U.F.O.結成の経緯
──そこからどういう経緯でU.F.O.が結成されるんですか?
僕はBohemiaのスタッフで、矢部さんは桑原茂一さんが主宰するクラブキングという事務所で働いていました。ラファエルはクラブキングに所属する外国人DJ、タレントみたいな感じだったんです。僕はしばらくBohemiaで働いていたんですけど、決してバーテンになりたかったわけではなかったので、DJに来てた矢部さんに相談してみたら、「だったらクラブキングに来ればいいじゃん」と言われて、そのまま働き始めました。それがジャズダンスを見てからちょうど1年後ですね。
──なるほど。
87年の春にBohemiaを辞めて、クラブキングにアルバイトとして入って。ちょうどテレビ朝日で「クラブキング」という深夜番組が始まって、僕は雑用をしていました。その番組ではドラマパートに伊武雅刀さん、佐野史郎さん、広田レオナさんが出ていて、ロンドンのストリートシーンを紹介する5分くらいのパートはテーマ曲をネリー・フーパー、映像をロンドンのバッファローとか当時の最先端のチームがプロダクションを手がけていたんです。30分番組でしたけど、当時の学生や尖った大人はその5分を観るために夜中に起きてたくらい影響力があって。Coldcutが流れたり、トシ矢嶋さんがロンドンのシーンを取り上げて、The Jazz DefektorsやBrothers in Jazzがマイルス・デイヴィスで踊る映像などが流れたりしていました。
──すごいですね。
その番組と並行してクラブキング自体がイベントを打つようになって、A Certain Ratioを招聘したり、Public Enemyのツアーを手伝ったりもしました。あとDJイベントもやるようになって、日本選曲家協会というDJ協会みたいなものを茂一さんが作ったんですよ。いわゆるショーの選曲からDJまでをひとまとめにしようみたいな感じで茂一さんが取り仕切って、高木完さんや藤原ヒロシさん、富久慧さん、ランキン・タクシーさん、イラストレーターの永井博さんといった方々に参加してもらって。その協会に所属しているDJを集めて、INKSTICK芝浦FACTORYや川崎のCLUB CITTA'で日曜の昼間にイベントをやってたんですよ。80年代にジャイルス・ピーターソンやパトリック・フォージがロンドンのカムデン・マーケットのDingwallsでサンデーアフタヌーンにやっていた伝説的なジャズパーティ「Talkin’ Loud & Saying Something」みたいな、未成年でも遊べるパーティを日本でもやるというのがもともとの発想でした。
──松浦さんもそのイベントにDJとして参加していたんですか?
僕がDJするようになったのは88年以降の4、5回目からですね。87年にインクスティックで始まったときはスタッフとしてチケットのモギリからスピーカーの運び出しまで、なんでもやらされてました(笑)。その業務に追われて、ジャズとダンスから心が離れそうになった時期です。当時、茂一さんがイギリスの雑誌「i-D」から影響を受けて「DICTIONARY」というフリーペーパーを始めて、矢部さんが編集、自分は雑用をやりながら途中から広告の営業をやってました。それが87、88年。89年にベルリンの壁が壊れるんですけど、そこで時代が変わるムードがあって、周囲の業界の人達の間でも独立の機運が高まっていって。僕らも独立を考えて、まず矢部さんと話をして、そこにラファエルもジョインしてきた。それが90年です。
──U.F.O.は最初からDJユニットとして活動していたんですか?
最初はプロダクションカンパニーだったんです。当時は景気がよかったので、パルコや西武がサブカルチャー的なイベントとかを頻繁に仕掛けていて、僕らはそれをコーディネートするような仕事からスタートしました。アシッドハウスのDJの招聘もしましたね。
──その頃、日本のアーティストやDJとも仕事をしていましたか?
