イラスト / 徳永明子

映画と働く 第20回 [バックナンバー]

現場の助監督やピンク映画から監督への道を作る!映画プロデューサー久保和明が語る映像制作会社の存在意義 目指す未来とは?

5

146

この記事に関するナタリー公式アカウントの投稿が、SNS上でシェア / いいねされた数の合計です。

  • 26 46
  • 74 シェア

1本の映画が作られ、観客のもとに届けられる過程には、監督やキャストだけでなくさまざまな業種のプロフェッショナルが関わっている。連載コラム「映画と働く」では、映画業界で働く人に話を聞き、その仕事に懸ける思いやこだわりを紐解いていく。

第20回となる今回は、「アルプススタンドのはしの方」や「ビリーバーズ」「水深ゼロメートルから」などで知られる映画プロデューサーであり、映像制作会社レオーネ代表・久保和明にインタビューを実施した。映画、ドラマ、Vシネマ、ピンク映画などさまざまなジャンルを縦横無尽に行き来し500タイトル以上を世に送り出してきた久保。初プロデュース作から25年、会社を設立してから20周年という節目を迎えた彼にその半生を振り返ってもらった。盟友・城定秀夫との出会いや、仕事をするうえで大切にしていること、特集上映「LEONE for DREAMS」の狙いも聞いている。

取材・/ 金子恭未子 題字イラスト / 徳永明子

久保和明の履歴書

久保和明の履歴書

俳優として売れるための努力を続けることは難しかった、でも作品を作るためなら努力できる

──久保さんは日本映画学校(現・日本映画大学)の俳優科ご出身と聞きました。どういう経緯で、俳優科に進まれたんですか?

高校時代は、野球に夢中になっていて、卒業したあと何をするかまったく考えていなかったんです。浪人する人も周りにいたので浪人っていいなと。それで、1年掛けてじっくり人生を振り返ったときに、自分は世の中で1番楽しいことをしたいと思って、子供の頃から生きてきたことに気付いた。大人の世界で楽しいことってなんだろう?と考えたら、テレビとか映画の世界の人たちって楽しそうだなと思いました。当然、出るほうが楽しいと思ったので、日本映画学校の俳優科に行くことにしました。

──演技は楽しいものでしたか?

最初は、演技の授業に参加しても、一言、二言セリフを言って、これの何が面白いんだろう?と、わからなかった。ある日、先生に呼び出されて、「お前やる気ないな」と言われたので、「そう見えるならそうじゃないっすか」って返したら「お前がいると空気が悪くなる。上級生の映像実習に行け!」と命じられたんです。その実習に参加してからですね、芝居の面白さが見えてきたのは。相手がこう出てきたら、自分もこう反応してという掛け合いができて、自分のやり方次第で、お芝居が無限に広がっていく可能性を感じました。

久保和明

久保和明

──卒業後は「はみだし刑事情熱系 PART5」で俳優デビューされました。

そこに行き着くまでにはだいぶ時間が掛かりました。プロフィールに書けるのは、身長体重、生年月日だけで、経歴は0。誰が使ってくれるんだろう?と思いながら、制作会社を1人で回っていた。今考えれば当然なんですが「俳優やろうと思ってます!」と挨拶に行っても、誰も話を聞いてくれませんでした。履歴書をくしゃくしゃにされることもあった。紙だから捨てられるんだろうと思って、プロフィールを下敷きにすればいいんじゃないかと(笑)。最低ロット2000枚で作ってくれるところを見つけて、今度は下敷きを持って、いろんな制作会社に行きました。でも結局、何も変わらなかった。

──日本映画学校から、仕事やオーディションを紹介されることはなかったんですか?

なかったですね。ただ在学中に、あるベテラン女優さんが所属している事務所の社長の奥さんと知り合いになったので、相談したら「いくつかの制作会社に話を通しておくよ」と言ってくれたんです。そこから、相手の態度が180度変わりました。それまでは誰も話を聞いてくれなかったのに、アドバイスまでくれるようになった。人脈というのはデカいと知りました。

特に話を聞いてくれたのは、2時間ドラマを制作している会社だった。元NHKとか元TBSの人が独立して立ち上げたところで、皆さん年配の方。年間2本ぐらいドラマを作ればやっていけるので、みんなのんびり仕事をしていたんです。そこに半年ぐらい通っていたら「新作を撮るぞ!」と。でも「プロダクションに所属してくれ」と言われた。そこでようやく芸能事務所を探す必要があると気付きました(笑)

──フリーだと難しかったんですね?

