松浦俊夫

渋谷系を掘り下げる Vol.10 [バックナンバー]

DJ松浦俊夫が語るクラブジャズシーンの黎明期

「自分たちでシーンを作るしかなかった」

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1990年代に日本の音楽シーンで起きた“渋谷系”ムーブメントを複数の記事で多角的に掘り下げていく本連載。第10回はジャズDJとして国内外で活躍する松浦俊夫へのインタビューを掲載する。

渋谷系カルチャーを語るうえで忘れてはならないのが、90年代初頭のアシッドジャズブームと共に根付いた東京のクラブジャズシーンだ。“ジャズで踊る”という斬新かつヒップなアプローチは耳の早い音楽ファンや流行に敏感な若者たちの間で大きな話題を集めた。そして、そんな東京のクラブジャズシーンを牽引していたのが、松浦が所属していたDJユニット・United Future Organization(U.F.O.)だった。連載第1回で元HMVの太田浩氏も証言しているようにU.F.O.が1992年に発表したシングル「LOUD MINORITY」は外資系レコード店を中心に大ヒットを記録。渋谷系のアンセムともいうべき楽曲となった。今回のインタビューでは「Jazz the New Chapter」の著者である柳樂光隆を聞き手に迎え、松浦にクラブジャズシーン黎明期の貴重なエピソードをたっぷりと語ってもらった。

取材・/ 柳樂光隆 撮影 / 相澤心也

クラブジャズブーム前夜

──松浦さんは日本でジャズDJがプレイした伝説的なTAKEO KIKUCHIのファッションショーを実際に観ているんですよね。

1986年の4月に行われたんですけど、プロモーターのSMASHの招聘でファッションショーにDJのポール・マーフィーやジャズダンスチームのThe Jazz Defektors、Wild Bunch(※Massive Attackの前身ユニット)などが出演してショーをやったんです。ショーと並行して、ラフォーレ原宿でイベントをやったりして、自分もスーツを着て遊びに行きました。

──ちなみに松浦さんのジャズのDJ初体験はいつですか?

そのTAKEO KIKUCHIのショーです。

──その前にはまったくなかったんですか?

ジャズのDJは聴いたことはないですね。でも、そのショーで観たイギリス発のダンスとジャズが1つになったアプローチは、目から鱗が落ちるような感覚でした。スーツを基調としたクールなファッションスタイルも含めて、自分が求めている感じってこれかもしれないなと思いました。86年にソニーがポール・マーフィーの選曲による「Jazz Club For Beginners」というコンピレーションを出して、その後、The Jazz Defektorsが日本でデビューしたんです。でも、流れ的には、The Style CouncilやSadeがいて、ジャジーだったり、ソウルだったり、ボサノヴァのフィールがポップミュージックに入ってきた時期だったので、クラブジャズブームの予兆みたいなものは僕の中にもありましたね。

松浦俊夫

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──ジャズに限定せずに、初のDJ体験ということだとどうですか?

高校が新宿にあったので、ディスコには行ったことがありました。あと、まだP.Picassoができる前に西麻布にTOOL'S BARというクラブがあって、そこに高校の友達と2、3回行きましたね。真っ暗な中でボブ・マーリーがかかってて、クラブって怖いなと思いました(笑)。

──TAKEO KIKUCHIのショーで、ポール・マーフィーは例えばケニー・ドーハム「Afrodisia」みたいなアフロキューバンやハードバップをかけてたんですか?

そうですね。今思うと、わかりやすくかけていたんじゃないかと。原宿のイベントにはギャズ・メイオールが一緒に来日していたのですが、その2人の組み合わせに僕は違和感を感じたんですよね。当時のUKのクラブ事情を考えればその組み合わせでも自然だったかもしれませんが。

──ギャズはスカをかけたり?

