滑り止めの男子校に入ったら、そこにはプールがなかったんですよ
映像制作に触れたのは高校時代が初めてなんですよ。中学時代は水泳部に所属して競泳をやっていました。当然、高校も水泳強豪校を目指していたんですが、高校受験に失敗しましてね。滑り止めの男子校に入ったら、そこにはプールがなかったんですよ(笑)。「水泳を極めよう」って思っていたのにね、ははは。
──ははは。ご出身はどちらなんですか?
大阪です。それで、なんてこったと思っていたら、担当してくれていた数学の先生が廃部寸前の放送部顧問で。その先生が僕のところに来て、「おい、伴野。お前放送部に入らないか?」と言ってきた。「放送部なんか興味ないです」「放送部で水泳のドキュメンタリーを作ったらいいじゃないか」「え? 水泳の?」という感じになってですね(笑)。その学校の放送部は、当時珍しくテレビ放送をやっていたんです。テレビスタジオも学校の中にあって、校長先生の挨拶や朝礼を教室のテレビで生放送するんですよ。
──かっこいいですね。
それで部活紹介のビデオを撮ったり、試合の様子を撮りに行ったりしては、昼に番組を放送していました。そうやっているうちにドキュメンタリーっていうのがなんなのか少しずつわかってきた。あの頃はまだ録画用のビデオテープもUマチックと言って……聞いたこともないかもしれませんが、大きくてガシャーンと入れるようなやつで。ポータブルというカメラがあって、ビデオデッキも背負って撮りに行ってました。もう30年以上前になりますね。
藤原鎌足ってご存じですか?
僕は結局水泳のドキュメンタリーは作らなかったんですが、歴史のドキュメンタリーを作りまして。学校のすぐそばに……藤原鎌足ってご存じですか?
──もちろんです。
学校の横にある小山が藤原鎌足の古墳だと言われていて。住宅街を建てるためにそれを壊すという話が上がってきて、「これはまずいんじゃないか」となったんです。とは言え、“藤原鎌足の古墳”の伝説は各地にあって、小山はその1つなので本物かどうかもわからない。だけど本当に壊していいのか?と。そういうドキュメンタリーを作ってNHKのコンクールに出したら賞をいただけたんですよ。
──それが最初に作った作品?
最初に作ったドキュメンタリーですね。
──すごいですね(笑)。
クラブ紹介の動画が最初と言えば最初なんですが、いわゆるドキュメンタリーらしいものはこれが初めてで。それでドキュメンタリーって面白いなとなっちゃいまして……それが出発点かもしれないですね。
──ちなみにその小山が本物の藤原鎌足の古墳かどうかはわかったんですか?
ちょっと離れたところにも「藤原鎌足の古墳かも」と言われているものがあって、しかも副葬品のようなものが出土しちゃった。だからそちらのほうが有力視されたんです。でもこっちは昔から「鎌足さん、鎌足さん」と地元の人に愛されていてお祭りなんかもやられていた。結局、学校の横の小山は壊されてしまって、そこに埋葬されていたかどうかはもうわからないんだけど、人々からそうやって信じられて愛されてきたっていうことが実はすごく大事なんじゃないの?といったテーマの作品でした。
──それは賞を獲りそうな作品ですね。
それで味を占めて、進学した大学の放送局に入りました。そこはラジオ放送の放送局だったんですが、僕がテレビ放送をやったらどうかと提案してみたら、テレビ派とラジオ派で意見が割れちゃったんですよ。もともと学校サイドにもテレビスタジオを作ろうという話があったんですが、「放送局の歴史を潰そうとしてるんじゃないか」「今はテレビの時代だからって簡単にくら替えしていいのか」と話がもつれてしまった。そして「伴野は局長の座を狙っている」という話まで出てきて、結局僕は辞めることになる。
──ええ! 去ったんですね。
去ったんです。派閥争いに巻き込まれて、組織をまとめて動かすことで手一杯になっちゃって。そんなことをやるためにここに入ったんじゃないと思って、自分で映画のサークルを作ることにしました。
──大学時代はどんなテーマで作品を作ったんでしょうか。
例えば……僕が一番最初に作ったフィクション作品「犬」は、犬の目線で物語が展開する作品。犬から見た人間を映しています。
──いわゆるPOV形式というか。
人間の身勝手な感じが犬から見たらなんだかおかしい、みんな「お手、お手」って言ってくるねみたいな(笑)。最初に子供が連れてきたときに「うちでは飼えない」って言われたり、犬がお父さんの会社の偉い人に噛み付いて、捨てられちゃったり。でもその犬がある子供を事故から助けてテレビで有名になったら、お父さんが「それ、うちの犬です」と出てくる。そういう話で、読売テレビの「CINEMAだいすき!」映像大賞で賞をもらい、大阪のテレビ局でオンエアされたんですよ。
──ユニークですね。いわゆる客観的なカメラワークで群像劇を撮るのとはまた違って。
そうですね。それに実はドキュメンタリーの要素が多分に含まれているっていう……。
──思いました!
