2019年10月、
本稿では、このツアーのために渡米して全公演を観覧した音楽ライターの松永良平が、各都市でのライブの様子やそれに対する現地の反応をレポート。坂本の音楽が今、アメリカの音楽ファンたちの間でどのように受容されているのかを取材した。
取材・
10月15日夜、サンフランシスコ
サックスの西内徹がタンバリンを振り出した瞬間、ドキッとした。坂本慎太郎がゆっくりとコードストロークで入ってきて、それがあの曲だとわかるまで、時間にしてわずか数秒だったと思う。だけど、もっと長い間、待ったような感覚になった。
実際、何日もハラハラして待ったし、何年もずっと待ち続けてもいたのだ。螺旋を昇るようにストロークがリフになり、菅沼雄太のドラムとAYA(OOIOO)のベースが音の隙間に入り込んできて、コップに溜まった水滴がついにあふれ出したように歌が始まった。
まともがわからない。
あーうー。
声にならない声が変な汗と一緒に自分から出ている気がした。
2019年10月15日の夜、サンフランシスコから坂本慎太郎のアメリカツアーは始まった。
台風19号が立ちはだかったツアーの幕開け
この日、坂本が出演するGreat American Music Hallがあるのは、シスコのチャイナタウンの外れ。テンダーロインというゲットー区画と隣接していて、環境的にはまるで安全とは言えない。シリコンバレーの恩恵により世界一生活に金がかかる都市になっているシスコの躁病的なムードからは忘れられてしまったダウナーな一画を通り抜けてたどり着いたホールには、時間が止まってしまったような空気とこの街の現実というリアルが交錯する不思議な匂いがした。由緒ある建物は1907年の建造。650人ほどをスタンディングで収容できるという。チケットはソールドアウト。物騒なテンダーロインを抜けて、続々と観客は集まった。掛け値なしの超満員だった。
折しも関東を10月の週末に直撃し、大きな被害を出した台風19号は、ソロとして初の全米ツアーに出かける予定だった坂本慎太郎のチームの前にこれ以上ないタイミングで立ちはだかった。羽田も成田空港も閉鎖され、10月13日(アメリカ時間)に出演するはずだったロサンゼルス郊外のフェス「Desert Daze」の出演はあえなくキャンセルに(実現していれば、ジェリー・ペーパー→坂本慎太郎→Khruangbinという最高のタイムテーブルだったのに!)。
実は、2日後に開催される予定になっていたこのサンフランシスコ公演のための渡米も、かなり綱渡りな状況だったとあとで聞いた。だが、とにもかくにも、彼らはアメリカにやって来た。ゆらゆら帝国での最後のアメリカ公演からは10年経っていたし、そもそもアメリカでは東海岸以外ではライブしたことがない。きっと何年も待っていた熱心なファンもいただろう。先にアメリカに着いていた僕も、ハラハラしながら渡米のなりゆきを待っていたので、ひとまずは胸をなでおろした。
そして、そんな過酷な状況を越えて始まったアメリカツアーで、日本はおろか世界中でもまだ一度もライブで演奏されたことのなかった「まともがわからない」がその夜に歌われたんだから。聴いてる僕の心そのものが、まさに“まともがわからない”状態になってしまった。
パートナーを肩車して踊る客もいれば、酔客同士の小競り合いもあり、パーティ気分ですっかりハイになった観客たちは、最後の「小舟」が終わってもまるで立ち去る様子を見せず、20分ほど「サカモトー!」というコールがあちこちから聞こえ続けていた。
日本語のアクセントで会場に響く「ロボットー!」コール
サンフランシスコエリアでの2日目(10月16日)の公演となったサンラファエルの街は、ゴールデン・ゲート・ブリッジを渡って30分ほど北上したところにある海辺の街。前日とは雰囲気が一変し、海の匂いも気持ちいいメキシカンタウンだった。ここにGrateful Deadのベーシスト、フィル・レッシュがオーナーを務めるライブハウス・Terrapin Crossroadsがある。昨夜とは客層も打って変わって年齢層も高く、ゆったりとレイドバックしたムード。出足もかなりゆっくりとしたものだった。
