
あの人に聞くデビューの話 第11回 前編 [バックナンバー]
音楽嫌いだった鄭東和少年はいかにしてミュージシャンTOWA TEIになったのか?
YMOとの出会い、坂本龍一との交流、留学先NYでの波乱万丈の日々
2025年6月10日 19:00 84
音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く「あの人に聞くデビューの話」。この連載では多種多様なデビューの形と、それにまつわる物語をじっくりと掘り下げていく。第10回のゲストは、自身13枚目のソロアルバム「AH!!」を3月に配信、6月6日にアナログ盤でリリースした
取材・
昨年、ソロデビューから30年を迎えたTOWA TEI。世界に衝撃を与えたDeee-Liteのメンバーとしてのデビューから数えると今年で35年。ニューヨーク在住時代のエピソードは、誰もが驚く体験だらけだったことは折に触れて本人の口から語られてきたが、改めて「デビュー」というテーマでその時代の話を聞くことにした。子供の頃は音楽嫌いだった鄭東和少年がYMOに触れ、やがてバンドで世界デビューを果たし、ソロミュージシャンTOWA TEIになるまで。そこには偶然と強運、そして80年代後半の音楽やカルチャーと併走した青春があった。あまりに話が面白すぎて予定時間もオーバーしたインタビューを濃密な前後編でお送りする。情報量は多いが、語り口はあくまで軽い。まるでTOWA TEIの音楽と同じようなグルーヴが人生にも言葉にもあった。
幼少時の夢はマンガ家
──子供の頃は自分の将来をどう思い描いてました?
僕は4人兄弟の長男なんです。生まれたのは川崎。父親は設計の仕事をしてたんだけど、当時はまだ東大の大学院生として丹下健三さんの事務所の横にあった坪井善勝研究室で学んでいたんです。丹下さんが設計した代々木体育館の屋根とかを坪井先生のチームが構造計算してアシストしていた。父もその仕事に関わっていたんです。でもまだ大学院生で貧乏だったから、子供だった僕には、父が使っていた青焼き図面を祖母がノートサイズくらいに切ってホチキスで止めてくれたのがノート代わりでした。それにウルトラマンや仮面ライダーの絵を描いてましたね。パクリというかコラージュというか、自分で考えた「ウルトラマンX」とかのキャラをひたすら描いていた。模写はあまりしなかった。最初からいじってましたね。
──それって、のちのサンプリングの原点みたいな。
そうですね。当時は、将来何になるのか聞かれたら「マンガ家」と答えてました。さらにその後、カラフルな粘土で仮面ライダー的なものとか作るようになって。GIジョーのプラモデルを火で炙って溶かして、それを加工して仮面ライダーにしたりとか。器用だったんですよ。あれを友達に「すごいな!」って言ってもらえたのが、物作りで初めてリスペクトされた瞬間だったかな。でも、自分の進路が美術系になるとは思わなかった。漠然とマンガ家になりたかったんです。あと変身好き。僕自身、今も変身好きなんだろうね。人前に出るときにサングラスしてたり。だからまあ、今も変わってないというか。でも、当時の僕は音楽が嫌いだった。
──え?
音楽の授業も嫌いだった。高校受験のランクも音楽のせいで下げたくらいで。
──嫌いというのは具体的には?