今は違うと思いますが、当時は何かあったときに誰も責任が取れないので「使いづらい」と言われました。そこから事務所を探し始めたんですが、大手だと何百人の中の1人になるので、自分の意見は聞いてくれないだろうなと。それで社長1人でやっている小さな芸能事務所を選びました。「俺がここに所属したらぶっちぎりで1位だから」ってアピールして。でも、あるのは下敷きだけなんですよ(笑)。

──(笑)

所属してからは「俺を1番にプッシュすれば、メリットはあるから!」って社長を説得して、懇意にしている制作会社の人と会うときには、一緒に連れて行ってもらいました。その中の1人が「はみだし刑事情熱系」のキャスティングプロデューサーだったんです。「俺が1番いいですよ! 芸歴とか関係ないじゃないですか!」とか言っていたら、「久保くんにいい役がある。中学生に薬売りまくるやべえ男なんだけど(笑)」って。「ほかにやれる人いないっすよ!」なんて言って、デビューが決まりました。

──ご自身で勝ち取ったんですね。

それ以降は、自分で交渉して、いろんな作品に出られるようになりました。そしたら事務所の社長から「久保くんは圧倒的だから、会社全体の営業をしてみない?」と誘われたんです。提示された月給は12万。そのうえ、自分で自分を売り込むと、役者としての商品価値を下げることはわかっていたんです。だから悩んだんですが、メリットに変えればいいかなと。

──やはり人脈ですか?

それが1番ですね。まだ20代前半だったので最初は相手にしてくれなかったのですが、なめられないように“営業部長”って名刺を作って挨拶に行くと、無下にはされないんです。ただ当時は、僕も含めて、売れていない俳優の価値は0だと営業をすればするほど実感していきました。だから仕事を取るのは難しい。そこで、普通なら「何か、役はないですか?」と尋ねて回るところを「何か困っていることはないですか?」と聞くようにしたんです。

──なるほど。

映像制作の現場って、基本的にみんな困っていたんですよ。「明日、エキストラ30人必要なんだよね」とか「ヤンキーを5人そろえなきゃいけない」とか。そこで「剃り込みからリーゼントから、全部俺に任せてください!」と言って、きっちり仕切って、信用を勝ち取っていった。1カ月半で3000人ぐらいエキストラが必要な作品もあったんですが、全部、任せてもらえるようになりました。

──そうなると、事務所に所属している俳優さんだけだと対応できないですよね?

事務所の社長に、所属俳優を80人ぐらいまで増やしてくれと頼んで、あとはいろんな事務所や劇団とつながりを持ちました。そうやって、エキストラを仕切りながら「まだ空いている役があれば、うちにやらせてください!」とお願いする。徐々にいい役も入れてもらえるようになったし、作品が動き出せば事前にオーディションの情報ももらえるようになりました。そんな中で、力のある俳優はレギュラーも勝ち取っていった。まったく芸歴がない状態から大きな役に抜擢される俳優もたくさんいました。もう価値は0なんて言わせないと思いましたね。

──順風満帆だったんですね。

ただ、どんどん仕事は決まるものの、自分が演じられるのは警察官Aや配送業社Bが精一杯。一言、二言セリフを言って帰ってくるだけ。楽しいことができる世界だと思っていたのに、現実は違った。憧れる俳優さんともっとお仕事がしたい! 面白そうな監督とがっつり仕事がしたい! もっと作品にしっかり関わるためにはどうすればいいんだろう?と考えたとき、答えは俳優として売れることでした。でも、それは現実的ではないんだろうなと感じていました。

──20代前半でそう感じた理由は?