サンフランシスコ2公演のフロントアクトは、ニューヨークの伝説的なアウトローアーティスト、ゲイリー・ウィルソン。サングラスとウィグで装った自身の姿や、バンドメンバーの変態的なコスチュームも含め、40年以上にわたって一貫したエキセントリックなアートフォームで活動を続けてきたゲイリーは、この二晩ともに自分のライブを貫いた。
フィル・レッシュがこだわって作ったというこのベニューの鳴りはとてもウオームで心地よく、前夜はちょっと緊張しているようにも見えた坂本慎太郎の演奏も、わりと大人なノリもあった客層を相手に、かなり落ち着きを取り戻したように感じられた。
ツアー3カ所目(10月18日)はシカゴ。会場のSubterraneanは、今回の行程の中ではもっともコンパクトで、いわゆる日本的なライブハウスにも近い構造。場内は二階構造になっていて、下のフロアに300人ほどがぎゅっと詰め込まれ、吹き抜けになった2階からもステージを見下ろせるようになっている。もちろんこの日もチケットはソールドアウトしていた。
ツアー後半のフロントアクトはブラジル人シンガーソングライター、セッサが務める。ちょうどサンパウロから、パーカッションと3人の女性コーラスからなる自分のバンドと北米ツアーを行っているところだった。若い頃のカエターノ・ヴェローソとQuarteto Em Cyが共演したかのような演奏は神秘的でありながらフレンドリー。表現はアコースティックながら、限られた音数で独自の空間を作り出すアプローチは坂本慎太郎の音作りにも通じるものがあり、観客にもかなり好意的に受け入れられていた(ニューヨークでも同様に)。
3日目を迎えたツアーで、演奏のグルーヴがさらに高まっていたということもあるけれど、今回のアメリカツアー中、個人的なベストをあえて選ぶとしたらこのシカゴ公演になる。“場末”感もある状況ながら、ハコの環境に合った音が生まれていたし、観客の熱気もダンスも申し分なかった。驚いたのは、アメリカ人が「まともがわからない、あーうー」とコーラスする声があちこちから聴こえたこと。「あなたもロボットになれる」では、僕のすぐ隣にいた青年が「ロボットー!」と叫んでいた。英語なら最初の「ロ」にアクセントだからそんな発音にはならない。だけど彼らは最後の「ト」にアクセントを置いて、ちゃんと曲を理解していた。
終演後、テキサスから来たという女性と話をした。セットリストを書いた紙を手に入れた彼女は、友人に「このひらがなが『まともがわからない』と読むのよ」と、形で説明をしていた。「次にツアーがあるならテキサスも来てほしいわ。みんな待ってますと伝えてね」と彼女は笑った。
耳の肥えたニューヨークの観客は、今の坂本慎太郎をどう見たのか
そして、最終日となる10月20日はニューヨーク・ブルックリン。
会場は、ブルックリンで次にウィリアムズバーグ並に盛り上がる地域はここだと目されているブッシュウィックのElsewhere。大音量のDJセットにも対応できるモダンで音のいいベニューだとニューヨーク在住の友人、唐木元さんから聞いていた。今回のツアーではもっともキャパが大きい。
ゆらゆら帝国時代に4度ニューヨークエリアに来ていることもあって(2005、2006、2008、2009年)、今回のツアー中、最速でチケットがソールドアウトしたのがここだった。その一方で、ゆらゆら帝国時代から坂本と親交が深く、3rdアルバム「できれば愛を」のアメリカでのアナログ盤発売を手がけるMesh-keyレーベルの主宰者・ジャスティンは、ニューヨーク在住者として「ニューヨークが一番客席がクール(醒めているという意味で)かも」との懸念も隠していなかった。10年前とはいえゆらゆら帝国でのライブがニューヨークでは4回行われているから、飢餓感も西海岸とは違うだろう。目も耳も肥えた客層だけに、無心に踊るというより「ソロではどうやるのか、お手並み拝見」とでもいうようなムードが生まれる可能性もある。
サンフランシスコのお客はとにかく無条件にパーティを盛り上げた。サンラファエルはゆったりと大人なムードだった。シカゴには音楽を理解した熱気があった。さて、ニューヨークのお客は、今の坂本慎太郎をどう見る? ある意味でそれは、今回のアメリカツアーで一番興味深いお題だった。
しかし、結論から言えば、それは多くの面で杞憂だった。10年ぶりのニューヨークで坂本慎太郎が提示した今の自分は、多くの観客の心理と肉体に驚くほどの確率でフィットしていたと思う。
