映画と働く 第14回 [バックナンバー]
撮影監督:芦澤明子 / 71歳、女性カメラマンの第一人者がキャリアを語る
初仕事は小学生向けの性教育映画 / 「復讐は私にまかせて」の経験は“宝”
2022年8月19日 18:30 12
日本映画界における女性のカメラマンの第一人者として、「トウキョウソナタ」「岸辺の旅」「散歩する侵略者」といった黒沢清の一連の作品や「南極料理人」「わが母の記」「
映画ナタリーでは業界で働く人々に話を聞く連載「映画と働く」で芦澤にインタビュー。映画を志すきっかけとなった作品との出会いや、撮影助手時代の印象深い教え、“女性カメラマン”として独立した直後の象徴的な初仕事などを語ってもらった。後半ではインドネシアの俊英
取材・
映画の入口は「気狂いピエロ」
──今の職業を志すきっかけの1本が
観るまで映画にあまり興味がなかったんですけど、当時、付き合い始めた彼氏が映画狂だったもんですから。その人に連れて行っていただいて、わからないけど面白いな、と。付き合いを深めるために何回も観に行って、観に行ったわりには、そっちのほうは進展せず、映画だけが残ってしまいました(笑)。
──何回もご一緒に行かれたんですか?
いえ、一緒に行ったのは1回。その人との話題を増やすために1人で何回も行きました。今は、どうしてるんでしょうね(笑)。
──4月に2Kレストア版が公開されて初めて観たんですが「わからないけど面白い」というのはすごく実感しました。
映画の概念を変えたんですね。こういう映画だったら、私でも作れるんじゃないの?と勘違いして、映画をすごく身近に感じて。今は大間違いだってわかるんですけど、当時はそう思ってしまったんですよね。それから自分で8mm映画を作り始めました。
──当時、自主映画を作っていた
そうですね。森田くんはこの頃 「映画」(1971年)っていう映画を作ったりしていて。「ライブイン茅ヶ崎」(1978年)よりも、ずっと前の頃です。
“ナベプロ”と勘違いしてピンク映画の世界へ
──1971年に助監督として働き始めるきっかけを教えてください。
アルバイトをするなら映画関係の仕事をしたほうがいいだろうと考えて、当時の(日刊)アルバイトニュースという情報誌で「渡辺プロ 助監督募集」という求人を見つけたんです。ジュリー(沢田研二)やザ・ピーナッツのいる渡辺プロダクションかと思ってたんですけど、行ってみたらどうも小さくて怪しい。そしたら成人映画を作っていた
※渡辺護: 1960年代から活躍したピンク映画界の第一人者。監督として200作品以上もの劇場用映画を手がけた。
──ナベプロと勘違いされていたとは(笑)。それから撮影部に移られた理由はなんだったんでしょう。
演出部って人間関係がそのまま仕事につながるんですね。それに向いてないと思ったのもありますし、ちょんぼもいっぱいありました。まだ出番が残っている俳優を先に返してしまったり(笑)。一度や二度じゃなかったので、嫌になってしまって。現場の撮影部がかっこいいと思っていて、伊東(英男)さんがたまたま渡辺さんと一緒にやってらしたもんですから、自分から希望しました。
※伊東英男:映画カメラマン。若松プロダクションによる若松孝二や足立正生の監督作の数々で撮影を担当した。大島渚の「愛のコリーダ」(1976年)を手がけたことでも知られる。
──撮影助手の時代で印象的な教えはありますか?
伊東さんから「どんなささいなものを撮るときでも、必ず観ている人はいるから、ちゃんとやりなさい」と教わりましたね。あとは心の中で「お金のある仕事」「お金がない仕事」ってなんとなくランクを付けてしまいそうになるじゃないですか。そういうのも絶対ダメ、と。伊東さんも挫折を重ねて来られた方だったので、そういう言い方には力がありました。
カメラマン初仕事は小学生向けの性教育映画
──カメラマンとして独立する1983年まで、助手として10年間働かれていますね。
そうですね。フィルムだと10年くらいかかるんですよ。デジタルの世界だと数年でもチャンスがあればカメラマンになっていきますけど。10年経って自分でも助手に飽きてしまって(笑)。
──今は女性の撮影監督や撮影部のスタッフが増えていると思いますが、当時は珍しいですよね。
この当時、女性の撮影部は私の周りにいなかったんですが、伊東さんが「そういうのも面白いね、来ていいよ」とおっしゃってくださって。その達観した感じがよかったんですね。今は女性もすごく増えています。女性は優秀な人が多いと言うと逆差別って言われますけど、それに近いものがありますね。
──女性の撮影部が珍しかったとは言え、助手として働くうえでは「男も女も関係ない」「性別にかかわらず平等に扱う」という場合が多いと思います。
そうですね。それは今も変わらないと思います。
──逆に芦澤さんがカメラマンになったとたん、“女性ならでは”といった視点を求められることはあったんでしょうか。
なんとなく相手は求めていたかもしれません。なんと言ってもカメラマンとしていただいた最初の仕事は、小学生の保健体育の教材で女の子の生理を解説する教育映画。発注者としてはちょうどいいと思って仕事をくれたと思うんですけど、とても象徴的でした。でも間違いなく、そういった期待には応えられていなかったですね。助手のルールの中で育つと、いつの間にか自分のやりたいことや個性を忘れかけていて、最初はもっとガチガチ。しばらくして、そういうものから解き放たれていきました。
劇映画デビューのきっかけは監督への手紙
──カメラマンとして独立されてから、最初は映画ではなくCM業界でキャリアを重ねていますね。
実は伊東さんのところにはそんなに長くいなくて、テレビCMの現場で助手をすることが多かったんです。その時代に川崎徹さんと知り合って、カメラマンになるときに使ってくれました。川崎さんの影響も大きいですね。
※川崎徹:1980年代を代表するCMディレクターの1人。「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなりに」のフレーズで有名なフジカラープリント「お名前篇」など、数々のヒットCMを生み出した。
川崎さんは超売れっ子だったもんですから、忙しい芸能人を数時間で撮らないといけない作品が多くて。どうしたら撮り切れるか?を考えて、時短で進めなくてはいけない現場ばっかりだったんです。川崎さんは「とっても大変なことをへろへろになりながら大変そうにやるうちはプロではない」と。今にそのまま役に立っているとは言いませんが、超忙しくなっても内心焦らずにいられるのは、川崎さんから学びました。見た目にはおどおどしてるかもしれないけど(笑)。
──その後、
いずれは映画もやりたいなとは思っていたんですけど、ツテがなかったんです。ピンク映画とは離れてしまいましたし、ピンク映画自体も一般映画とはちょっと開きがありましたしね。でも映画館で映画は観ていました。平山監督の「ザ・中学教師」(1992年)を観て、いいなと思ったので手紙を書いたんです。
──「撮影監督をやらせてほしい」という手紙を?
はい。それで1回飲みまして。昔の新宿にシネマ・アルゴのあったあたり、今のK's cinemaのそばでしたね。そのときは「いつかね」って感じで話して、しばらく経ってからWOWOWの映画シリーズ「J・MOVIE・WARS」の中編に呼んでいただいて。それが「よい子と遊ぼう」です。とてもうれしかったですね。
「復讐は私にまかせて」の経験は“宝”
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「そうですね。フィルムだと10年くらいかかるんですよ。デジタルの世界だと数年でもチャンスがあればカメラマンになっていきますけど。10年経って自分でも助手に飽きてしまって(笑)」
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