DJには仕事をお願いしてましたけど、ミュージシャンとはやってないですね。メンバーにラファエルがいたこともあって、視点や感覚的な部分でヨーロッパ的なムードを求めていたところもありました。日本の音楽を聴かなくなっていた時期かもしれないです。
──今に比べて、当時は洋楽 / 邦楽の壁が明確にあったでしょうし。
そうですね。で、そういう仕事をしているうちに、クラブで知り合った音楽プロデューサーの桜井鉄太郎さんから91年に「DJが作った曲を集めたコンピレーションを制作するから参加してほしい」と声をかけてもらったんです。その頃、僕はまだ本格的にDJを始めていなかったんですけど、踊る側として「こういう音楽がもっとあったらいいな」という気持ちはあったので、やってみたいなと思ったんです。そこで、2人に「会社ができたばかりだし、ユニット名を会社名にすれば知名度が上がるんじゃないか」と話して、DJユニットとしてのU.F.O.をスタートさせたんです。
──そういう流れだったんですね。
そのコンピレーションは「Cosa Nostra」というタイトルで、ゼロ・コーポレーションというメタル系の作品をよく出していた学研の子会社のレーベルから91年にリリースされました。その作品のためにDJが2曲ずつ曲を作って、それをコンピレーションCDとは別に12inchアナログでシングルカットするっていうバブリーなアイデアで。藤井悟さん、松岡徹さん、佐々木潤さん、長田定男さん、あとは桜井さんも参加していました。で、そのとき僕らが最初に作ったのが「I Love My Baby (My Baby Loves Jazz)」という曲。コンピレーションがヒットしたお陰で、翌年の92年にコンピレーションの第2弾を作ることになったんですけど、2作目はプロデューサーが推薦する女性モデルやタレントを楽曲にボーカルとしてフィーチャーするという企画になって。でも、その候補者の方が物足りなかった。それは仕方ないですよね。歌がうまくてもプロではありませんから。その時点で「I Love My Baby (My Baby Loves Jazz)」がイギリスの媒体に紹介されていましたし、中途半端な作品にはしたくなかったので、自分たちでオーストラリア出身の女性シンガーを連れてきたんです。それで作ったのがヴァン・モリソン「Moondance」のカバーと、オリジナル曲の「LOUD MINORITY」だったんです。
「LOUD MINORITY」制作秘話
──「LOUD MINORITY」はU.F.O.の代表曲だと思いますが、あの当時レコードからさまざまなフレーズを持ってきて組み合わせて疑似バンドサウンドを再構築するみたいな音楽ってかなり特異だったと思うんです。参照した音源などはありましたか? というのも「LOUD MINORITY」以後はJazzanovaやニコラ・コンテ、Koopが同じような手法を取っていましたけど、それ以前ってあまりなかったと思うんです。
そうかもしれないですね。僕らは3人とも楽器を演奏したり機材を操ることができなかったので、そういうパズル的な作り方しかできなかったんです。あとはテクノロジーの発達も大きかったですね。プログラミングを担当してくれた人にはかなり無理なことを言っていたと思います(笑)。
──その当時だったらいかにも打ち込みっぽい音のほうが新しく聴こえていた気がするんですけど、U.F.O.は生っぽさみたいなものにこだわっていたわけですよね。テクノロジーを駆使しているのに機械っぽくなくて、むしろ生のバンドっぽいものに近い質感だったところが変わっていた気がするんです。
僕らはプレイヤーじゃないから、機械っぽいほうが新しいとも考えてなかったんですよ。ただ、自分たちで打ち込みができるわけじゃないから、より生に近付けたいという意識が強かったかもしれませんね。自分たちができないからこそ、究極の理想を目指せたのかもしれない。譜面が書けないから、使いたいフレーズだとかをまずは全部サンプリングしてパズルのように作ってました。
──「LOUD MINORITY」は海外でもクラブシーンを中心に大きな話題を呼んだわけですが、そもそもどんな経緯でヒットにつながったんですか?
「LOUD MINORITY」を発表した頃にORIGINAL LOVEの
──で、出したらすぐにイギリスでヒットしたわけですよね。
ラッキーでしたよね。まさかそんなにうまくいくとは思ってなかったです。初めてU.F.O.が海外で取り上げられたのがイギリスの「Echoes」という音楽誌です。91年なので、ジェイムス・ラヴェルがまだオネスト・ジョンズで働いていた頃ですね。
──U.F.O.がイギリスの雑誌「Straight No Chaser」のチャートに載ったりしていたのは有名な話ですが、一方、日本ではどんな感じだったんでしょうか?
刊行したばかりの「Barfout!」が応援してくれたのは大きかったですし、その後にクラブ系の音楽を扱う「remix」が創刊して、U.F.O.を頻繁に取り上げてくれました。U.F.O.では矢部さんがバァフをはじめとした音楽誌やカルチャー誌などに原稿を書き始めたり。クラブジャズ的な動きに本格的に注目が集まったのは92年からですね。Brand New Heavies、Incognito、Gallianoといったアーティストの登場がきっかけになって、アシッドジャズブームが突然訪れて。あの流れは大きかったです。
名物イベント「Jazzin'」始動
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