音痴だったから。今もですけど(笑)。でも宿命というのかな。ことあるごとに僕の人生に音楽がぶっこまれてくるんです。高校に進学したら、書道と音楽と美術のどれか1科目を選ばなきゃいけなかったから、当然、美術にしたんですよ。美術は5段階評価で、いつも5だったんで。だから第2希望を書くときも「書道はないな」と思って音楽にしたんです。そしたら、なんと音楽選択にされてしまった。「なんでですか?」って先生に聞いたら「第2希望を書いてるのが、お前しかいなかったから」って(笑)。ここで教訓を1つ、「第2希望は書くな」って話ですね(笑)。音楽の授業がまたキツくて、サボったりしてギリギリ及第点でしたね。
YMOとの運命的な出会い
──そんな音楽嫌いのテイさんの人生に、突然Yellow Magic Orchestraが現れます。
YMOは中学の終わりぐらいに好きになりました。周りはみんな、風とかイルカとか、フォークやニューミュージックを聴いてた頃です。
──YMOとはまったく違う。
そうそう。中2の学年末に町田まで模擬試験を受けに行った帰りに、駅ナカにあるレコード屋さんでYMOのビデオが流れてたんですよ。これはちゃんと当時のYMOのスタッフに裏を取ったんで間違いないんですけど、最初の海外ツアー(1979年の「Trans Atlantic Tour」)から帰ってきた彼らの凱旋ライブかな、ダイジェストの映像を作って店頭で流してたんですよね。タイミング的には2ndアルバムの「Solid State Survivor」が出た頃で、まだ日本中がYMO人気でドッカーンってなる前でしたね。メンバーは人民服で、「タンス」と呼ばれていたでっかいムーグがステージに置いてあって、何より音がカッコよかった。YMOとの出会いは、本当に雷に打たれたような感覚でしたね。
──当時、全国のどこの店にもビデオ再生機があったわけじゃないでしょうから、たまたま数店舗の1つに選ばれてたんでしょうね。すごい偶然。
それまでは音楽嫌いだったから、レコ屋とか行ったことなかったのに。翌日、学校に行っても、あれがなんだったのか気になってしょうがないわけです。それで放課後に、もう一度レコ屋に行って「チッチキチッチキっていってる中国人のレコードください」って店員さんに言って、レコードを買って走って家に帰った。店で聴いたのに比べてテンポが速いなと思ったら、33回転のLPレコードを45回転で聴いてたんですよ(笑)。それぐらい音楽音痴だった。
──笑っちゃいけないけどリアルです。
僕はお年玉を全部インベーダーゲームで使っちゃうような子供だったんです。だけど、このレコードを聴いてればピコピコ言ってるし、もうゲームにお金を使わなくていいなと思った(笑)。YMOは、ほかにもアルバムを出してるとわかって(1978年の1stアルバム「Yellow Magic Orchestra」)、そっちには、もろにインベーダーゲームの音をシミュレーションした曲(「コンピューター・ゲーム “インベーダーのテーマ”」)が入ってた。それから、仲のいい友達に「これ聴いてると勉強がはかどるぜ」みたいな感じでYMOの布教活動を始めたんです。
──そして、この出会いをきっかけに音楽嫌いだったテイさんがレコードを買い始めた。
正確には、最初に買ったのはYMOじゃないんですよ。短波ラジオを作るのにハマってたから部品を買いに秋葉原にはよく行ってて、あるとき「ソウル・ドラキュラ」と映画「コンボイのテーマ」のドーナツ盤を中古で買った。2枚で500円だったから。
──そのチョイスもすでにテイさんっぽい(笑)。
そう。買った理由は安かったのと、単にジャケ買いでしたけど、のちに両方ともDJでかけた。あとで知ったけど、「コンボイのテーマ」はティン・パン・アレーのメンバーが演奏で入ってるんです。
──アレンジは松任谷正隆さんですね。
「ソウル・ドラキュラ」を買ったのは、親戚のおじさんからの影響もありましたね。料理人をやってたおじさんがソウルミュージック好きだったんです。僕がYMOにハマったときも「Tighten Up」のオリジナル盤(Archie Bell & The Drells)を持って来てくれて、「トウワの好きなYMOがカバーしてるのはこの曲だぞ」って教えてくれたり、CHICの「おしゃれフリーク」とか「グッド・タイムズ」とか、いろいろ勧めてくれた。それもDJにつながっていくんだけど。YMOの電子音と、おじさん経由で知ったディスコミュージック、そこが音楽の入り口でしたね。
