「マハーバーラタ」宮城聰インタビュー GLOBAL RINGを掲げる野外劇場で、観客と“世界”が出会う──宮城聰が語る、アジアの舞台芸術が持つポテンシャル

劇場は、そこに存在しないものも呼び寄せる

「マハーバーラタ」より。©K.Miura

──「マハーバーラタ」はこれまで世界各国さまざまな場所で上演されてきました。今回はまだ色がついていない、新しい野外劇場・池袋西口公園野外劇場のこけら落とし公演となります。劇場にどんな色を添える公演になりそうでしょうか?

僕は自分のイメージを形にするとか、自分の主張や世界観を舞台や俳優という絵の具で形にしたいとはまったく思わないんです。また演出家は場をしつらえる、用意するという存在で、“場”には必ず俳優や作品の劇作家、それから観客も入ってくると考えます。また僕にとって演出の役割は、音楽という土俵を作品の中でどうつなげていくかがかなり大きいので、その意味で「マハーバーラタ」はほぼ演出が決まっている、ある意味演出家の手を離れていると思っています。ではどういうところで上演の良し悪しや色が決まるのかと言うと、単純に言えば俳優が舞台上でどれだけたくさんのことを感じながら演じられるのか。それ次第で作品の色合いが変わってくると思っています。さっき僕は、「演劇は人と人が出会うことだ」と言いましたけど、実はこの“人と人”というのは、生きている人とは限らなくて、今そこにいる人とそこにはいない人が出会うのが演劇だと言ってもいいくらい、そこにいないもの、スピリットを呼び寄せることこそ、演劇が一番得意とすること、あるいは演劇にしかできないことじゃないかと思うんですね。劇場とはそういうものを受け入れる場所だし、俳優がスピリットと出会い、いろんなことを感じながらセリフを言ったり動いたりすることで、お客さんは俳優という窓を通して向こうにあるものすごく広く大きなもの……例えばインドから中国、朝鮮半島を通って日本までという壮大な地理的な広がりも見ることができるし、「マハーバーラタ」が書かれてから今日までの約2000年間の膨大な時間的な広がりなども見えてくる。その広がりをお客さんにどれだけ見せられるかは、俳優がどれだけたくさんの、“今目に見えないもの”と出会えるかにかかっているわけです。

世界と自分が和解する、世界から自分は許されている

──今回の上演では、どのような空間作りになるのでしょうか?

「マハーバーラタ」より。©SPAC Photo by NAKAO Eiji

これまでの上演のように、観客席を中心に、その周りを360度、輪っかのように舞台が囲みます。舞台に立つ俳優は時間空間の大きな窓のようになって、円の内側にいる観客と世界を出会わせるんです。すると観客は、世界に包まれているような感覚になり、「自分は世界と和解している」という感覚を持つと思います。そういった「マハーバーラタ」の創作意図と、池袋西口公園野外劇場の上部に据えられたGLOBAL RINGの狙いは、実はかなり重なっているのではないかと思っていて。人と人が出会う場所という意味では、池袋西口公園のすぐ隣には交差点があり、出会い自体は日常から起こっているかもしれません。でもなぜあの劇場の上空には輪っかがあり、お客さんが輪っかの中にいるしつらえになるのかと言うと、あのGLOBAL RINGは単に出会いだけでなく、出会いによって世界と自分が和解すること、世界から自分が許されていること、を示しているのではないかと思うんです。ですので、自分があの池袋西口公園野外劇場にどういう色を付け加えるかということではなく、GLOBAL RINGがポテンシャルとして持っている祈りや願いを、よりダイレクトに顕現させるような公演になったらいいなと思っています。

──昨年、同じ場所で野外劇「三文オペラ」を拝見しましたが、年末の池袋駅前ということもあり、周囲の色や音を普通の野外公演以上に感じました。

宮城聰

本当にそうですね。ビックカメラの呼び込みとか、いろいろ聞こえてきますけど(笑)、でもあの空間で芝居以外の音をノイズだと感じたらもう成り立たないので、それらは全部スピリットの1つだと考えるしかない。俳優は古代からの呼び声以外に、今まさにとぐろを巻くようなさまざまな音を聞きながら演じることになるでしょう(笑)。また先ほどお話した通り、池袋にはさまざまなバックボーンの人が集まっていますが、どちらかと言うと、現在はそれぞれのグループに引きこもっている感じ。ただ、日本に住んでいる多くの人が、日本が今、右肩上がりだと思ってはいないし、むしろここからの“退却戦”をどう凌ごうかと考えている中で、同じグループで凝り固まっているだけでは結局退却の時間が長引くだけ。「退却はむしろ前進だ」と考えを切り替えられるようないい例を提案しないとダメなんじゃないかと思っています。その点で僕らの芝居でできることはわずかな寄与でしかないかもしれないけれど、でも今の池袋で観客と俳優が出会う価値は高いんじゃないかと思っていて。もちろん俳優は、平城宮跡のように何もないところでやるのとは違って、ものすごい情報量の中からスピリットの叫びを聞き分け、それを自分の身体から抽出するように作業することになりますが、それこそ演劇の舞台俳優しかできない仕事ですし、舞台俳優が人類史に寄与できるかどうかの境目になると思います。

「マハーバーラタ」より。©SPAC

──同時に観客も、劇場のブラックボックスの中で観るときとは違う見方になると言うか、多くの情報から自分が何を抜き取っていくのかを常に考えながら観ることになるのではないでしょうか。

確かにそうですね。今回は11:30開演回と15:00開演回の2回公演ですが、周囲がよく見渡せる時間帯だと思うんです。視覚的にも聴覚的にも膨大な情報量の中で、俳優はいかに“半透幕”な存在になり、自身の心の奥に届いたものを観客席に届けられるか。これぞまさしく舞台役者の仕事だと思います。

──池袋西口公園野外劇場のこけら落とし作品として、また「東アジア文化都市」の1プログラムとして、今回の上演がとても楽しみです。

近代に入ってから、舞台芸術においては残念ながらアジアのどの国も何らかの劣等感を抱えてきたと思います。それはおそらく、近代の世界では文字に描かれる、テキストベースでの文化芸術がメジャーだったからで、文字に描かれてきた文化遺産、あるいは芸術作品の蓄積はヨーロッパが一番多かったわけです。でもアジアの表現者たちは、文字に残そうというエネルギーや思考とは別のところにエネルギーのかけどころがあって、それは紙の上ではなく、身体に蓄積されたんですね。“世界に流通させる”という近代的な観点では、身体に蓄積された知恵は顕在化しにくいし、見えづらい。でも今こそアジアは、自分たちがかつてものすごく知恵と労力をかけて蓄積した身体の知恵、身体に対するまなざしをもう一度思い出し、欧米に対するコンプレックスを投げ捨てるべきだと思います。それによってアジア各国の身体に対するまなざしの類似点が見えてきますし、主に気候風土と言語に起因する、無限の違いも見えてくる。一方で、アジアの表現者が持っているポテンシャルはすさまじい埋蔵量なので、アジア人たちがまなざしの違いを楽しめるようになれば、排外的になるのではなく、違いこそが豊かさなんだという感覚を実感できるのではないかと思います。アジアの観客にとって、今回の公演がそんなアジアの舞台芸術の豊かさを再認識していただけるような上演になればいいなと思います。

宮城聰