終戦80年企画として、8月1日より
塚本は戦争映画を観る意義について「実際に兵隊さんとして戦争に行かれた方がかなり少なくなってきて、今は戦争体験を伝えていくのが難しい状況。映像では当時のことが生々しく伝わるので、価値があることだと思っています。戦争を司る人たちよりも、自分たち一般の、民衆の目線で描いて、お客さんに体で感じてもらう。それが非常に大事だと思って作っていますし、そういう映画があることを望んでいます。まさに今日上映された市川崑監督の『野火』と『ジョニーは戦場へ行った』は、自分の考えに合う大切な映画だと思っています」と語った。
高校生の頃、市川による「野火」に出会った塚本。「かなり強い印象が残った1本でした。当時、僕は8mm映画を作っていて、市川崑監督独特の白黒の照明技術にかなり影響を受けました。それまでは照明の存在さえ知りませんでしたが、白黒のコントラストの強い、オマージュというよりはモノマネと言える、戦争をテーマにした映画を1本作りました」と振り返る。市川があえてモノクロで撮ったことによる効果に関して「推測になりますが、戦争の映像はドキュメンタリー映像でもモノクロが多く、映画館で流れていたニュースもだいたいモノクロだったので、悪い意味の生々しさよりは、ニュース映像のようなリアリティを市川監督は映画にもたらそうとされたのかなと。フィリピンの自然や風景よりは、人間が塊として生きていて、人間の塊と内面の、いろんな渦巻きのような葛藤を白と黒のコントラストでくっきり描きたかったんだろうなと思います」と分析した。
また塚本は「市川崑監督版の暴力描写は、初めて観たときは十分暴力的だと思いましたが、あとになって観ると、どこかで少し抑えているのかなと思った時期もありました」と回想。「当時の方々にとって戦争体験はまだ生々しすぎるので、ある一定の情報を見せるだけで痛みは十分伝わるのかなと。自分が『野火』を作った頃は、戦争の体験をした人がほとんどいらっしゃらなかったので、痛みをもっと痛烈に、ハンマーで脳天を打ち下ろすほどの衝撃がないと伝わらないんじゃないかと思って。自分もそうですけど、日々平和で頭がほわっとしてくるので、目を覚ますために暴力的にしなくてはいけないと考えました」と伝えた。
塚本は市川の「野火」に強い影響を受けながら、大岡昇平の手がけた原作小説にインスパイアされ、「野火」を撮ってみたいと思ったそう。「フィリピンの自然の美しさと人間の愚かさの対比を原作から感じ取ったので、自分の『野火』は自主映画でお金がなくても、フィリピンありきだったんです。まず自然を撮ってから、それ以外のことを重ねていった。ロケ地など制作上の事情があったかもしれませんが、おそらく市川崑監督は、自然よりも状況が大事で、そこに生きる人たち、人間の葛藤に興味があられたのではないかと思いました」と述べ、「自分は20代のときに『野火』を作りたいなと思い、具体的に動き始めたのが30代半ばぐらい。ただ非常に大きい規模なので難しくて。40代半ばの頃は、フィリピンにも行って戦争体験者の方にインタビューもして作ろうとしましたが難しかった。初めの頃は、いい映画になるかもしれないが、お金が掛かりすぎて予算とのバランスが悪すぎると言われた。その後、僕が50歳を過ぎた頃は、ボロボロの兵隊さんが原野をさまよっている映画は不謹慎という風潮、今の時代にそんなことはやめておこうよという空気が流れ始めて、これはかなりまずいなと思いました。肉体で痛みを知った戦争体験者の方の痛みが薄らいでいくにつれて、痛みを知らない人たち、戦争をずっとしたいと狙っていた人たちが鎌首をもたげていくような恐怖があったので、今自分が作らないとまずいと思い、必死に作りました」と明かす。
塚本は2015年の封切り以降、毎年自作の「野火」を上映してきた。「30館以上の映画館が協力してくれて、10年上映を続けることができました。でも、自分の不安は消えず高まっていくばかりです。戦後70年経った日本が急激に戦争に近付いていっているという不安から映画を作りましたが、10年の間に、日本だけでなく世界中に戦争の心配が広がっていった。理屈では言い表せない理不尽な、底の抜けたような世の中になったという変化を感じています。『野火』を毎年上映することで、多くの若い人たちがこんな世界だったのかと思い、新しいものを発見するかのように感じてくれたのはいいこと。自分のモットーは一般の自分たちが、戦争のことを理屈ではなくて体で体験することです」と口にした。
※塚本晋也の塚は旧字体が正式表記
映画「ジョニーは戦場へ行った 4K」「野火 4K」予告編
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