供:三浦憲治)

奥田民生(ユニコーン)(写真提供:三浦憲治)

アシスタント仲間がパリだのニューヨークだのに行くようになったのは、1972年頃からかな。それは師匠から独立するための口実でもあって、俺も影響されて親に金を借りてニューヨークに行ったんだけど、3週間で帰ってきちゃった(笑)。でも、俺がアメリカに行くことを聞いたレコード会社の人にSantanaのニューヨーク公演の撮影を頼まれて、それがきっかけで横尾忠則さんがアートワークを手がけたSantanaのライブアルバム「ロータスの伝説」のジャケットに写真が使われたんだよ。アメリカから帰国してから親には「お前は見通しが甘過ぎる!」ってさんざん怒られたけど、何がどう転ぶかわからないと思った。

独立した頃は、音楽の仕事だけで食っていけると思っていなかったから、フリーになって最初の仕事は女子中高生向きのファッション誌「mc Sister」のファッションページ。フリーになって自分の部屋に暗室を作ったんだけど、酒飲みながらプリントしたりするもんだから写真のトーンがガタガタで師匠のレベルとはあまりにも違う。モノクロのプリントがちゃんとできないとフリーとして認められない時代だったから、これじゃいかんと加納典明の助手をやっていた仲間と一緒に独立した暗室を作ったんだよ。それ以来、40年以上ずっとその場所で続けている。

一般誌でも音楽のページが増えてきたのが、俺がフリーになった70年代の半ば辺りかな。雑誌やレコード会社やイベンターの依頼で、来日したミュージシャンのライブや、スージー・クアトロやThe Doobie Brothersのオフショットを撮る仕事が増えていったんだ。Queenも何度も撮らせてもらったけど、「Bohemian Rhapsody」のシングル盤のジャケ写が自分の写真だったことは最近になって人に言われて気が付いた(笑)。

ユニコーン(写真提供:三浦憲治)

ユニコーン(写真提供:三浦憲治)

初めて撮った日本人アーティストはユーミン

日本のアーティストを初めて撮ったのは、たぶんユーミン(松任谷由実)だったんじゃないかな。師匠の長濱さんの義理の弟がユーミンの初代マネージャーで、事務所に遊びにきて「うちの荒井由実も撮ってよ」と頼まれて、紀伊国屋ホールに撮りに行ったのが最初だね。ユーミンに「私も外タレみたいに撮って」と言われたのを覚えている。同時期にCAROLの日比谷野外大音楽堂での解散コンサートも撮っているんだけど、その頃から「GORO」の仕事で井上陽水や日本のアーティストを撮影する機会が増えて、ジャケット撮影やツアーパンフレットも頼まれるようになるんだ。

そこでアートディレクターとの交流が生まれて、ユーミンから紹介された信藤三雄氏と多くのジャケット撮影で組むようになるんだよ。ユーミンでは「ダイアモンドダストが消えぬまに」から「TEARS AND REASONS」まで、ほかにもフリッパーズ・ギターや高橋幸宏さんなど、信藤氏とは80年代から90年代にかけてたくさん仕事をしたね。日本のアーティストとスタジオでアルバムのテーマや本人の意向をくみ取りながら、アートディレクターと一緒に新しい撮影方法を考えるのも楽しかったし、それは外タレにはなかったものだからね。日本語も通じるし(笑)。

俺は音楽関係と並行して、雑誌の仕事でファッションやポートレート、風景などの撮影も続けていたので、いわゆる音楽カメラマンとは言えないんだけど、興味のあることならなんでもチャレンジする柔軟な姿勢でいたら、面白い仕事ができるようになったんだよね。雑誌だと「撮影:三浦憲治」というクレジットが入るから、売り込みをしなくても自然と声がかかったし、「これを三浦憲治に撮らせたらどうなるんだろう」と編集者やアートディレクターが考えてくれたというのがたぶん大きかったんだと思う。そういう意味では人と時代に恵まれていたんだろうね。

ユニコーン(写真提供:三浦憲治)

ユニコーン(写真提供:三浦憲治)

奥田民生(ユニコーン)(写真提供:三浦憲治)

奥田民生(ユニコーン)(写真提供:三浦憲治)

YMOのワールドツアー密着は得難い経験

日本のロック、ポップが売れるようになったのって80年代からだよね。それもまたいいタイミングだったんだと思う。Yellow Magic Orchestraを撮るようになったのは「GORO」がきっかけで、YMOがワールドツアーへ行くときに写真集を作るという話になったんだ。それが「OMIYAGE」(1981年発行の写真集)なんだけど、40日間7カ国のワールドツアーに密着したのは三者三様の人間性や被写体としての個性も含めて、得難い経験だったね。「OMIYAGE」はYMOのアートディレクターでもあった奥村靫正がディレクションを務めて、編集が矢沢永吉の「成りあがり」を手がけた小学館の島本脩二氏だったから、ビジュアルや構成にも徹底的にこだわった写真集になった。今でも若い世代が「『OMIYAGE』は面白い」と言ってくれるのはそのおかげかもしれないね。YMOの3人とは散開以降も縁は続いて、それぞれのソロ活動や再結成のときも撮影してきたから、去年の俺の古希にYMO結成40周年を記念した写真集「40 ymo 1979-2019」を出版することができたんだ。今でも俺より年上で、はっぴいえんどから観ている細野(晴臣)さんに会うと緊張するんだけどね。