売れるために何を努力すればいいかわからなかったんです。毎日○○すれば、役者として成功するなんて法則はない。“売れる”って、宝くじが当たるのに似ているなと思ったんです。当たることを期待して、毎日宝くじを買う努力は続けられない。そこで気付いたんです。自分で作品を作って、そこに好きな監督や俳優を呼べばいいんだと。これは楽しいぞと思いました。

──映画制作も決して低いハードルではないですよね。

ただ、売れるための努力はできないけど、作品を作るための努力ならできると思ったんです。当時、自分が主演を務めていたピンク映画やVシネマなら何かできるかもしれないと考えました。出資金を集めたり、いろんな能力が高くないとプロデューサーはできないことに気付いていなかったんです(笑)。

15年以上、自分の作品が世の中から無視されていると感じていた

──プロデューサーには、俳優や営業とはまた違ったスキルが必要になると思います。

そうなんですよ。その時点で、かなりの人脈を作ってはいたものの「映画を作りたいんです」と言っても、誰も話を聞いてくれませんでした。慣れっこになっていたのであまり気にはしていませんでしたが。そんなとき、たまたま地元の千葉・市川に帰ったら、ラジオ局が目に入ったんです。番組を作れば、何か道が開けるかもしれないと思って、「ここで番組やりたいです」とその足で挨拶しに行きました(笑)。

──また、かなり急な話ですね(笑)。

僕からしたら、もうそういうのが普通だったんです(笑)。「将来地元のヒーローになるんで! たぶん!」ってお願いしたものの、もちろん断られました。でも、1時間ぐらい映像業界に関する雑談をして帰ったら、すぐに「映像業界を語る1時間番組をやってみる?」と連絡があった。

──ラジオ番組と映画制作はどのようにつながっていたのでしょうか?

ラジオを通して、映画監督やプロデューサーとの人脈を作りたかったんです。自分で番組を持って、「今度、新作が公開されますけど、取材させてもらえませんか?」とお願いすると、けっこう有名な監督やプロデューサーもだいたい受けてくれました。

──なるほど。

そこからが自分の本番です。取材が終わったあとに、「自分でも作品を作りたいんです。どうすればいいですか?」と聞くと、皆さん親切に教えてくれました。そうやって企画書の書き方や出資の集め方を覚えていった。

──そこからどのようにプロデュース第1作につながっていくんでしょうか?

1本目が僕の人生を変えた作品です。当時、一緒にピンク映画に出ていた仲間が事故に遭って、入院してしまったんです。かなり大きな事故で、会いに行ったら、大けがでした。「もう俳優はできない。生きていてもしょうがない……」と、お見舞いに行くたびに泣いていたんです。夢を奪われると、人は死んでしまうなと思いました。7回ほどの手術を経て、ようやく右手が少し動かせるようになった。それで「この前、話していた合コンの話、面白かったから、シナリオにしてくれ! 一緒に作ろう」と声を掛けたんです。ようやく動くようになった指で少しずつ、パソコンを打って、シナリオを作り始めたものの、画面に「死にたい」と書いてあるのが目に入った。早く、形にしなきゃダメだとかなり真剣になりました。

そんなとき、どうやら「スカパー!」というものが誕生するらしいと聞いたんです。衛生放送って何?という状況だったんですが、Vシアター135というチャンネルの編成にガイラさん(小水一男)が関わるらしいという情報が入ってきた。「ピンク映画やロマンポルノを手がけてきた人だし、信頼できる方だぞ」と聞いて、尋ねて行ったんです。そしたら「この企画が面白いかどうかわからん。でも、お前は面白そうだから1本作ってみろ」と言ってくれた。1枠70分で、濡れ場があるということだけが唯一の条件。スカパー!で放送したあとに、Vシネマとしてリリースするというスキームでした。すぐに入院している友人に報告したら、泣いて喜んでくれた。そうやって作った1本目が「MEANSレッツ合コン!」という作品です。

──それがおいくつぐらいのときですか?

24歳ぐらいのときです。そこから予算を任せてもらって2本、3本と作っていくことになるんですが、正直、急に監督やプロデューサーになっても、何もできない。1本、1本、命を削って作っていく感覚でした。

──レオーネを立ち上げたのは?