「スーパーカルト誕生」で歌われるディストピアに揺れ、アフロポップ的なリフへと進化した「死者より」でグルーヴをつかみ、坂本版のディスコクラシックとしてライブで人気曲に定着した「仮面をはずさないで」では我を忘れて誰もが踊った。意味まではっきりと理解しているわけではなくとも、英語圏のリスナーは言葉に埋め込まれた感覚を感じ取っていることがわかる。それは、かつて(今も)僕らが日本語以外の音楽、つまり洋楽から自然と受け止めてきた言葉の感情と同じものだと言えた。
アメリカだから、海外だから特別に何かをしているわけではない。坂本慎太郎がライブ活動再開後にバンドでやってきたことはまったく変わっていない。というか、変わらないからこそ受け入れられているという事実を、しっかりと実感できたツアーだった。
「ずぼんとぼう」から続けて「できれば愛を」を演奏しているとき、坂本の表情がまるで水木しげるの描く妖怪みたいに見える瞬間があった(どの妖怪かは想像してください)。そのとき、「きっと坂本さんは今最高にノっている」と感じた。なぜそう思ったのか自分でもよくわからないけど。そして、4夜目の演奏になって、アンサンブルもかなりしっかりと安定してきた「まともがわからない」。ニューヨークでも「あーうー」というコーラスで場内が満たされた。「ディスコって」で巨大なミラーボールが回ったのち、「ナマで踊ろう」終盤のギターソロに興奮は頂点に達し、「君はそう決めた」で場内の興奮をゆったりと収めていく。言葉もわからないはずの観客が、ゆったりと揺れながら、自分たちの言葉で「きみ(=おれ / わたし)はそう決めた」と自らに問うている。そうとしか思えない光景だった。
この日の最後、サンフランシスコ以来となる新曲「小舟」が演奏された。シスコでは盛り上がりすぎた観客の興奮を逆に煽るかたちになってしまった静かな新曲「小舟」が、この夜は“シーン”という擬音が目に見えそうなほど空気の流れを止めた。ライブは勝ち負けで測れるものではないけれど、この夜の「小舟」で坂本慎太郎はニューヨークの観客を、自分らしさを一切変えず、一番あり得ない形でノックアウトしたと僕は思う。
終演後の場内で、以前に唐木さんに紹介された黒人ジャズミュージシャンと再会した。「あのミニマムさでやれるのはすげえよ!」と彼は目を輝かせていた。実際、普段のこのハコが出せる3分の1程度の音量で、しっかりPAも抑制されていたそうだ。ちなみにツアーPAは、日本でのライブと同様に佐々木幸生さんが担当した。
この日はYo La Tengoのメンバーが3人とも来ていて、ライブ中ずっと気持ちよく踊っていたそう。アイラ・カプラン(Vo, G)に「次はニューヨークでもYo La Tengoと坂本慎太郎で一緒にやれたらいいですね」と言ったら「そりゃ最高だよ!」とうれしそうに答えた。
あくまで願望としてだけど、アイラの心ではすでにそう決めているかのように、僕はその言葉を聞いた。彼らもきっと「あーうー」と口ずさみながら帰って行ったに違いない。
※記事初出時、本文中に事実誤認がありました。訂正してお詫びいたします。
- 松永良平
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1968年、熊本県生まれの音楽ライター。大学時代よりレコード店に勤務し、大学卒業後、友人たちと立ち上げた音楽雑誌「リズム&ペンシル」がきっかけで執筆活動を開始。現在もレコード店勤務の傍ら、雑誌 / Webを中心に執筆活動を行っている。著書に「20世紀グレーテスト・ヒッツ」(音楽出版社)、「僕の平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」(晶文社)がある。
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リンク
大根仁 @hitoshione
「まともがわからない」演ったんだ!?RT @natalie_mu: 坂本慎太郎の音楽は今、アメリカでどのように受容されているのか|ソロ初のアメリカツアーに全通した松永良平が、現地の様子をレポート
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