80年代はサザンオールスターズの写真集(1983年発行の「たいした夏」)やチェッカーズやBARBEE BOYSのツアーパンフ、ユーミンと撮影でロシア、モナコ、それからペルーのマチュピチュに一緒に行ったりと、日本のミュージシャンの撮影がメインになった。海外のアーティストは70年代と違ってライブの頭3曲しか撮らせてもらえなくなったり、ガードが厳しくなってきたこともあってね。例外的にアルバムのジャケ写を撮影したのが、Sex Pistolsのジョン・ライドンが結成したPublic Image Ltdの「Live in Tokyo」。俺は音楽としてのパンクはあんまりわからなかったんだけど、ジョン・ライドンを新宿の雑踏で撮ったら、これが評判になってね。俺にしたら、こういう写真は「BRUTUS」とかの雑誌の仕事で撮りなれていたし、撮影時間なんて5分かそこらだったと思うよ。そこはライブと同じ。ライブの延長でミュージシャンを撮ることで鍛えられてきたからね。ライティングを綿密に計算して、バシッとキメた写真にも憧れるんだけど、ロックンロールの感じで撮りたいというか、そういうほうが自分もノるんだよ。

90年代はCDジャケットを一番撮影した時期だね。信藤氏の主宰するコンテムポラリー・プロダクションの仕事でORIGINAL LOVEやMr.Childrenも撮ったし、スチャダラパーとか森高千里とか若くて面白いアーティストが次々登場して俺も刺激を受けたし、音楽業界もイケイケだった気がするね。

手島いさむ(ユニコーン)(写真提供:三浦憲治)

手島いさむ(ユニコーン)(写真提供:三浦憲治)

ABEDON(ユニコーン)(写真提供:三浦憲治)

ABEDON(ユニコーン)(写真提供:三浦憲治)

ユニコーンとは相性がよかった

ユニコーン(写真提供:三浦憲治)

ユニコーン(写真提供:三浦憲治)

ユニコーンを最初に撮ったのは「ケダモノの嵐」のジャケット撮影だったんじゃないかな。ジャケ写は川西(幸一)くんが帯に隠れちゃって記念写真の欠席者みたいになったんだけどさ(笑)。それ以来、「PATi PATi」を中心に撮るようになった。あの頃の音楽誌って勢いがあったから表紙・巻頭で20ページとか平気であったよね。バンドブームの中でもユニコーンは飛び抜けて人気があったけど、どこかコミカルで変な顔の写真でもOKというところがあったから相性がよかったのかもしれない。当時のマネージャーによると「メンバーの広島弁がわかるカメラマン」として重用してくれたみたい。あと、ツアーパンフのデザインを手がけていたのが安齋肇だったというのもあるね。安齋とは彼がレコード会社のデザイン室にいた頃からの知り合いで、ソラミミストとして有名になる以前から仕事で一緒になったことがあって、昔から変なオヤジだと思っていたけど、お互いに長く仕事をしている腐れ縁でもあるから、安齋が初監督した映画「変態だ」で俺も撮影監督を務めたり、何かとつながりは深い。

ユニコーン(写真提供:三浦憲治)

ユニコーン(写真提供:三浦憲治)

左からABEDON、奥田民生(ユニコーン)(写真提供:三浦憲治)

左からABEDON、奥田民生(ユニコーン)(写真提供:三浦憲治)

ユニコーンが解散してからの奥田民生もずっと撮ってる。奥田くんも自分で写真を撮るから勘がいいんだ。魚眼レンズが一番似合う男とも言えるね。魚眼で顔が歪むのが苦手だっていう人もいて、それはカメラで寄っていくとすぐわかるんだけど、奥田くんやPUFFYは平気なんだよね。そういえば、隣の中学出身で同い年の矢沢(永吉)には魚眼、使ったことないな(笑)。ユニコーンにしたって気が付けば出会ってから早30年じゃない。「えっ、奥田くんがもう50過ぎ? 川西くんが還暦?」という驚きはあるけど、みんなイイおじさんになっても元気で活躍しているのはうれしいよ。俺もユニコーンのライブだと自由に撮れるから、気持ちが若い頃に戻るんだろうね。高い位置から撮影するためにカメラに長い棒を付けたのもユニコーンが最初だった。今年の5月に発売した、去年のユニコーン再始動10周年を追いかけた写真集「ユニコーン100周年写真集“百が如く”」で、そんな写真の数々をぜひ見てほしいね。

ユニコーンと三浦憲治(写真提供:三浦憲治)

ユニコーンと三浦憲治(写真提供:三浦憲治)

若い奴らを撮ってみたい

YMOが40周年、ユニコーンが30周年を超え、ユーミンや井上陽水とはもっと長い付き合いになるし、そりゃ俺も古希になるわけだ。ただ、再結成や再始動で昔よく撮影していたミュージシャンにひさしぶりに会っても、俺の場合、「やあやあやあ」で済んじゃうんだよね。BARBEE BOYSでも岡村靖幸でもそれは変わらない。「長く続ける秘訣って何ですか?」ってよく聞かれるけど、写真とライブが好きだってこと以外に思いつかないんだよ。音楽は時代で変わっていくから面白いし、俺はそれをミュージシャンの横で撮影しながら面白がってきたんだよね。だから今も若い活きのいい奴らを撮ってみたいと思ってるよ。「あのカメラマン、おじいさんだけど大丈夫?」って言われるかもしれないけどな(笑)。

三浦憲治

三浦憲治

三浦憲治

1949生まれ。広島県出身。東京写真短期大学卒業後、長濱治に師事する。アシスタント時代から独立後の現在まで国内外問わず多くのアーティストのジャケット写真やライブ写真を撮影している。2019年に発行されたYellow Magic Orchestraの結成40周年記念写真集「40 ymo 1979-2019」で撮影を担当した。2020年5月には、再始動10周年を迎えた2019年のユニコーンを撮影した写真集「ユニコーン100周年写真集“百が如く”」が発売された。

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