そうです。ギャズの弟のジェイソン・メイオールがその後スマッシュUKのスタッフになるので、そういう関係もあってギャズがブッキングされたのかもしれません。

──86年に「Jazz Club For Beginners」みたいなコンピレーションが出ていたくらいなので、TAKEO KIKUCHIのショー以前に日本にもジャズのDJのカルチャーが少しは入ってきていたんでしょうか?

もう少しあとだった気がしますね。コンピが出たのはショーのあとだったと記憶しています。ポール・マーフィーが来日したタイミングで何かが動いたのかもしれません。

ポール・マーフィーが選曲を手がけたジャズコンピレーション「Jazz Club For Beginners」(1986年)。

ポール・マーフィーが選曲を手がけたジャズコンピレーション「Jazz Club For Beginners」(1986年)。

──ちなみにDJ向けのジャズのコンピレーションだと、85年に「Jazz Juice」シリーズが始まって、86年にUKのブルーノートからジャイルス・ピーターソン選曲の「Blue Bop」「Blue Bossa」、そして同年には東芝EMI企画でニール・スペンサーとポール・ブラッドショウ選曲のブルーノートのコンピレーション「Soho Blue」が出てるんです。86年にジャズDJのムーブメントが一気に動いてる感じがしますね。

コンピレーションから読み解くとわかることってありますよね。そのときの空気もコンパイルしているわけだから。確かにコンピレーション頼りの時代でしたね。

“ジャズで踊る”というムーブメント

──松浦さんご自身の話に戻すと、ポール・マーフィーのDJとThe Jazz Defektorsのダンスを観て一気にジャズに興味を持ったと。

そうですね。どうしたらそこにたどり着けるだろうかと考える日々でした。これは偶然なんですけど、同級生がテレビ朝日通りにあったメトロポールというチャイニーズレストランでアルバイトをしていて、昼間のバイトを募集してたので僕も働くことにしたんです。そこはキャンティという老舗イタリアンレストランと同じ春日商會の経営で、その一族の中にYMOをリリースしていたアルファレコードを作った人がいたりして。とにかくいろんなつながりがあるレストランでした。そこに半年務めた86年の暮れ、TAKEO KIKUCHIのデザイナーの菊池武夫さんが西麻布にジャズクラブを作ることを知ったんです。しかも自分が働いていたメトロポールと同じ春日商會が運営を手がけて、メトロポールのマネージャーがそこに異動すると聞いたので、「僕も連れていってください」と頭を下げたら、スタッフとして連れて行ってもらえたんですよね。

──なるほど。

そのジャズクラブはBohemiaというお店で、服飾メーカーのWORLDがオーナーでした。桑原茂一さんがDJのプロデュース、三宅純さんがライブのプロデュースを手がけていましたね。三宅さんご自身のバンドや、宮本大路さんのバンドが出演していて、オープニングのライブアクトはThe Style Councilのドラマーのスティーブ・ホワイトが中心となって結成されたThe Jazz Renegadesでした。プロデューサーはThe JamやThe Style Councilのマネージャーだったデニース・マンデイです。その店は“ジャズで踊るクラブ”というコンセプトだったんですよ。自分が求めていたものが半年の間に具現化されました。

松浦俊夫

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──イギリス発の“ジャズで踊る”というムーブメントをコンセプトに掲げていたということは、Bohemiaにはダンサーも出演していたんですか?

いえ、そのコンセプトは当時の東京には早すぎたようで、オープン後もお客さんは踊りに来るというよりもバーとして訪れる方がほとんどでした。実際にジャズで踊るということをクラブで形にしたのは間違いなくUnited Future Organization(以下U.F.O.)だと思います。僕はBohemiaで働き始めてから数年後にそこで知り合ったDJ2人とU.F.O.をスタートするのですが、その後、当時東京に住んでいたイギリス人のジョニーというダンサーと知り合って。それから我々は意識的にDJとダンサーを一緒に見せるようなスタイルを一緒にやっていたんですね。ちなみにジョニーはU.F.O.の「LOUD MINORITY」のミュージックビデオでも踊っているダンサーです。The Jazz DefektorsやBrothers in Jazzといったイギリスのダンスグループに影響を受けた人たちはその後になって出てきましたね。その中にはTRFのメンバーになったSAMさんもいました。SAMさんはジョニーが91年頃に紹介してくれたと思います。当時、フジテレビで深夜に「DANCE! DANCE! DANCE!」というダンス番組が放送されていて、SAMさんはMEGA-MIXというチームでそこに出ていたんです。

