フィルムの字幕加工ができる業者は日本で1社だけ
さて、映画字幕の話に戻ろう。日本シネアーツ社も、現在ではほとんどデジタル素材を扱っているが、いまでも16mmと35mmのポジフィルムに字幕加工する技術を保持している。同業他社がフィルムから撤退していったため、現在日本で唯一残っているフィルムの字幕に対応できる業者だという。
かつては字幕ひとつひとつに銅製の凸版を作成し、フィルムに字幕を直接押し付ける「タイプ方式」などを採用していたが、1995年に当時の最先端の機材をフランスから輸入し、日本で初めてレーザー光線で字幕を焼き付ける「レーザー方式」を導入。「
タイプ方式は、手動の機械を使ってひとコマひとコマに凸版を押していくという、現在の感覚にしてみれば気の遠くなるような作業。「フィルムを傷めないように、押すときの力加減も重要だった」そうで、熟練の技が必要だった。
レーザー方式は、コンピューター制御された「レーザーサブタイトラー」という機械に字幕のテキストデータを取り込み、レーザー照射でフィルム表面の色素を文字の形に焼き取っていく仕組み。字幕のデータはリスト化されており、必要な箇所に自動で入れられる上、フィルムへの物理的ダメージも少ない。以前はシネアーツ社ではレーザーサブタイトラーが4台稼働していたが、フィルム需要の減少や機材の故障などで、現在稼働しているのは1台のみ。バックアップのない状態で、もし故障してしまったらどうするのだろうか?
営業の斎藤誠さんに聞くと「フランスで機材メーカーがまだ存続しているので、部品は取り寄せられるかも知れない」という。1898年から続くDEBRIEというメーカーで、ジガ・ヴェルトフ監督の「カメラを持った男」にも登場する手回しカメラ「パルボ」を開発したことでも知られている名門だ。ただし公式サイトを覗いたところ、現在ではレーザーサブタイトラーの取り扱いは確認できなかった。少なくとも新品を購入することは難しそうだ。
シネアーツ社では、ごくたまに短編映画のフィルムに英語字幕を付けて海外に送る発注などを請けてはいたものの、フィルムの長編映画を扱うのは同じノーラン監督の「
Windows98や3.5インチフロッピーディスクが現役で活躍
シネアーツ社の作業スペースに置かれていたレーザーサブタイトラーは、レトロフューチャーなSFを思わせるコンソール部分が付いており、大きさは冷蔵庫4つ分くらい。それともうひとつ、同じくらいの大きさのフィルムをかけられる歯車がいくつも付いた機械が隣に設置されている。
こちらはレーザー照射によって生じる煤などをクリーニングする、同じDEBRIE製の製品。こちらも以前は2台稼働していたが、現在では1台しかない。しかしフィルムを洗った後、乾燥させて巻き取るまでが自動化されていて、フィルムに傷を付けないために非常に重要な役割を果たしている。
この製品の傍らにうちわが置いてあったので、レーザー作業を担当している早川亨さんに「暑くなるのですか?」と聞いたところ、「これもフィルムを乾かすためのものです、機械では完全に乾かないこともあるので」と教えていただいた。どこまでも細心の注意で取り扱わないといけないのがフィルムということなのだろう。
レーザーサブタイトラーは35mmと16mmのフィルムに対応しており、1巻ごとに字幕を焼き込んでいく。「オッペンハイマー」はセリフが多い作品であったため、20分に字幕を入れる作業にだいたい2時間ほどかかったという。
驚いたのは、テキストデータを読み込む装置が、3.5インチのフロッピーディスクドライブだったこと。1980~90年代に記録メディアの主流だった、あの3.5インチフロッピーディスクである。新品のフロッピーディスクはまだネット通販などで購入できるが、生産は2011年をもって終了している。その点では10数年間、時が止まったようでもある。
さらにいえば、字幕のテキストデータ作成に使用するパソコンのOSは、マイクロソフトがサポートを終了して10年以上が経っているWindows98とWindows XPだった。レーザーサブタイトラーに読み込ませるデータを作るソフトが、古いOSでしか動かないというのだ。テキストデータを担当する仁村祝子さんは、字幕の位置を指定する際に、タイムコードやコマ数ではなくft単位で数えなければいけない感覚を思い出すのに苦労したという。またレーザー担当の早川さんに「オッペンハイマー」の字幕加工で苦労したことを聞いてみると、「苦労というより機材が壊れないでと願っていました」と答えてくださった。
映画ファンはフィルム上映を存続させられるか?