27歳ぐらいのときです。最初は所属している芸能事務所の中でやっていたんですが、2004年に法人化しました。今年でプロデューサー生活25年、レオーネ創立20周年なんです。

──苦労もあったかと思います。

そうですね。周りの制作会社は元○○のプロデューサーが独立して作ったとかそういうところばかり。うちにないものは “実績“という圧倒的にどうしようもないものでした。だから何かで特徴を持った会社にならなければと思って、「日本で1番エロVシネマを作っている制作会社」にしようと思いました。そこからVシネマメーカーを回り始めたんですが、どこも女優さんがいなくて困っていたんです。

当時はなぜだかわからないんですが、AV女優はVシネマには出ないという空気がありました。演技が好きで、Vシネマに出てみたいと思っているAV女優さんがいるならその人に出てもらえばいいと思いました。それでAVメーカーにVシネマがなぜNGなのかを聞いたら「専属契約している女優さんはうちでしか観られないという付加価値があるんだから、出演させられないよ」と。

でもVシネマはレンタルビデオ屋のカーテンの向こう側(R18コーナー)ではなく、カーテンの手前に置けるし、女優さんの宣伝になるんですよ。Vシネマを観て女優さんを好きになった人はカーテンの向こう側にも行くかもしれない。そういったメリットを説明したら、「確かにそうだな。お前のところは出演OKにする」と言ってくれた。その後はAV女優をキャスティングできる会社として、Vシネマメーカーに営業していきました。レオーネにお願いすれば、例えば蒼井そらさんや麻美ゆまさん、柚木ティナ(Rio)さんが出てくれるんだという強みを作ったんです。

──作品の反響はいかがでしたか?

それが今まで、プロデューサーをやってきて1番つらかったことです。命を削って、作品を作っているのに、Vシネマは誰が観てくれているのか、どういう感想を持ったのかがまったくわからなかった。

──人気女優さんも多数出演されていますが、ファンの方からの反響もなかったんでしょうか?

ほとんど聞こえてこなかったですね。そこがVシネマの特殊なところだと思います。スカパー!で放送されて、レンタルもされているのに、観た人がどう思ったかまったくわからない。映画やドラマ、マンガはいくらでも作品の感想や批評が転がっているけれど、Vシネマはあまりないんです。SNSが今ほど活発ではない時代だったということもあったと思います。メーカーからは次々と制作依頼が来るので、観てくれている人がいることはわかっていたんですが、極端な話、自分たちが命を懸けて作ったものが15年以上、世の中に無視されていると感じていました。城定秀夫監督とはずっとVシネマを一緒に撮ってきましたが、彼もそこが一番つらかったんじゃないかと思います。

転機となったのは最後のつもりで作ったピンク映画

──久保さんと城定監督はこれまでさまざまな作品でタッグを組まれています。

僕がピンク映画やVシネマに俳優としてたくさん出ていたとき、ピンク映画の助監督といえば、城定秀夫だったんです。どの現場に行っても顔を合わせていた。ようやく、彼が監督デビューできることになったとき、ちょうど自分がプロデューサーを始めた頃だったので「いろいろ手伝うよ」と。そこから監督がVシネマも撮るようになって、じゃあ一緒に作ろうかとなったんです。とても自然な流れでした。それがお互い27歳ぐらいのとき。そこから15年ぐらいは、ピンクは作らず、Vシネマを一緒に作っていました。

──なぜ久保さんはピンク映画から離れたんですか?

ごく一部だと思いますが、当時、ピンクの現場には“早く終わらせて、飲みに行くことが重要”みたいな空気感があったんです。「ピンク映画はいろんなことにチャレンジできる場所であって、そこで力を付けて、違う世界にも羽ばたいていくんだ」といった気概のようなものが下支えとなって、限られた予算で能力を発揮し、名作が生まれていくと思っていたのに、自分が目にしたのは「どうせピンク映画だし、この程度のクオリティでいいや」という現場でした。もちろんピンク映画の現場が全体的にそうだと勘違いしてほしくはありません。ただその日はここにいると自分が腐ってしまうと思ったんです。だから、ピンクではなく、Vシネマを作っていくことにしました。反応もなく、手応えのない中でVシネを作り続けるのは、本当につらかったです。俺たちは面白いものを作っているんだ、自分たちだけはそう信じようとやっていました。