実はフィクションやドラマであったとしても、ドキュメンタリー的な面白さというか、にじみ出る人間性や醜い部分が描き出されているものがいいなと考えていて。僕が作ったほかの作品もそこを意識した作品が多かったかもしれないですね。
やっぱり映画の力ってすごい、阪神・淡路大震災で迎えた大きな分岐点
──大学卒業後の進路は決めていましたか?
映画監督か報道記者かと考えながら就職活動して、地方のテレビ局に決まっていました。けれど大学卒業の年に、阪神・淡路大震災に遭ったんです。その震災を経て「このままテレビの世界に行っていいのか? 自分はやっぱり映画なんじゃないか?」と思い始めました。
というのも、震災のときに僕は映画の上映活動に参加していたんですよ。被災した街は、もう何もなくなって瓦礫だらけ。真冬に、人々が学校の体育館や公園にテントを張って避難しているわけですね。当然娯楽もないし将来どうなるんだっていう状態です。そこで僕たちは野外スクリーンを張って、なるべくみんなが観て明るい気持ちになれる「男はつらいよ」「
雪が降るような日にも公園で炊き出しがあって、映画のフィルムが到着したらみんなワーッと喜んで観るわけですよ。家族を亡くした人たちがいるような状況でも、「となりのトトロ」を上映すると子供たちが歌を一緒に歌うんですよね。やっぱり映画の力ってすごい、人々に勇気を与えるんだって思いました。
一方テレビ報道でこんなことがありました。各メディアが被災地の上空をヘリコプターで飛んで撮影をしていたせいで、瓦礫に埋まっている人に呼び掛けている声が聞こえなくなった。まだ瓦礫の下にいる人が「生きてるよ」「助けて」と言うじゃないですか。それも聞こえない。ヘリコプターが救助の邪魔をしているんですよ。メディアがそんなことやっていていいのかと思ったときに、自分には映画なんじゃないかと考えたんです。
──大きな分岐点ですね。
テレビ報道の道に行くのは辞めて、1年留年してボランティアをやりました。でも結局地元のケーブルテレビ局に就職したんです。映画監督になりたいなら自主映画を作っていけばいいんだけど、食っていかないといけない。今までも映像制作をやってきたし、できれば映像と関わる仕事がしたいと思い、そこに決めました。
それで仕事をしつつ自主映画を作ろうと思っていたんですが、仕事が意外と面白くてですね。と言うのも、テレビ報道って事件とか事故とか、暗い話がけっこう多いじゃないですか。でも僕らは地元のケーブルテレビなので、その街のいいところをたくさん取材して伝えることができました。こんなイベントがあったよ、保育園でこんなことやってるよとかね。それに、ケーブルテレビって世の中的に視聴率が低そうに思われますけど、その地域で言えば視聴率はNHKの次によかったんですよ。
──え! それはやりがいがありますね。
やりがいありますよね!(笑) 面白い中身を作ればみんな観るんですよ。例えばバラエティ番組で地域の市民レポーターを育てていくうちに、その地域だけのアイドルのような存在ができたり。その人が取材に行くとワーッと人が集まるから、「来週はどこどこの街に行くから待ってろよ!」って予告なんかしてね。その街に行ってぶらぶらして、そこらへんのおばあちゃんやおっちゃんにインタビューするだけなんですよ。住民の人たちとレポーターがただ会話するだけなのに、すごく面白くてウケる。
それでもっと面白いことやろうと「主婦1000人に聞く、私の好きなパン屋さん」「主婦1000人に聞く、私の好きなスーパーマーケット」みたいな番組で地元の主婦にアンケートを取りました。今までは主婦の中の口コミでしか知られてなかったものをメディアに載せてみたわけです。それでNHKの賞をいただきました。
──すごいですね……!
