父・中村勘三郎が“蔦重”演じた「きらら浮世伝」中村勘九郎&中村七之助がエネルギッシュに立ち上げる!2月は歌舞伎座で会いましょう (2/2)

パワフルな人生を送った父・中村勘三郎

──勘三郎さんの十三回忌追善興行は、昨年の“猿若祭”からスタートしました。日本各地、1年にわたる追善は、お父様のすごさはもちろん、若くして大きな存在を亡くされたお二人の努力の10年間の証とも感じました。本当にがんばられましたね……ただの感想ですみません。

勘九郎 いえいえ、はい、がんばりました!(笑) 改めて偉大な父を誇りに思いますし、本当に楽しい1年になりました。

七之助 57歳という短さでしたが、「燃料を使いすぎちゃったんじゃない?」と思うほどにパワフルな人生でした。地方の劇場で聞いてみると、父の生の舞台を観たことがない方もとても多かったんですよ。「ああ観てほしかったな」という気持ちと「僕たちの身体を通して父の芸を感じてほしい」という思いを持って1年を走り抜けました。

中村七之助

中村七之助

──昨年の“猿若祭”での勘九郎さんの次郎左衛門、七之助さん八ツ橋による「籠釣瓶花街酔醒」は、お二人の組み合わせで繰り返し拝見したいと思わせる、鮮やかな初役でした。

勘九郎 ずっとやらせていただきたかった役でしたし、素晴らしい作品だということを再確認した月でした。後半は毎日「もうあと○回で終わっちゃう」と寂しさを感じるほど、没入して挑みましたから。なかなか掛けられない芝居ではありますが、またぜひ演じさせていただきたいです。

中村勘九郎

中村勘九郎

七之助 ご指導くださった坂東玉三郎のおじさまに「大変(な役)だろ」と聞かれ、いつもだったら「大変です!」とお答えするのですが、「大変ですが、楽しさが勝っています」と素直に言えたのはあれが初めてでした。(八ツ橋の恋人である繁山栄之丞を勤めた片岡)仁左衛門のおじさまのすごさを、毎日、目の当たりにできた月でもありましたし。あとあのときは、夜の部の序幕が「猿若江戸の初櫓」だったじゃないですか。

──勘太郎さんがはつらつと猿若を勤められていらっしゃいましたね。

七之助 あの作品って、これまでは昼の部の序幕にやることが多かったんです。後ろに控えた演目のあれこれを考えながら踊るイメージがありましたが、あの月は最後の出演演目でしたから。勘太郎がのびのびと踊っているのを、開放感とステキな音楽に包まれながら眺めるしみじみとした時間……そして終われば「お疲れ様!」とスッキリ帰ることができる、実に幸せな1カ月でございました(笑)。

──それは良い狂言立てでしたね(笑)。最後に2025年の抱負を教えてください。

勘九郎 いろいろな舞台をお客様に楽しんでいただきつつ、自分も一緒に楽しむためには、やはり健康が大事。しっかり健康管理をしながら、もっともっと面白いものを作り続けていきたいです。

七之助 僕もやはり健康ですね。やっぱり身体がちゃんとしていないと、舞台に立ち続けられませんから。僕たちも四十代。体力を過信せず、健康第一の2025年にしたいです。

──お二人が四十代とは……。これからますます充実の年代に突入、お父様よりも長く舞台に立たれ、元気に“いい舞台”を見せてください。

勘九郎 そうですね。今年もありがたいことに1年を通してほとんど毎月予定が入っていますし、ワクワクする作品もたくさん控える、これまたうれしい年です。きっと皆様に喜んでいただける企画が目白押しなので、楽しみにしていてください!