──そんなふうに作り続ける中、2010年には「R18 LOVE CINEMA SHOWCASE VOL.8-その男、城定につき。」が行われ、Vシネマを中心とした城定監督の作品が東京・ポレポレ東中野などで上映されました。

デコトラ★ギャル奈美」を作ったときに、「これはすごい!」と言ってくれる人たちがいたんです。でもまさか、劇場でかけようと言ってくれる人がいるなんて想像していなかった。

「デコトラ★ギャル奈美」場面写真 ©2008GPミュージアムソフト

「デコトラ★ギャル奈美」場面写真 ©2008GPミュージアムソフト

──作品の反響が届くようになったのは、あのあたりからですか?

あまり実感はなかったかもしません。「ものすごく面白かった!」と劇場で言っていただいたのは、本当にうれしかったですし、すごくありがたかったです。でも、むしろ状況は何も変わらないだろうなとより実感しましたし、一過性のものではダメだと思いました。それで、あるとき気付いたんです。映画秘宝とかキネマ旬報で映画評論をしているライターさんは、Vシネマは観ないけど、ピンク映画は観てるんだなって。「ピンク映画まで幅広くフォローしている」というのは、ライターさんにとってアピールポイントにもなったと思うんです。でもそのメリットがVシネマにはなかった。物理的にはVシネマのほうが、ピンク映画よりもたくさんの人に観られているのに、評論されることも、媒体で紹介されることもほとんどなかったんです。

──それがピンク映画に戻る1つのきっかけだったんですね。

そうです。そんなことを思っているときに、ピンク映画がデジタルに移行することになった。ピンクが好きだったのは、フィルムで撮影して、全部アフレコしていることが楽しかったからです。あれがなくなるのは寂しいなと思いました。それで城定監督に「Vシネは誰が観てくれているかわからん。でもピンク映画を観て、紹介してくれる人は確実にいる。最後に1本だけ、フィルムでピンク映画を撮ってみよう」と言ったら、「フィルムが最後ならやろうか」と。それでエクセスフィルムの社長に作らせてくださいとお願いして撮ったのが「人妻セカンドバージン~私を襲って下さい~」です。

──反響はいかがでしたか?

いろんな映画ライターさんが、「城定秀夫というすごい監督がいる!」「発見した!」みたいな感じで書いてくれました。潮目が変わったきっかけはピンク映画だったと自分では思っています。あれが転機になって、過去作品を観てくれる人が増えていった。強引に流れを変えるとしたらあそこしかなかったと思います。だからお世話になったピンク映画の方々には感謝していますし、今でもがんばってほしいなと本気で思っています。

──その後もレオーネさんはピンク映画のプロデュースを続けていますよね。

「人妻セカンドバージン」が最後のピンク映画だと思っていたんですが、その後大蔵映画から城定監督にピンク映画の依頼が来て、僕も入ることになったんです。ただ話を聞いてみると条件が厳しかった。だから、当初、このルールの中ではできないとお断りしようと思いました。

ただ大蔵映画さんでは何も結果を出していない状況で、「ルールは守れません」というのは、おかしな話だと思ったんです。だから、条件通りに作って、結果を残してから、自分たちの作り方でやらせてほしいと言えばいい。それで作ったのが「悦楽交差点」です。

「悦楽交差点」場面写真 ©2015 OP PICTURES

「悦楽交差点」場面写真 ©2015 OP PICTURES

──交渉が決裂していたら「悦楽交差点」は観られなかったんですね。

でも現場の問題点はいくつかありました。ピンク映画は通常3日撮りなんですが、それをやっていたらVシネマを一緒に作ってきたいつものスタッフやキャストのギャラが払えない。だから城定監督に「守るべき人は守らなきゃいけないから、2日撮りでやってほしい」と相談したら「いいよ」と。2日でなんとかしなきゃいけないから、物語をひっくり返せばいいやという構想はそのときに聞きました。