日本シネアーツ社を訪れて、フィルムの魅力と職人的な仕事の大切さを間近に感じることができたと同時に、想像していた以上に日本でのフィルム上映が危機に瀕している現実も痛感させられた。
シネコンのほとんどはデジタル上映にしか対応していないものの、名画座などを中心にフィルムの映写機を使っている映画館は少なからず存在する。また八丁座のようにフィルム上映を再開した劇場もある。筆者が八丁座の「オッペンハイマー」35mm上映を鑑賞した際には、開映前に劇場スタッフの方が前説に立ち、「今後もフィルム上映を続けていきたい」という抱負を語っていらっしゃった。
しかし、何度も書くようだが、フィルム上映は物理的に存在しているものを扱うため、細心の注意と知識、そして機材を扱う技量が必要とされる。映写のクオリティを担保する専門的なスキルは、次の世代に継承されなければ途絶えてしまう。もはや貴重品となった上映機材も、正しく扱う人材がいなければただの骨董品になってしまうのだ。
そしてもうひとつの問題が、洋画の興行には必須の字幕付きプリントの問題。前述したように、いまや国内でフィルムに字幕を付けられるのは日本シネアーツ社のみ、しかも稼働している機械は最後の1台、である。つまり定期的なメンテナンスだけでなく、適切な設備投資が必要な段階に入っているにもかかわらず、それだけのコストに見合う新作映画のフィルム上映が頻繁に行われている状況とはいい難い。なにせ日本では、「オッペンハイマー」が数年ぶりの新作映画のフィルム上映なのだから。
また、フィルムに付随するデジタルの音声データに字幕情報を足して、映写機とは別のプロジェクターを使って字幕を投影する技術も存在する。その技術を使えばIMAX 70mm(IMAX 15/70ともいう)や通常の70mmフィルムでも字幕付き上映は可能であり、フィルム上映の未来が開けるかも知れない。しかし上映用プリントを供給する本国と、字幕を用意する日本の配給会社、設備を追加しなくてはならない映画館とが足並みをそろえるのは容易ではないだろう。つまり今後劇場で上映できるのは、かろうじてフィルムが現存している過去作だけ、という事態にもなりかねない。というか、おそらくそういう未来が遠からずやって来る。
時代の変化の大きなうねりを押し止めることはできないかも知れないが、われわれ観客がフィルム上映を求める機運が高まれば、小さい規模であっても興行として成り立つ可能性は高まるはずだ。
そのためにはまずはフィルムの魅力を知ってもらうほかない。「オッペンハイマー」でも旧作でも構わないので、足を運べる距離でフィルム上映がやっていれば一度体験してみていただきたい。保存状態のいい35mmフィルムが適切に映写されれば、画質としてデジタル上映に勝るとも劣るものではない。筆者は八丁座の最前列で「オッペンハイマー」の35mm上映をかぶりつきで観て、眼の前に映画が物体として存在しているアナログの実在感に感動し、思わず涙ぐんだことを書き添えておきます。
村山章(ムラヤマアキラ)プロフィール
1971年12月24日生まれの映画ライター。2009年より続く「しりあがり寿 presents 新春!(有)さるハゲロックフェスティバル」では運営スタッフを務める。配信系作品のレビューサイト・ShortCutsの代表。ハル・ハートリー作品などの自主配給にも携わっている。
映画「オッペンハイマー」日本版予告
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「オッペンハイマー」35mmフィルム上映の舞台裏 https://t.co/X06ojkiK8f