DEVICEGIRLSこと和田一基。

映像で音楽を奏でる人々 第19回 [バックナンバー]

DEVICEGIRLSが20年を超えるキャリアの中で感じた、VJという仕事に必要なこと

電気グルーヴをはじめとするライブ現場やクラブで彼は何を学んだのか

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音楽の仕事に携わる映像作家たちに焦点を当てる「映像で音楽を奏でる人々」。この連載ではこれまで、ミュージックビデオの監督を中心にさまざまな人々の話を聞いてきたが、今回は本連載初のVJである、DEVICEGIRLSこと和田一基に登場してもらった。

VJの仕事は、DJが複数の楽曲を組み合わせて音楽を作り上げるかのように、クラブやコンサート会場などにおいて音楽に合わせて映像を流すこと。あらかじめ作っておいた映像を状況判断しながら流したり、ライブ中に撮影しているカメラ映像をそこに組み合わせたり、映像素材をリアルタイムで生成したり、構成する手法は多岐にわたりその役割も広義になってきている。

VJブーム真っ只中である1997年にキャリアをスタートさせて以来、いくつものDJパーティやライブなどでフロアを沸かせ、特に電気グルーヴのステージには欠かせない存在となっているDEVICEGIRLS。本稿では彼にこれまでたどってきた23年間の足跡を聞きながら、VJという仕事を探る。

取材・/ 橋本尚平 撮影 / 梅原渉

VJを始めるきっかけになった、長野オリンピックでのゲリラパフォーマンス

うちの家庭は複雑で、母が岡山で当時のニューミュージック界隈のアーティストの皆さんのたまり場になるようなバーを経営していたこともあって、中1までは同郷の叔母の家で暮らしていたんです。ある時期から母は東京に行ってしまったので会えるのは夏休みだけになり、母が働いてる間はいろんなミュージシャンに預けられて、スタジオで遊びながら過ごしていました。だから今の自分が音楽のライブに関わる仕事をしてるのは、なんか縁があったのかなという気がします。子供の頃はテレビが娯楽の中心で、当時の僕にとって映像は遠い夢の世界、音楽のほうが身近な存在だったんですよね。その夏休みの東京滞在時に、母に映画やライブに連れて行ってもらったりしたことが、エンタテインメントやカルチャーを好きになるきっかけになったので、最近他界しましたが、その部分では感謝を伝えたかったですね。

絵を描くのはずっと好きでした。中1のときに美術の先生に「将来、絵を描いて暮らしたいんですけど」と真剣に相談したんですが、「東京に行かなきゃダメだね!」ってあっさり言われて(笑)。「おや? そういえば俺、母が東京にいるな……」と思い立ち、すぐさま東京に引き取ってもらいました。なので、僕が母と暮らしたのは中学2年生からの7年間だけです。そして浪人を重ねては東京藝術大学だけを目指していたんです。もうノイローゼになるんじゃないか?って勢いで(笑)。浪人中に1回、受験をあきらめようと思って、憧れだったテレビ業界で大道具の仕事をしたこともありました。でも、やっぱり自分はデザインが好きであきらめられないと気付き、最後にもう1回だけ受験してみるか!と試みてみたら、藝大は落ちたけど多摩美に受かったんです。

多摩美での生活は楽しかったですね。映像を始めたのは、慶応のSFCに通ってた友人がflowというアートインスタレーションユニットを始めるということで「わーちゃん、映像作れない?」と聞かれたのがきっかけでした。僕が入ったのはデザイン学科だったので、周りに映像を作ってる人はいなかったんですが、すでにクラブで映像を流す活動をしていた先輩たちがいたんです。その人たちに「インスタレーションで映像を流してほしいって言われてるんだけど」と相談して、やってみようと。それが、映像集団DEVICEGIRLSの始まりでした。