自作音源が坂本龍一の目に留まる
──YMOとの出会いを機にテイさんの音楽人生が急速に拓けていきます。高校では自作音源でローランドのコンテストに応募して。
そこから展開が早いですよ。高校に入って、KORGのMS-10という単音しか出ないシンセサイザーを買った。お祝いとかお年玉だけではちょっと足りなくて短期集中で同級生と一緒に新聞配達しました。朝方、犬に追いかけられたり、面白かったな(笑)。MS-10を手に入れてからは、秋葉原で買ってきた安いマイクをぶっこんで、マイクから拾った「あー」とかいう声をフィルターでくぐもらせたりしてましたね。あと、親が出掛けてる日に風呂場に水を張って、水を叩いたり。そういう音を録音してた。当時「ロッキンf」という雑誌に載っていた「ピンポン録音をしてみよう」という特集を頼りにしてね。でもMS-10は和音が出ないから、YMOのサウンドからは程遠い。それでYAMAHAのポータサウンドという4音くらい和音が出るミニキーボードと、安いリズムボックスも買ったのかな。それで曲らしきものを作った。その音源をダメ元でローランドのコンテストに送ったんです。今聴いたら死んじゃうくらい恥ずかしいと思う……いや、逆に面白いかもしれないな(笑)。
──そのコンテストには審査員に
当時は冨田勲先生のことも知らなくて。賞品でローランドの機材がもらえたから、完全にそれ目当てですね。結果的に、僕は冨田先生が急遽用意してくださった「アイデア賞」を受賞しました。最初に作った曲でいきなり賞を取ったんです。その景品でTR-606というドラムマシーンをもらいました。そこから先は、KORGのPOLY-800という和音が出るシンセを買い、多重録音できる機材も買って曲を作るようになった。で、僕の名前が初めて世に出た、坂本龍一の「サウンドストリート」の話にやっとたどり着く(笑)。
──1980年代にNHK-FMで毎週放送されていた人気番組でした。
浪人生のとき、高校時代に作っていた音源の中から3曲をカセットにダビングして、坂本さんの番組に送ったわけですよ。ある日、ひさしぶりに予備校に行ったらみんながパチパチパチパチって拍手してくれるから「どうしたの?」って聞いたら、昨日の坂本龍一の「デモテープ特集」で2回もかかってたじゃんって。僕、その日たまたま聴いてなかったんですよ。
デザイナーデビュー~立花ハジメとの出会い
──テイさんの音源の記念すべきラジオデビューを本人は聴いてなかった。その後もテイさんのデモテープは番組で何度かオンエアされましたよね?
武蔵美の短大に入ってからも曲ができるたびに番組に送って、全部で3回くらいオンエアされました。毎週全国からすごい量のデモ音源が届いてたけど、坂本さんは全部聴いていたと言ってましたね。初めて本人と会ったのは、ナム・ジュン・パイクがきっかけなんです。
──パイクは、80年代のビデオアートの寵児でした。
彼が日本に来て、ソニーがお金を出して坂本龍一さんとコラボするというイベントがあって、いくつかの美大にボランティア集めの声がかかったんです。その頃、僕はビデオアートを作るサークルで、カメラを持ってかわいい子の映像を撮りまくってたんですが、「やります!」って立候補しました。仕事は、ひたすらテレビモニターを運んだりする下働き。そうしたらあるとき、坂本さんが僕のところにやって来て「君、テイ・トウワくんだよね?」って声をかけてくれた。ラジオ投稿で、変わった名前だから覚えてくれたと思うんです。「今度、デモテープ特集の音源を集めたレコードを作るから君がジャケットのデザインをやりなさい。いつも送ってくれるカセットのデザインがかわいから」って。それが初めてのデザイン仕事です。
──「DEMO TAPE 1」(1986年)ですね。鄭東和名義で「Old Good Day's Workers」「Cry」の2曲が収録されています。