左から中村七之助、中村勘九郎。

左から中村七之助、中村勘九郎。

プロフィール

中村勘九郎(ナカムラカンクロウ)

1981年、東京都生まれ。1986年に歌舞伎座「盛綱陣屋」の小三郎で波野雅行の名で初お目見得。1987年歌舞伎座「門出二人桃太郎」の兄の桃太郎で二代目中村勘太郎を名乗り初舞台。2012年新橋演舞場「春興鏡獅子」の小姓弥生後に獅子の精ほかで六代目中村勘九郎を襲名。

中村七之助(ナカムラシチノスケ)

1983年、東京都生まれ。1986年に歌舞伎座「檻」の祭りの子勘吉で波野隆行の名で初お目見得。1987年歌舞伎座「門出二人桃太郎」の弟の桃太郎で二代目中村七之助を名乗り初舞台。

横内謙介インタビュー

ここでは、横内謙介に「きらら浮世伝」についてインタビュー。中村勘三郎が主演を務めた1988年の初演当時は、若干27歳の新進気鋭の劇作家だった横内。初演を振り返りつつ、今回どのように立ち上げるかを語る。

横内謙介

横内謙介

とにかくハートに響く芝居を

──まず初演時のご記憶や、勘三郎さんの思い出を教えてください。

とにかく、古いしきたりとか、境界線とか、そんなものをぶち壊してとにかくハートに響く芝居を観客に観せる……というよりも叩きつける、“熱い青春グラフィティ”でしたね。演出を手がけた故・河合監督がそれを強く求めて、勘九郎さんが先頭に立って全身全霊で応えていらしたことを覚えています。本番中、あまりに激しく動き過ぎてカツラを飛ばすなんてこともありましたが、意に介さず、そのままいつも以上に熱演していたことも。伝統芸能の方のはずなのに、誰よりも破格のアバンギャルドで、映画俳優、アイドル、新劇俳優、アングラ俳優が集められたカオスの出演者たちの垣根をぶち壊して渾然一体と束ねてしまう、そしてその先頭を突っ走ってゆく。そのパワーを目の当たりに見せつけられ、歌舞伎とか新劇とか小劇場とか、そういうジャンルにこだわることがバカバカしくなり「すごいやつはすごいんだ」と思い知らされました。以来、私はあらゆる舞台に偏見を持つことをやめました。稽古後の飲み会で、「舞台はクローズアップがないから困る」と発言した新人俳優に対して、マジ怒りして「俺たちは自分でクローズアップを作るんだ!」と叫んでいた言葉と真剣な眼差しが深く記憶に残っています。このあたりの思い出は「横内謙介日記」というブログにも詳しく綴っているので、ご参照いただけたら幸いです(笑)。

──初演である1988年は、1987年3月に開場した銀座セゾン劇場の1周年でもありました。同劇場は巨匠ピーター・ブルック作品でこけら落とし公演をするなど、話題作を次々と上演した場ですね。当時の演劇界の雰囲気なども教えてください。

あのころはまだ、新劇とアングラ、商業演劇、歌舞伎をはじめとする伝統芸能、そして我々の小劇場には垣根がありました。私がこの新設されたセゾン劇場の仕事を引き受けたときも、「魂を資本に売った」「調子こいてる」といった批判も受けました。当時、流行を生み出す最先端である西武グループの文化拠点でしたから。でも、そういう先入観を木っ端みじんにしてくれたのが、この公演でした。勘三郎さんはこのあと、渡辺えりさんや野田秀樹さんらとも親しく交流し、軽々とボーダーを超えて新たな表現の場に走り出してゆきました。そんな演劇人たちの出会いのキッカケを作ったのは、稽古場から本番まで、刺激に満ちたカオスだった「きらら浮世伝」であったと思います。

