映画と働く 第4回 [バックナンバー]
CGエフェクトアニメーター:久保田孝「グラフ用紙から始まった“頭の体操”」
ライカやドリームワークスを渡り歩く日本人が語る、CG黎明期からコロナ禍まで
2020年11月25日 12:10 6
1本の映画が作られ、観客のもとに届けられる過程には、監督やキャストだけでなくさまざまな業種のプロフェッショナルが関わっている。連載コラム「映画と働く」では、映画業界で働く人に話を聞き、その仕事に懸ける思いやこだわりを紐解いていく。
今回はアメリカでCGエフェクトアニメーターとして働く久保田孝に、リモートでインタビュー。公開中のストップモーションアニメ映画「
取材・
ライカの強みは人形作りから撮影、エフェクトまで社内で完結できるところ
──久保田さんは公開中の「ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒」に関わられたということで、まずはスタジオライカ時代の話を聞かせてください。同作では「CGエフェクトテクニカルディレクター」とクレジットされていましたが、具体的にはどんなお仕事ですか?
ストップモーションで撮った素材にあとからCG素材を追加して、映像を加工していく作業をビジュアルエフェクトと呼ぶんですが、僕はビジュアルエフェクトデパートメントの中のエフェクトと呼ばれる部門にいました。エフェクトではCGで炎や煙、水あるいは稲光のような光物を作ったりします。
──ライカの売りであるストップモーションアニメーションの技術は、“最古の特殊効果”とも言えますよね。CGエフェクトは最先端の技術を使うので正反対だと思ったのですが……。
ストップモーションであっても、“実写で撮影した素材に対してCGをつけ加える”という作業自体は、ほかの実写映画と変わらないんです。だから違和感なく作業を進めることができました。撮影された素材にCGで何か乗せる場合、カメラとの相対的な位置関係を計算してCGのカメラを後付けで作り出す“マッチムーブ”という作業をするんですが、ライカの作品もパペットを実写で撮った素材をマッチムーブする人がいて、僕らはそのCGのカメラを通して作業を進めていく。作り方はまったく一緒です。
──なるほど。では、ライカならではの特色を挙げるとしたら?
普通は大規模な撮影が行われたあと、世界中のいろんな会社で作業を分担してビジュアルエフェクトを追加しますが、ライカの場合はパペットや衣装、小道具、セットに至るまですべて手作りするところから始まり、撮影してエフェクトを加える過程まで全部ひとつの社内で完結できるところが強みです。独特な世界観を生み出すうえで重要なポイントだと思いますね。2017年から2018年にかけてポートランド・アート・ミュージアムで「Animating Life of Laika」という展覧会が開催されたんですが、「コララインとボタンの魔女」から「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」まで過去作のパペットやセットがズラーっと並んでいて圧倒されました。クラフトマンシップにあふれていて、こんな会社はほかに見たことがないです。
家族を連れたスタジオ見学や“サンドウィッチの日”も
家族をスタジオに呼びましょうというイベントも、年に1~2回ありました。家族連れでスタジオの中を見学させてくれるんですよ。途中で記念写真を撮ってくれたり。
──すごく楽しそうです! お子さんもかなり喜ばれたんじゃないですか?
いや、このぐらいの歳だと何もわからなかったみたいで、きっと記憶のカケラにも残ってない……(笑)。この子は「ミッシング・リンク」の制作中に生まれたので、エンドロールに“プロダクションベイビー”としてクレジットされているんです。いい記念になりました。
──いろんな分野のエキスパートが1つの会社で働いていると、タイプの違いもあったりするんでしょうか。
僕らビジュアルエフェクトの担当者たちは、ほかのスタジオと大差がなかったと思いますが、衣装や模型など手で物を作っている人たちは独特な雰囲気がありました。風貌もちょっと変わっていて……ライカの作品に出てくるキャラクターのような人が多いんです(笑)。映画を観てると、スタジオの人がモデルなんじゃないかなと思うことがあって。
──面白いですね(笑)。他部署とも交流はあるんですか?
金曜日の夕方、仕事が終わる頃に皆で大きな試写室に集まって、今週進めた作業を発表する上映会がありました。皆で観ながら「わあ、すごい!」と拍手したりして、コミュニケーションの場にもなっていました。
──ライカの作品だと、1週間掛かってわずか数秒ぐらいのペースですよね。
そう、少しずつできていく途中経過が見れて面白かったです。それと月曜の朝に毎週無料でサンドウィッチがふるまわれて、皆で食べながら業務連絡を聞く会があった。僕は寝坊したり、週明けからやる気が出なかったりで、結局2回くらいしか行ったことがなかったけど(笑)。各部門が自分たちのノウハウを紹介するセミナーも多かったです。内部の情報を共有するイベントが活発で、そのかわり外部には漏れないようにしてましたね。ほかの会社で作った映画の上映会をやって監督をゲストに呼んでくれたり、ライフドローイングといって、日本で言うところのデッサンの機会を設けてくれたり。僕はそういうのが好きで、しょっちゅう顔を出してました。
「ミッシング・リンク」冒頭シーンには3~4カ月掛かったカットも
──作品の話もお伺いしたいんですが、久保田さんが「ミッシング・リンク」で誇りに思っているのはどのシーンですか?