──そうだったんですね。

先日、MEGA-MIXのメンバーで現Sound Cream SteppersのGOTOさんにお話を伺ったんですが、ロンドン~東京のジャズダンスの始まりは、僕がThe Jazz Defektorsを観た86年よりもあとのことでした。91年にパルコのCMにBrothers in Jazzが起用されて、そのタイミングでBrothers in JazzはGallianoと来日して渋谷CLUB QUATTOROでイベントをやったんです。それを観に行った現Sound Cream SteppersのメンバーのHORIEさんが影響を受け、日本で広め始めて、ジャズダンサーのシーンが生まれたそうです。2019年に、菊池武夫さんの80歳の誕生日会が渋谷ヒカリエで行われたんですけど、その日はDJが僕で、ダンサーがSound Cream Steppersだったんですよね。とても感慨深かったです。

──BohemiaにはどんなDJが出演していたんですか?

オープン時にはロンドンからDJが来ていたんですよ。ジャイルス・ピーターソンと一緒にアシッドジャズとか、BGPのソウルジャズのコンピレーションを選曲していたバズ・フェ・ジャズ、その後、リズム・ドクターやトメックといったDJが来ました。それ以降、徐々に日本人DJの比率が高くなって。その中に、U.F.O.のメンバーになる矢部直やラファエル・セバーグの両氏もいました。あとは三宅純さんの弟の三宅功さんがジャズをかけたり。功さんはスーツのテイラーで、僕がHEXというプロジェクトをやったときには彼にメンバー用のスーツを作ってもらいました。ちなみにU.F.O.が着ていたスーツは今西祐次さんのブランドのPLANET PLANのもの。今西さんは菊池武夫さんのあとにMEN'S BIGIのチーフデザイナーになられた菊池さんと師弟関係にある方です。

──当時クラブでジャズをメインでかけていた日本人DJはU.F.O.のメンバー以外に誰がいたんですか?

ジャズを主体にしている人は僕の認識ではそれ以前は1人もいなかったですね。自分はレコードをかけたいというよりは踊りたかったので、クラブに行ってお酒を飲まないで朝まで踊っていたんです。当時の多くのクラブではパンク、ニューウェイブ、ロック、ヒップホップと、なんでもかかっていたんですよ。80年代終盤、僕はDJブースに行っては「ジャズをかけてください」とリクエストするような客で(笑)。そうすると嫌がりながらもDJがジャズっぽい曲やフュージョンっぽい曲をかけてくれるんです。それが藤井悟さんとか、のちに「LOUD MINORITY」のMVを制作してくれた北岡一哉さんでした。

──当時のイギリスで流行っていたハードバップやアフロキューバンで踊らせるDJは日本にはほぼいなかったんですか?

僕が知っている範囲では、たぶんいなかったと思います。ポール・マーフィーの流れはなかったと思いますね。80年代にイギリス在住だった、カメラマンをやりながらコーディネーターもやられていたトシ矢嶋さんやジャーナリストの花房浩一さんは、雑誌「Straight No Chaser」をやっていたポール・ブラッドショウと仲がよかったので、彼らはそのラインでシーンとつながっていたかもしれません。でも、DJやミュージシャンがジャズでダンスするシーンとつながっていたということはなかったんじゃないかな。だから、自分たちでシーンを作るしかなかったというのが当時の実情です。逆に言えば、何もなかったから自由にできたんだろうなとも思います。

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U.F.O.結成の経緯

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