──“あの物語”はそういう背景もあってのことだったんですね。

そうなんですよ。シナリオは衣裳合わせ当日にあがってきて、キャスティングするのもしんどかったのでスタッフの麻木貴仁に出てもらいました。

──ただ麻木さん以上に、春生を上手に演じられる人はいないんじゃないかと思います。

あれは、よかったですよね。俳優やりたいです!って人はエネルギッシュで、意欲的な人が多いですから。でも麻木さんは褒められたいという欲もなくて、普通のおじさんとして存在してくれた。最高でしたね。

──「悦楽交差点」がきっかけでピンク映画を観るようになったという人が周りにもいます。

反響はかなり大きかったです。映画業界の人たちからの注目もあそこでより集まりました。「悦楽交差点」のような低予算の作品は、誰でも撮れるものじゃない。大げさに言うと、「低予算で映画を撮るなら、日本でベストは城定秀夫だろう」となればいいなと思っていたんです。あの作品でそういったことをアピールできたと思うので、作ってよかった。「アルプススタンドのはしの方」を撮ることが決まった頃には、かなり先の仕事も埋まっていたと思います。

「アルプススタンドのはしの方」 場面写真 ©2020「アルプススタンドのはしの方」製作委員会

「アルプススタンドのはしの方」 場面写真 ©2020「アルプススタンドのはしの方」製作委員会

「アルプススタンドのはしの方」は当初、ヒットしている感覚はなかった

──久保さんには映画ナタリーのコラム「ヒット作はこうして生まれた! Vol. 3」でも、アンケートにお答えいただきましたが、「アルプススタンドのはしの方」は制作の段階から手応えを感じていましたか?

原作となった高校演劇版を観たときに、これはすごい戯曲だなと城定監督と話していたんです。ただ一方で映画化したときに誰が観てくれるんだろうと、少し想像しづらい部分もありました。とはいえ、そういう状況で全力を尽くすことに我々は慣れっこでしたし、野球をやっているシーンはありませんが、野球映画の現場はすごく楽しかったです。

1番最初に、名作ができたと思ったのは、音楽や効果音、整音などの作業がすべて終わって作品が完成したときです。すごい映画ができたなと。それまで50回ぐらい、映像を観ていたのにもかかわらず、最後のチェックで涙があふれました。公開されたのがちょうどコロナ禍で、映画館も1席飛びの状態だったので、当初は満席になってもヒットしている感覚はなかった。でも、いつの間にかSNSに口コミがあふれるようになって、ヒットを実感しました。

──映画の成功で、お仕事に変化はありましたか?

なかったです。城定監督には新規の問い合わせが増えたとは思います。でも「アルプススタンドのはしの方」を作った監督に仕事をお願いしたいということはあっても、制作会社に仕事をお願いしたいというのはまずないですよね。映画を観る人も、どこの制作会社が作っているかはあまり気にしない。それでいいと思っているんですが、なんとか変えられないかなとも思っているところです。

次のページ
大切にしているのはクリエイティブ面とビジネスを両立させること

読者の反応

  • 5

久保/ LEONE / Lenny / KP @ProductionLenny

映画ナタリーさんの記事。
トップページと言うんでしょうか?目立つところにあるのでなんか恐縮ですが、読み応えは半端ないと思いますのでぜひ読んでみてください。
映画つくってる人にとっても、映画がすきな人にとっても面白い文章になってるといいなと思います。

記事↓
https://t.co/9iLoczbylD https://t.co/sNEdwRFiJT

コメントを読む(5件)

関連記事

城定秀夫のほかの記事

関連商品

あなたにおすすめの記事

このページは株式会社ナターシャの映画ナタリー編集部が作成・配信しています。 デコトラ★ギャル奈美 / デコトラ★ギャル奈美 爆走!夜露死苦編 / 新・高校教師 桃色の放課後 / 悦楽交差点 / 性の劇薬 / 愛なのに / 猫は逃げた / アルプススタンドのはしの方 / ビリーバーズ / 銀平町シネマブルース の最新情報はリンク先をご覧ください。

映画ナタリーでは映画やドラマに関する最新ニュースを毎日配信!舞台挨拶レポートや動員ランキング、特集上映、海外の話題など幅広い情報をお届けします。