だいぶ楽しく仕事させていただいたんですが、忙しくて映画作りができないじゃんっていうジレンマが……。原点に立ち戻りたいと、東京に来たんですよ。
東北新社というよく知らない会社で、写植担当のおじさんのお手伝いをするんだろうな
──東京に来たのは何歳頃ですか?
27歳ですね。それで転職したのが東北新社だったんですが、僕は東京で映像の仕事ができればなんでもよくて。
──なぜ東京なんです?
当時16mmフィルムで自主映画を作っていて、現像所はヨコシネ(ディーアイエー)を使っていました。ただ、大阪の営業所からだと希望のテイストが正確に伝わらなかったので、現像する技術者と直接話がしたい!と。その頃僕は結婚して小さい子供もいたんですが、会社をとっとと辞めて大移動したんですよ。
──現像のために!
そう、現像のために(笑)。東京の東北新社という会社を当時はよく知らなくて、どうやら老舗らしいと。僕は古いビルで映画字幕の写植担当のおじさんのお手伝いをするんだろうななんて思って面接に行ったら、意外と大きそうな会社だったんですよ。そういえばスターチャンネル、スーパー!ドラマTV、ヒストリーチャンネルって聞いたことがあるな……えっこの会社だったんだ!という感じで。当時はビデオジャーナリストという自分でカメラを回して取材するスタイルが流行り始めた時期で、ケーブルテレビで鍛えたフットワークの軽さや自分でカメラを回して編集するスタイルが評価されて「来てくれるの?」「行きます!」でトントン拍子に採用されたんです。
まずはスターチャンネルの担当になって、作品の予告編をひたすら作るようになりました。本当に勉強になりましたし、あの仕事のおかげで今があると思っています。同業者にはこの人すごいなって感心させられる人がいて、それを見ながら技を盗んでいきました。
──その経験が、アジアンドキュメンタリーズの予告編作りに生かされているんですね。
松下電器の代表番号に電話したんです
──会社の仕事は楽しそうですが、自主制作はどうなりましたか?
東京に来て、
──そんなこんなで東北新社の映画部門に行ったわけですね。どんな作品を世に送り出したんですか?
僕が最初に作ったのは2006年の「
──でも結果的に形にできたわけですよね?
それができちゃったわけですよ。最初は松下電器の代表番号に電話したり(笑)、安田さんのツテをたどったり。あの手この手で話を聞いてもらい、企画書を見せたら役員の方まで通り、協賛に入ってもらえることになりました。
──製作費はどう集めたんでしょうか。
松下電器の創業者、松下幸之助が生まれたのは和歌山。当時和歌山県が(映画配給会社の)東京テアトルと一緒になって地域で映画を作ろうとしていたので、そこに話を持って行ったんです。「和歌山と言えば松下幸之助さんですよね! 今こんな企画あるんですよ!」とぶつけて、松下電器さんも全面応援してくれますよと。東北新社と東京テアトル、それから地元メディアの関西テレビも話に乗ってくれて、3社と和歌山県で出資することになりました。和歌山でロケをすることになり、田辺市が候補に挙がったんです。田辺市は合併したての大きな街で、話題作りを模索していた。それで「ここで映画を撮れば、ロケ地観光で人がやって来るかもしれないですよね」と。
田辺・弁慶映画祭は「幸福のスイッチ」上映会から始まった
──なるほど、ものすごくきれいな道筋です。
それで、今も田辺市でやってるんですけど、田辺・弁慶映画祭っていう……。
──有名ですよね。
有名ですか。あれね、「幸福のスイッチ」がきっかけだったんです。
──本当ですか! 自主制作の登竜門としてよく知られてますよね?
そうでしょう?(笑) 田辺市にはもともと、弁慶に扮した有名人が街を練り歩く“弁慶まつり”というものがあったので、映画の上映をそのお祭りにぶつければいいじゃんと。「弁慶まつりと一緒に映画を観よう」と、祭りに合わせて市民ホールで上映会をしたのが弁慶映画祭の始まりですね(※正式な映画祭第1回は翌年2007年に開催)。
街にはフィルムコミッションもできました。「幸福のスイッチ」の制作のときに田辺の皆さんが盛り上がってくれて、ロケ地を探してくれたり、炊き出しをしてくれたり。いい人たちなんですよね。でも「幸福のスイッチ」が終わったら寂しいじゃないですか。それで「じゃあ俺たちで弁慶映画祭続けようぜ!」となったようです(笑)。それが今も続いているっていうんだからすごいでしょ!