あのジャケットは、デザインというか今思えばコラージュですよね。カセットを送るときも、自分の顔をコピー機でびょーんって伸ばしたりしてたから、それが坂本さんの目に留まったんだと思います。デザインのギャラは7万円。最初のギャラだから覚えてます。当時、僕はちゃんとしたデザイン入稿をしたことなかったから、プロの人をアシスタントに付けてもらったんですよ。そしたら、
──いきなりすごい状況に。
その頃、僕は学校に行かないでソニーでバイトしていて。ソニーには当時で何千万円もするコンピューターグラフィックスの機材や高性能のプリンターがあったので、「DEMO TAPE 1」のジャケットはそれを使ってコラージュしたんですよ。送られてきたデモテープの山を写真に撮って、ガビガビに加工したり、ビットマップにしたり。それを見たハジメさんが「何これ? 誰が作ったの?」となって、「今度『アルバイトニュース』という雑誌のグラフィックをやるんだけど、ソニーで素材をプリントアウトしてきてくれない?」とお願いされて。ソニーの人たちも「え? 立花ハジメ? どうぞ使ってください」という対応でした。で、「アルバイトニュース」のポスターができた。ハジメさんがピノキオになってるポスターです。ハジメさんのビデオ素材から僕がいいと思うところをピックアップしてプリントアウトしてきた。そしたら、今度は奥村さんがそれを見て、「ニューロマンサー」という書籍の表紙用にコラージュ素材をプリントアウトしてくることになって。
──すごいですね。
ビギナーズラックです。本当に。
──でも、プリントアウトする場面を選ぶのはテイさんですからね。センスを信頼してもらえたから。
まあそうですよね。その後、短大の卒業制作で、コタツみたいなオブジェを鉄板で作って、その中にテレビを2台埋め込んだんですよ。「ステレオテレビ」と名前を付けて。そしたら、それを見た坂本さんに、「事務所を引っ越したから、うちのAVラックをこういう感じで作ってくれない?」って言われて、自作のAVラックを納品しました(笑)。それで30万もらったかな。
──事務所の棚製作まで!
あと、コスモ証券のCMのコンペがあって、後にも先にもコンペに曲を出したのは、それが最初で最後なんだけど、プロの人たちに勝って、僕の曲が採用されたんですよ。自分で弾いたデモテープのピアノの音があまりにも稚拙だったから、「プロのピアニストを呼んできてもらえませんか?」とお願いしたら、来たのがなんとコシミハルさんだった。「えー!」って引っくり返りそうになりましたよ。ミハルさんは覚えてないと思うんですけど。とにかく、この時期は謎な仕事が続きましたね。
──でも、その後にとって重要な出会いが続いています。
ただ、武蔵美の短大を卒業してから4年制に編入するつもりだったけど、その試験に落ちちゃったんです。その後フラフラしてたんだけど、父親に「海外の大学を出てこい」と言われて。ロンドンとニューヨークで悩んだんですけど、ニューヨークなら、バスキアもウォーホールもラウシェンバーグもキース・へリングもいるし、日本で知り合ったナム・ジュン・パイクさんと弟子のポールもいるなと思って。それくらいのユルい考えでニューヨークに行きました。もし大学の編入試験に受かってたら、行ってなかったかもしれないですね。
NYの大学に留学するも毎晩クラブ活動
──87年に渡米して、ニューヨークで入学したのはグリニッチ・ヴィレッジにあるパーソンズ美術大学。
ニューヨークでは、僕より先に行っていたテッちゃんという友達の家に、とりあえず転がり込みました。そこがまたひどいところで(笑)。部屋のオーナーは、日本人のヒッピーのおばちゃん。隣の部屋に住んでいたのは、自称「クラフトワークの親戚」のドイツ人でした(笑)。あるとき学校から帰ってきたら、住んでた建物がバリケードで封鎖されてた。ポリスに拙い英語で「What’s happen?」って聞いたら、2階の住人が全員殺されたって。
──えええ?
皆殺し。チャイニーズマフィアの抗争だったみたい。僕らの部屋は3階だったんですけど、テッちゃんは次の日の朝、中華街に行って新聞を何紙も買ってきて「うちが載ってる!」って喜んでました。「お前、スクラップしてる場合じゃないよ。うちらも早く帰ってきてたら殺されてたかもよ」って(笑)。
──ニューヨークではちゃんと大学には通ったんですか?