写真中央のカメラを使い、ヘッダ画像を撮影している様子。

写真中央のカメラを使い、ヘッダ画像を撮影している様子。

このインスタレーションアートが面白くて。いろんな場所にDJブースや照明器具、発電機などを持っていき“空間をデコレートして、場所のポテンシャルを引き出す”というようなコンセプトの活動をゲリラ的にやっていたんです。例えばその活動の一環として、長野オリンピックにも行きました。海外のオリンピックって会場の周りでいろんなアートパフォーマンスをやってるじゃないですか。「長野はぼたん雪が降るらしいから、それをスクリーンにしちゃおうぜ!」って盛り上がって。だけど思いのほか雪は降ってなくて、急遽、表彰式会場の向いにあるお寺の屋根に映像を投影することにしたんです。もちろん住職さんに許可を取って(笑)。今でいうプロジェクションマッピングみたいな感じですかね。やるんだったら人を集めようと、すぐにファミレスでフライヤーを作り、商店街の印刷屋さんで刷って、オリンピック会場で配りました。観に来てくれた海外のメディアからピンズをもらったりして楽しかったですね。

このときオリンピック期間だけクラブに改造されていた倉庫があって、「“メダリスト入場無料!”とか謳ってるけど、来るわけねーし!(笑)」なんて思っていたら、突然「ここで映像を流してよ」とお願いされたんです。ほかのメンバーは東京に帰ったんですけど、「こんな機会なかなかないぞ!」と思って、僕だけ長野に残りました。その期間は山小屋に泊まって、昼はオリンピックの中継を観て、それを反映した映像素材を作って、連日そのクラブでVJで流したりしました。今思えば、ここですでにのちの「FUJI ROCK FESTIVAL」でのVJ生活と同じことしてましたね(笑)。で、そのクラブにDJとして東京からTOBYさん(Tobynation)が来てて、「面白いね。東京に帰ったらLIQUIDROOMでパーティがあるから、そこでVJやってくんない?」って誘ってくれて。スヴェン・ヴァスの来日公演だったんですけど、その日を境により深くクラブシーンに関わっていくようになったんです。

今回の取材にあわせてアートインスタレーションユニット・flowのメンバーだった山岸清之進くんが動画を発掘してくれました。

時代的に懐かしい映像比、かつ劣化してて見づらいですが、セントラルスクゥエア(表彰式会場)の向かいで、ちょうど「船木ぃぃ」でおなじみ感動のスキージャンプ・ラージヒル団体金メダルの表彰式のときだったので、歓喜の声も聞いて取れます。商店街の隙間から見えるプロジェクションが当時はまだあまり見かけない新鮮な光景で、flowのメンバーだった田中陽明くんと思わず「いいねえ」と言い合ってるのが収録されてて、なんだか青春ですね(笑)。バカデカい発電機やプロジェクターなど、映像機材も大きく多かった時代ですが、現在よりフットワーク軽く行動していたこのときを忘れないでいたいです。

初期のVJキャリアと、その頃に影響を受けたこと

DEVICEGIRLSというのは、もともとはアートパフォーマンスをしたり美術展に出品したりする美大の仲間から始まったグループだったんです。当時VJをするには会場にビデオデッキ4台と巻き戻し専用機、数百本のビデオテープやモニターを持ち込んでいたので、メンバーの中に車を持っている仲間がいないとできなかったですね。今でこそ1人でもVJをやれる環境になっていますが。毎週末どこかに呼ばれてVJをやっていたので体力勝負だったし、美大生だから作品のプレゼン期間もあったので、7人のメンバーが入れ替わりでわいわい現場に行く、みたいな感じで活動してました。僕はこの活動が大好きだったので、全現場に行って必ずフェーダーを握ってました。卒業式の前日も朝までパーティで、寝過ごしちゃって式が終わってた!ってくらい没頭してましたね(笑)。

和田一基

和田一基

そもそも1980年代後半頃から日本のエンタテインメントやクラブシーンには、VJの礎となるような活動をしている人たちもいて、活躍されていました。DEVICEGIRLSを始めた大学生の頃に、ちょうどVJのブームが来たんです。僕たちも当時は雑誌の表紙になったりとか、「トゥナイト2」というテレビ番組のクラブ潜入取材で取り上げられたり、なぜか少し注目された(笑)。この頃は渋谷や西新宿にレコードショップがたくさんあって、僕もお金がないのにディグりに行き倒してましたね。その時期にあったたくさんの時間と、止めどない雑多な知識欲は、初めて絵を付けるDJやアーティストへの対応力などに、今とても生かされてると思うので無駄じゃなかったです。

