「仮名手本忠臣蔵」の通し上演が開幕!泉岳寺駅近辺の「忠臣蔵」ゆかりツアー 3月は歌舞伎座で会いましょう

目まぐるしく変化していく日々、ふと非日常的な時間や空間に浸りたくなったら、“ゆるりと歌舞伎座で会いましょう”。昨年8月に、歌舞伎座で三大名作である「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」の通し上演が発表され、大きな話題となった(参照:2025年に歌舞伎座で三大名作「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」一挙通し上演)。3月は、通し狂言「仮名手本忠臣蔵」が、昼夜通しで上演される。

「仮名手本忠臣蔵」は、江戸で実際に起こった赤穂浪士の討入り事件を題材に、大星由良之助ら四十七士の姿を描いた物語。2月中旬には、赤穂浪士たちの墓が並ぶ東京・泉岳寺に、由良之助を演じる片岡仁左衛門、尾上松緑、片岡愛之助がお参りのため訪れた。ステージナタリーでは、そのお参りの模様をレポートするほか、泉岳寺駅周辺の“忠臣蔵ゆかりの場所”を巡る。

編集・文 / 川添史子
撮影 / 松竹(片岡仁左衛門・尾上松緑・片岡愛之助の泉岳寺お参り)、櫻井美穂(泉岳寺駅周辺ツアー)
協力 / みなとロケサポ(泉岳寺駅周辺ツアー)

泉岳寺駅近辺の「忠臣蔵」ゆかりツアー

片岡仁左衛門、尾上松緑、片岡愛之助が泉岳寺にお参り

おのおの方、討入りでござる──3月の歌舞伎座では「仮名手本忠臣蔵」が好評上演中。なんせ歌舞伎座での通し上演は、2013年の新開場柿葺落公演以来……待ちかねたぞ! 忠臣・大星由良之助の決意、塩冶判官の無念、お軽勘平の哀れ、幾重にも重なる別れと愛。通しだからこそ立ち上がる物語のダイナミズムを味わえる、至福の月がやってきた。

2月中旬には、今月由良之助を演じている片岡仁左衛門、尾上松緑、片岡愛之助が、墓参・法要を行った(参照:片岡仁左衛門・尾上松緑・片岡愛之助が泉岳寺へ、大石内蔵助の墓前で手合わせる)。取材会で仁左衛門は忠臣蔵について「緊張感もありますし、役者にとって特別な思いがあります」と語った。この“特別な空気”は観客も同じ。例えば四段目では、客の出入りを止める“通さん場(とおさんば)”で厳粛な空気が漂う中、客席も今まさに塩冶判官の切腹に立ち会うような雰囲気を体感するだろう。同段では、こちらから見えない襖の裏で、義士を勤める役者がずらり並んで平伏しているとも聞く。

今作のもとになったのは、元禄15年(1702年)旧暦12月14日、大石内蔵助(劇中では由良之助)ら赤穂浪士四十七士が吉良邸に討入り、主君である浅野内匠頭(同 塩冶判官)の敵・吉良上野介(同 高師直)を討ち取った赤穂事件。浪士たちは吉良の首を、泉岳寺にある亡君の墓前に供えて報告した。

今月は“泉岳寺でも会いましょう”!

さてこの泉岳寺、歌舞伎座のある東銀座から都営地下鉄で10分程度なのをご存知だろうか。今月の「歌舞伎座で会いましょう」はいつもと少し趣を変えた番外編。観劇と合わせて“泉岳寺散歩”をご提案する、いわば「泉岳寺でも会いましょう」! 劇場の外でも、「仮名手本忠臣蔵」にどっぷり浸る月といたしましょうぞ。

都営地下鉄浅草線・泉岳寺駅から徒歩3分。地下鉄出口を出てしばらく右方向へ歩くと、趣のある中門が見える。門をくぐると“泉岳寺”の額を掲げた山門があり、本堂手前を左方向へ。すると浅野内匠頭が切腹した際に血がかかったと伝えられる、「血染めの梅 血染めの石」が置かれている。これは田村右京大夫の上屋敷の庭から移されたもの。そばには浪士が本懐成就後、吉良の首を洗ったという「首洗い井戸」、大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていたと伝わる「主税梅」なども。左手には討入り300年を記念して建てられた「赤穂義士記念館」。館内には、内蔵助の手紙や吉良の御首みしるしの受取書も置かれている。なんと義士連名書状もあり、これは討入り当日12月14日に書かれたもの。年表や映像コーナーもあるので、事件の経緯をまずここで頭に入れてから、境内散策をするのもオススメだ。記念館では討入りで義士が実際に身につけた装束も展示。赤穂浪士といえば袖に山形模様、いわゆる「雁木模様がんぎもよう」のそろいの羽織が思い浮かぶが、あれは芝居上の演出だとか。実際は目立たない火事装束だった。吉良を一突きで絶命させたという間光興、通称“一番槍の間十次郎”の遺品である木刀には「人を殺せば、死なねばなりません」と刻まれている。記念館の向かい側には浪士の木像を展示する木像館も。仇討ちに行けず切腹した萱野三平(早野勘平のモデル)の顔だけが青白いのもぜひチェック(注:ちょっと怖いデス)。

四十七士のお墓がずらり……

さていよいよ墓所へ。階段を上がると浅野内匠頭と正室遥泉院の大きな墓石。ここに隣接するのが浪士たちの墓だ。内蔵助と息子の大石主税の墓は屋根が目印。それにしても、ずらっと並んだ墓を見ていると、これだけの人たちが命を散らしたことに改めて慄く。堀部安兵衛は映画「決闘高田の馬場」などで知られる人気者。立ち会い前に酒を升で一呑み……講談などで腕が立つ大酒呑みのキャラクターで描かれることから、墓前には酒が供えられることも。最年少の主税(没年16歳)の墓にはお菓子を供える人もいて、しんみり。四十七士で唯一人、切腹せずに生き延びた寺坂吉右衛門(寺岡平右衛門のモデル)は、死後ここに供養墓が建てられた。

ちなみに浪士一行は仇討ち後、吉良邸近くの両国橋に集合、明け六つ(午前6時)に出発し、五つ半(午前9時)ころに泉岳寺に到着したと言われている。その道すがら、店先で甘酒などを浪士にふるまった者もいたとか。内蔵助は亡君の墓前へ報告の後、使者を幕府の大目付に送り、事件のあらましと自首の意思を伝えたそうだ。幕府の使いを泉岳寺で待つ間、寺から義士に粥や茶などが供されたとも伝わる。

戦いを終え、死を覚悟した男たちは、最後に何を語らったのだろう……そんな想像を巡らせながらお寺の風景を眺めるのも一興だ。今「仮名手本忠臣蔵」を上演することは、レクイエム(鎮魂歌)なのかもしれない。ちなみに、討入りを果たした12月14日には「義士祭」が行われ、今も毎年多くの人が訪れる。