オープニングシークエンスの水のエフェクトです。湖から恐竜が首を出して暴れまくるところや、口から吐いたツバのようなものが主人公のライオネルにべちゃべちゃとかかる場面を担当しました。
──あのシーン、いきなりストップモーションだということを忘れてしまうぐらい素晴らしかったです。
ほかにも貴族クラブの看板に泥が引っかかるシーンとか細かい部分をいくつか担当しましたけど、ほとんどオープニングばかりやってましたね。全体で1年半ぐらい掛けて作業したのですが、3~4カ月掛かったカットもありました。
──やはり1シーンに掛かる労力がすごいですね。「KUBO」のメイキング映像で、水の表現を研究するために、わざわざ一度模型を作って実験してからCGを作っているのを拝見したんですが。
僕は「KUBO」に途中から参加したので、入社したときには残念ながら研究は終わっていたんです。だけど、その研究にもとづいた指示に従ってオープニングの大波のシーンを作っていったので、研究の成果は生かされていると思いますよ。
──「KUBO」ではほかにどういったシーンを担当されたんでしょうか。
主人公クボの母親が三味線をバーンと弾くと出る衝撃波や村にある稲穂、猿とクボが襲われる吹雪などを担当しました。木の葉でできた船が真っ二つに割れたあと、残骸が集まって、水しぶきを上げながら合体するショットも。僕のデモリールにも入っているので、ぜひ観てみてください。
──ちなみにクボの名前は久保田さんから取られたわけじゃないんですか?
そんな気がしますよね。でも違うんです(笑)。「KUBO」のコンセプトを書いたスタッフが、日系人の友人のニックネームから取ったらしいですよ。村で将棋を指しているキャラクターのモデルにもなっていて、顔がすごく似ているそうです。
──へえー、知らなかったです! では「KUBO」の制作に久保田さんが関わられたのは偶然だったんですね。
はい。僕が入社後にオリエンテーションを受けたときに、やたらスタッフからクボ、クボと呼ばれて。そのときは「KUBO」の企画をまだ知らなかったから不思議に思ってました(笑)。
大学の1年後輩・庵野秀明は同世代のヒーロー
──ここからは久保田さんの経歴を振り返っていきたいと思います。映画業界を目指したきっかけはなんだったんですか?
子供の頃、父が8mmカメラで撮った家族映画を観て、いつか自分でも映画を撮ってみたいと思ったことがきっかけです。英語教師だった父はオープンリールのテープレコーダーやポータブルレコードプレーヤーなど機材をいろいろ持っていて、旅行の思い出を撮影したり、寝る前にお話のレコードを聴かせてくれていました。
──初めて映画作りに挑戦したのはいつですか?
高校のとき中古の8mmカメラを買って、文化祭用に短編アニメ映画を作りました。その頃はマンガ家になるのが夢で、マンガ研究会に所属していたんですよ。部員みんなでセルアニメっぽいものを作ったんですが、全然動いてなくて、恥ずかしいから「8mm紙芝居」と言っていたかな(笑)。その頃はアニメが人気を得ていた時代で、自分にとって「宇宙戦艦ヤマト」の存在は大きかった。高校のときにテレビシリーズを編集した映画が上映されたんです。夏休みの最初は全国で4館ぐらいしか上映してなくて、僕らは茨城から東京の渋谷までわざわざ観に行って、帰りに九段下にあるオフィス・アカデミーという製作プロダクションにも寄り道しました。やった、観てきたぞ!って喜んでたんですが、夏休みが終わる頃には地元の映画館にもかかってて(笑)。
──いいエピソードですね(笑)。「尊敬する映画人」の欄に黒澤明と書いてありましたが、その頃から?
中高生までは田舎に住んでたのもあって、怪獣映画やアニメはテレビでよく観ていたんですが、ちゃんとした映画はそれほど観たことがなかったんですよ。でも大阪芸術大学の映像計画学科に入ったら、黒澤明と組んだことのある撮影監督が講師にいたり、溝口健二のシナリオライターだった人が学科長だったり、いきなり映画、映画っていう世界だったので、これは観なきゃダメだなって(笑)。そこらへんからハマった感じです。ちょうど在学中に黒澤監督が「影武者」を撮ったんですけど、2個上の先輩なんかは撮影の手伝いに行ったりして盛り上がってたんですよね。
──レジェンドがすぐ手の届くところに……すごいです。
けっこうレジェンドがいましたね。「羅生門」の撮影監督だった宮川一夫さんが特別講師だったんですけど、僕ら全然知らなかったものだから、授業中に大騒ぎしてひどく怒らせちゃったことがあって(笑)。いまだに後悔してるんですけどね。
──大学では、ほかにどんな出会いがありましたか?
直接の面識はないのですが、1年後輩に庵野秀明さんがいました。
──あっ! 確かに同世代で同じ大阪芸術大学ですね。
最初にすごいと思ったのは、彼が課題で作った「ウルトラマン」のパロディ映画。2年生になると3分の短編を作る課題が出るんですが、その発表会「ファーストピクチャーズショー」で3年生が上映係をやるんです。僕は上映ブースの中にいたんですが、突然それがバーンと始まって、うわっ、すごいな!とびっくりしたのを覚えています。簡素な作りにもかかわらず、抜群に面白かった。「アオイホノオ」(※注1)というドラマの中でも再現していて、柳楽優弥さん演じる主人公がいいリアクションをしていましたけど(笑)、あんな感じで僕も驚いたことを覚えています。
※注1:島本和彦の自伝的マンガを柳楽優弥主演でドラマ化した作品。大阪芸術大学が実名で登場し、庵野秀明をモデルとした庵野ヒデアキ役を安田顕が演じた。
──柳楽さんの演技も決して誇張ではなかったと(笑)。
あのドラマを観ていると目頭が熱くなりますね。その後ずっと庵野さんの関わった作品を観続けていますが、いつも変わらず驚きと感動を与え続けてくれる、同世代のヒーローのような監督だと思っています。来年公開予定の「シン・ウルトラマン」も楽しみですね。
レイオフされてからの5年は鳴かず飛ばずだった
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Hiroo @HkKihara
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