松竹創業百三十周年「猿若祭二月大歌舞伎」昼の部「きらら浮世伝」特別ビジュアル

松竹創業百三十周年「猿若祭二月大歌舞伎」昼の部「きらら浮世伝」特別ビジュアル

更に熱い舞台に仕上げるのが使命

──歌舞伎化のために変更点などありますか? また演出を手がけるうえで、ご自分の中で掲げているテーマなどはありますか。

大きな構成と肝になるセリフはほぼ踏襲しつつ、かなり手を加えて改稿しました。何しろ、時代劇や吉原に対する知識が全く乏しかったころの若書きの上に、時代考証や言葉遣いなど、「そんなことは無視して、熱いハートを叩きつけろ」と煽られ、熱病にうなされるようにして書いた台本。それから37年の年を重ねて、さすがに無知にして拙すぎる部分が目に付き、若書きの勢いとパワーを消してしまわぬよう留意しつつも、大人の芝居の部分を増やしました。現・勘九郎さんも当時の勘九郎さんより遥かに大人の歳です。無謀なだけではない、感性と知力で闘う男の深みを表現されるでしょう。

また、歌舞伎俳優が演じるという事……特に女方が演じることを考慮しました。歌舞伎の味わいを消してはやる意味がないので、動きやセリフに無理のないよう、もろもろアダプテーションを施しています。七之助さんや米吉さんたちの演じる花魁の美しさ、素晴らしさも際立つようにしたいですね。

伝統との融合に関しては、スーパー歌舞伎などで、師・三代目(市川)猿之助に教えられた経験を駆使して取り組みたいです。「きらら浮世伝」の上演を三代目が見てくれて、二十一世紀歌舞伎組に招聘されたというご縁もありますから。

とはいえ、熱い思いで時代を切り拓いてゆく若者たちの青春パワーこそが「きらら浮世伝」の根本精神なので、勘三郎さんたちが体当たりで見せてくれた、心の燃える熱く激しい芝居を再現しなくては、今はもう会えない人たちに顔向けが出来ません。大人の舞台に進化させつつ、更に熱い舞台に仕上げるのが使命だと思っています。

──中村屋お二人に期待することを教えてください。

あのときの勘三郎さんを超える熱演を。そして継承ではなく、進化を。

蔦重に「やっと時代が君に追いついたよ」と伝えたい

──1980年代に書いた作品を、現代にどう響かせたいと考えていらっしゃいますか?

蔦重たちの時代、束の間、武士と町人が、戯作や絵という文化芸術を介して、身分を超えて笑い合い、楽しんだ事実があるわけです。それまで貴族や金持ちだけの趣味だった絵画鑑賞や読書も、蔦屋の出版によって庶民までが気軽に楽しめるものになった。つまりメディアの誕生です。

そこに一瞬、自由と平等のユートピアが出現した。絵や読み物は昔からあったけれど、彼らの情熱とパワーによって、それが老若男女、自由を奪われていた花魁にまで行き渡って、それぞれに夢を見せたのです。これは今、まさに我々が享受しているデジタル文化の技術革命と重なる部分があります。37年前には想像もできなかった世界が今、現実に広がっているなか、彼らのなしたことは、単に青春の輝きというばかりではなく、世界や人々の人生そのものに深く影響する、大きな働きであったと思います。脚本のリライトのために改めて考えてみて、また当時に比して膨大に増えた関連資料にあたって、そこに気づきました。プロデューサーを超えて、メディアそのものを大きく育てた蔦屋の真価は、今の時代の方がより鋭利に人々の胸に刺さる気がしますね。

蔦重に、「やっと時代が君に追いついたよ」と伝えたいです。

プロフィール

横内謙介(ヨコウチケンスケ)

1961年、東京都生まれ。劇作家、演出家。早稲田大学在学中に劇団善人会議(現・扉座)を旗揚げ。劇団作品のほか、スーパー歌舞伎「八犬伝」「新・三国志」シリーズ、「新・水滸伝」シリーズ、スーパー歌舞伎II「ワンピース」「新版オグリ」の脚本などを手がける。1992年に「愚者には見えないラマンチャの王様の裸」で第36回岸田國士戯曲賞、1999年に「新・三国志」で第28回大谷竹次郎賞、2016年に「スーパー歌舞伎II ワンピース」で第44回大谷竹次郎賞を受賞。