当時、特に影響や刺激を受けた映像は、Underworldのメンバーが所属するデザイン集団・Tomatoの作品でした。中でも「洗濯機のホースにカメラを突っ込んで撮る」「透明なセルにプリントアウトしたグラフィックを手で動かす」みたいなハンドメイドでアナログな手法からできている作品を知り、イマジネーションが広がったんです。もともと筆と鉛筆でしか絵を描いていなかった僕は、VJを始めた当時CGを作るスキルをあまり持ちあわせていなかったんですが、Tomatoのスタンスを通じて、「映像の作り方って制約なく自由でいいんだな」と一気に許しを得た気がしました。そこからVJプレイをすることも映像ネタを作ることもより楽しくなっていきましたね。

2020年11月21日に東京・渋谷WOMBで開催された「WOMB presents TAKKYU ISHINO」でのVJの様子。(Photo by JUNPEI KAWAHATA)

2020年11月21日に東京・渋谷WOMBで開催された「WOMB presents TAKKYU ISHINO」でのVJの様子。(Photo by JUNPEI KAWAHATA)

石野卓球さんと初めて会ったのは、1998年にTOBYさんのパーティでVJをやってたときでした。「うわ、メディアで見たことある人だ!」と思いつつ、そのときは会話をした記憶があまりないんですが、ある日「ソロライブをやるからVJをやってほしい」と連絡が来て、2001年に東京と沖縄で開催された石野さんのソロツアー「カラオケナイトスクープ」というライブ形式でのツアーに参加することになったんです。僕らも初めてのライブ形式のツアーで、とてつもなくうれしかったのを覚えています。このツアー以降、石野さん、電気グルーヴのおかげでいろんな経験と景色を見させていただいてます。当時石野さんが主催していた屋内レイブ「WIRE」も2003年からメインフロアを担当させてもらえるようになりました。

お客さんからしたらVJの映像というのは、アーティストの作品の一部に見えてしまうものなので、今のイメージをどうしたいのか、アーティストの意向を汲み取り増幅させるのが僕の役目だと思ってます。アーティストは本番中に背後の映像が見えないので、より責任感を持たなければとも思っています。事前に打ち合わせもないことが主ですし、あらかじめ決められたものを流すわけでもないので、映像素材の下準備はギリギリまで用意するようにしていますね。VJは主張の加減が難しいのですが、キャリアを重ねていくうちにその押し引きのバランスを汲み取れるようになった気がします。ご本人は覚えてないと思うんですけど、ある日、石野さんがふと「代わりが効かなくなった」って僕に言ってくれたんです。VJをやっていて、一番うれしかった言葉ですね。このとき以降、ほかのお仕事でも誰に対してでもこんなふうに思われたいというのが、自分にとっての明確な目標になりました。まあでも、たまに調子に乗りすぎてしまうんですけど(笑)。

2003年から2013年の10年間VJを担当した「WIRE」が、1年の中で最もヘビーであり充実感のあるイベントでした。勝手に寝ずに54時間稼働し続けて燃え尽きてました(笑)。18:00から翌朝6:00過ぎまで12時間ぶっ続けでのVJプレイに加え、前日は徹夜でVJ素材を制作し続けていたので。「WIRE」では海外の名だたるトップDJたちが出演している中で、そこにVJとして毎年携わらせてもらうという光栄すぎる経験ができました。いろんな方に尽力してもらいましたね。こちらの動画は「WIRE」の最終年のダイジェスト映像にはなりますが、VJプレイも一部ご覧いただけます。

ちなみに「明らかに昨年と映像変わってるぞ!とお客さんに思ってもらえるような映像素材を作れないかな?」というところから発想したのが、“WIREガール”でした。これは、ラウンドガールのような女性が現在プレイ中のDJの名前が書かれたパネルを持ってLEDスクリーンに登場するというコンテンツです。毎年「今年はどんな“WIREガール”だろう?」とお客さんに期待していただけるようにまでなったのがうれしかったですね。

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「コンサート現場で学んだ完成されたショーエンタテインメント」「デザイナー的な考え方と映画監督的な考え方、VJにとってはどちらも必要」

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