行かなかったですね。クラブ活動が忙しくて(笑)。ニューヨークに行く前から僕はヒップホップにハマってたし、毎晩遊びに行ってたから。一番好きだったのは、14丁目の7番通りと8番通りの間にあったネルスという店。ちょうど僕が行った頃にできたばかりのお店でした。そこはちょっと品のいいブラックの人たちが遊びに来てた。ネルっていうおばちゃんの店で、センスのいいキレイな黒人の女の子やロンドンから来た白人がDJをやっていました。
──80年代後半のニューヨークはアンダーグラウンドなクラブシーンもすごくカッコいい雰囲気だったでしょうね。
レコードもたくさん買ってました。大学の近くに中古レコード店があったし、タワレコにも行ってた。電車もタクシーも乗らず、ウエストサイドでレコードを買ってイーストサイドまで歩いて戻ってくる。さっきの店のほうが1ドル安かったなとか思って、またウエストサイドのお店まで戻ったり。体力アリ、お金ナシって感じですよね。昼間にレコードを買って、夜はクラブに遊びに行って、DJがかけてる曲で気になるものがあったらブースまで行って「What’s this?」ってがんばって聞いてた。今みたいにShazamとかないから。そういうときに、ちゃんと教えてくれたのがフランキー・ナックルズ(ハウスミュージックの源流を作ったシカゴ出身のDJ / プロデューサー)。才能がある人は、だいたいイイ人ですよ。逆に言うと、イヤなやつは長く業界にいられない。話が逸れちゃった(笑)。
──テイさんが自分でもDJを始めたきっかけは?
クラブに通ううちにDJになりたいと段々思うようになってきて。テッちゃんの部屋にいるとき、別の友達が3カ月くらい居候していたんですけど、彼がターンテーブルのセットを買った。部屋を出るときにそれを家賃代わりに置いていってくれたんです。それで自分でもDJミックスができるんじゃないかと思って試しにやってみたら、できるじゃん、みたいな。そのとき作ったミックステープがきっかけで、88年には自分でもDJするようになりました。ここから先が、Deee-Liteのデビューにつながる話になっていきます。
<後編に続く>
TOWA TEI(テイ・トウワ)
1990年に Deee‐Liteのメンバーとして、アルバム「World Clique」で全米デビューを果たす。94年のDeee‐Lite脱退後は、ソロ活動に加え、変名ユニットのSWEET ROBOTS AGAINST THE MACHINEでの作品リリースや、高橋幸宏や小山田圭吾らとのバンドMETAFIVEへの参加など多彩な音楽活動を展開。また、東京・青山にある INTERSECT BY LEXUS -TOKYOの店内音楽監修、NHKドキュメンタリー番組「草間彌生 わが永遠の魂」の音楽、YMO結成40周年アルバム「ノイエ・タンツ」企画監修デザイン、細野晴臣50周年記念ドキュメンタリー映画「NO SMOKING」および「SAYONARA AMERICA」のキービジュアル制作、さらに高橋幸宏のベストアルバム「GRAND ESPOIR」のアートディレクションを五木田智央とともに担当するなど、クリエイターとして幅広く活躍している。昨今では2024年10月からMUJIの店内音楽監修を務めるほか、2025年4月からBillboard Liveのテーマ楽曲を担当している。2025年3月に13枚目のソロアルバム「AH!!」をデジタルリリース、6月6日にはアナログが発売された。
TOWATEI
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※記事初出時、本文に誤りがありました。お詫びして訂正いたします。
- 松永良平
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1968年、熊本県生まれの音楽ライター。大学時代よりレコード店に勤務し、大学卒業後、友人たちと立ち上げた音楽雑誌「リズム&ペンシル」がきっかけで執筆活動を開始。現在もレコード店勤務の傍ら、雑誌 / Webを中心に執筆活動を行っている。著書に「20世紀グレーテスト・ヒッツ」(音楽出版社)、「僕の平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」(晶文社)がある。
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