──すごいですね。そのあとは……。
翌年は審査員として映画祭に行ったと思います。そのあとはホラー映画をやってみたり、NHKのスペシャルドラマや、京都で同じように地域を盛り上げる映画を作ったり。
──地域、お好きですね?(笑)
そう! 地域好きっていうのはやっぱりケーブルテレビから来てるんですよね(笑)。「
目標は自分たちでドキュメンタリーを作ること
──そして、アジアンドキュメンタリーズに行き着いたと。サービス運営の今後についてお聞きしたいんですが、ひとまず今のところはいい感じでしょうか?
いい感じというか、まあ大変ですよ(笑)。やっぱり会員を増やすのが大変ですよね。ドキュメンタリーは重いからあんまり観たくないという人もいっぱいいるでしょうし、観たいけど時間がないという人もいる。僕らはどうしたらその人たちに時間を作ってもらえるのか、どこに宣伝すれば興味を持ってくれる人にたどり着けるのか、何もわからないんですよ。砂漠に井戸を掘るようなもんですね(笑)。
──掘っても掘っても下に水があるかもわからないし。
わからない。掘ってちょろっと水が出て「おっ! 水きたー!」となっても「もう渇いちゃった?」みたいな(笑)。そういうことの繰り返しなので、忍耐力だけは付きましたよね。
──どの作品が話題になるかなんて、なかなかわかるものでもないですからね……。
でも僕らは砂漠のオアシスのようなものを作りたいんですよ。井戸を掘って、そこを通る人々が喉の渇きを癒やせるようにしたい。お客さんが集まる、ドキュメンタリーという街を作りたいですね。
──素晴らしいですね、住みたいです。
ぜひ住んでください(笑)。そのあとの目標は、自分たちでドキュメンタリーを作ること。日本のドキュメンタリーって500万円、600万円とかで作るんですが、海外だと5000万円、1億円掛けるんですよ。0が1個違う。「俺はその情熱に惚れたよ」っていう奇特な出資者がいても「じゃあ200万出すよ!」というぐらいでしょうし……。だからアジアンドキュメンタリーズの視聴料収入によって、自分たちでコンテンツを作って、日本から世界に向けて発信していきたいっていう野望があるわけです。
──どんな作品が生まれるのか楽しみです。伴野さんが今までに衝撃を受けた本や映像作品などはありますか?
若かりし頃、小林紀晴さんの「アジアン・ジャパニーズ」という本が好きで、こういうノンフィクションを撮りたいとずっと思って今に至っています。長いサラリーマン生活の中で、いつでも仕事に忙殺され、自由気ままにアジアを冒険・放浪する機会はほとんど得られませんでした。もちろん仕事はいつも楽しかったですし、仕事で冒険してきたのですが。その反動と憧れでアジアンドキュメンタリーズを立ち上げたようにも思います。そういう意味では、今になって「深夜特急」に飛び乗ったような気分ですね(笑)。
そして「
──自分の使命としてドキュメンタリーを若い人に観てもらいたいというのとは別に、事実ベースのドラマもいいなと思っているわけですね。
うちがもう少しお金持ちになったら、そういう作品をやりたいし、出資しますよみたいな(笑)。ドキュメンタリーや歴史の面白さを知ってもらって、そこから先へつながれば。
──これは壮大な物語かもしれないですよ。今種をまいて芽を生やして、最終的に面白い伝記ドラマをみんなに観てもらう。
大スペクタクルを観ていただくっていうね。その頃にはアジアンドキュメンタリーズももっと大きな会社になっているから出資もできますよと(笑)。
伴野智(バンノサトル)
1973年2月20日生まれ、大阪府出身。株式会社アジアンドキュメンタリーズ代表取締役社長 兼 編集責任者。大学在学中より映画制作を始め、卒業後はケーブルテレビ局、映像制作会社に勤務した。2018年8月に動画配信サービス「アジアンドキュメンタリーズ」を立ち上げて以来、ドキュメンタリー映画のキュレーターとして、独自の視点でアジアの社会問題に鋭く斬り込む作品を日本に配信。ドキュメンタリー作家としては、ギャラクシー賞、映文連アワードグランプリなどの受賞実績がある。
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