中田裕二の音楽履歴書

アーティストの音楽履歴書 第48回 [バックナンバー]

中田裕二のルーツをたどる

「新しさをつかみたい」チャゲアスやイエモンに感化された少年が椿屋四重奏サウンドを生み出し、ソロで思いを解放するまで

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アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回は、かつて椿屋四重奏のフロントマンを務め、今夏限定で“椿屋四重奏ライブ”を開催している中田裕二のルーツに迫る。椿屋四重奏の持ち味であった歌謡曲を取り入れたサウンドや、ソロ転身後、さらに自由度を増している音楽性の源流とは。

取材・/ 久保田泰平

CHAGE & ASKAの歌詞を噛み締める小学生

小学校に上がる前ぐらいの頃、「ものまね王座決定戦」(フジテレビ系)を観るのが大好きで。放送は夜9時近くまでやっていたので、VHSに録画したものを兄貴とよく観ていたんです。その番組で衝撃だったのが、栗田貫一さんがものまねしてたチャゲ&飛鳥の「モーニングムーン」。とにかく曲がカッコいいなと思ってね。なんか、それまで聴いてた歌謡曲とかアイドルの曲とは違うぞこれは!って。クリカンさんがめちゃくちゃ鼻声を強調して歌ってたから、余計に独特なものに聞こえたんですよね(笑)。本家を知らずにものまねでその曲を知ったんですが、そこからチャゲ&飛鳥ってどういう人なんだろうと興味を持ちました。「ものまね王座決定戦」はめっちゃ好きで、“ものまね四天王”と言われていたコロッケさん、清水アキラさん、栗田貫一さん、ビジーフォーがやっていた「ものまね珍坊」(1989年から1992年までフジテレビ系で放送)っていう番組も楽しみに観てましたよ。当時は自分でも、ものまねしたりして……たかな。美川憲一とか(笑)。

10歳の頃。

10歳の頃。

親がカラオケ好きだったので、小学生のときからカラオケスナックによく連れられて、歌わせられたりしてましたよ。歌ってたのは全部大人の歌。五木ひろしとか、いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」とか。お店の人に「うまいねえ」なんて言われてね。たぶん、本当にうまかったと思うんだけど(笑)。

初めてCDを買ったのは10歳のとき。CHAGE & ASKAの「僕はこの瞳で嘘をつく」と「SAY YES」が入ってるアルバム「TREE」(1991年発表)ですね。そのあとに「SUPER BEST II」(1992年発表のベストアルバム)も買ってもらって、この2枚はとにかくずっと聴いてたし、歌詞も読み込んで、歌ったりもしました。歌詞を噛み締めて「大人だなあ……」と思いながら。まあ、恋愛の歌が多いので、小学生の僕はよくわかっていなかったですね(笑)。「恋人はワイン色」とか、ソロになってからカバーさせてもらいましたけど(2014年発表「SONG COMPOSITE」収録)、子供だった当時は「好きな子とこういうシチュエーションだったら……」みたいなことを想像しながら聴いてました(笑)。なまじ子供の頃からこういった音楽を聴いてしまったがために、その後の自分の音楽の趣味趣向だけでなく恋愛観にまで影響を受けてますね。人一倍“型”みたいなものに囚われるというか「男には色気がないとダメだ」みたいな、過剰にロマンを求める感じ。

13歳の頃。

13歳の頃。

THE YELLOW MONKEYの“美輪明宏的”世界観に衝撃

1つ転機になるのが、中学校に上がった頃。相変わらずチャゲアスは大好きでしたけど、その頃流行ってたMr.ChildrenDREAMS COME TRUE、ビーイング系のヒット曲も普通に聴いていて。友達とカラオケに行って、どれだけヒット曲を知ってるか、みたいなところで盛り上がってましたね。ミスチルの「Tomorrow never knows」(1994年発表)とかB'zの「Don't Leave Me」(1994年発表)とかをよく歌ってて、友達から「うまいねえ~」って……うん、うまかったと思う(笑)。で、その頃父が「ボーナスで何か買ってやるよ」と言うので、ギターを買ってもらったんです。本当に欲しかったものはパソコンのメモリだったんですが、当時は2MBで5、6万円したので、父が「そんなちっちゃいものでそんな高い値段のものは買いたくない、楽器でも買ったらどうだ」と。父は若い頃にドラム叩いてたらしいんで、楽器には理解があったんですね。僕は最初は「えー」って言ってたんだけど、歌うのはもともと好きだし、楽器を持って歌ったり、自分で曲を作れたりしたらカッコいいかもと思ったんですよね。女の子にモテたい時期だったし(笑)。それで、メモリを買うのは完全にあきらめて、ヤマハのエレアコとアンプを買ってもらったんです。当時、チャゲアスがヤマハのアコギを使ってたんで。

ギターを弾き始めた14歳の頃。

ギターを弾き始めた14歳の頃。

ギターを買ってもらってから、さっそく作曲を始めました。コピーするよりもオリジナルの曲が作ってみたくて、まずは4つぐらいコードを覚えて。恋愛の曲が作りたかったんですよ、恋愛知らないのに(笑)。その頃、兄貴の影響でAerosmithとかMotley Crueとか、ぼちぼち洋楽も聴き始めていて。ゆくゆくエレキギターが欲しくなり、MTRと一緒に買って宅録みたいなことを始めました。14歳のときにはそれなりのデモテープを作ってて、椿屋四重奏の「薔薇とダイヤモンド」というアルバムに入ってる「朱い鳥」という曲の原型は15歳のときに作ったものです。

16歳の頃。アルバイトをしていた時代。

16歳の頃。アルバイトをしていた時代。

エレキギターのディストーションの歪んだ音とかが好きになってきた矢先に、友達のお姉さんからTHE YELLOW MONKEYのCDを借りたんです。聴いた瞬間、おおっ!と思いましたね。メンバーの顔もカッコいいし、曲も独特だし、暗いし。暗いって言っても、ヴィジュアル系的な暗さじゃなくて、なんかちょっと文学的というか、“美輪明宏的”というか、妙な感じがして「これはヘンな文化に触れちゃったぞ」みたいな感じだった。イエモンきっかけで、グラムロックみたいなことをやるバンドを組みたいと思いました。それでさっそく4人組のバンドを組んで、髪を染めてメイクもして、古着屋で買ったピチピチの柄シャツを着て、ベルボトム履いて。その流れでデヴィッド・ボウイやT.Rexも聴くようになりました。で、バンドが楽しくなるのと同時に、もう学校に行くのに興味がなくなっちゃって、中学3年のときはたぶん80日ぐらいしか学校に行ってません。それで卒業前に担任の先生に「高校行かずに音楽やりながら働きたい」って相談したら、バイト先を斡旋してくれたんです。先生が行きつけの飲み屋さん。

引きこもり時期を経て仙台へ、椿屋四重奏の始まりは路上の出会い

バンドメンバーはみんな高校に進学して、それでもしばらくは一緒に続けていたんだけど、やっぱり学業優先なので1人抜け、2人抜けっていう感じで、結局ひとりぼっちになっちゃって。そんな頃、父親の出向で僕以外の家族が仙台に引っ越したんですよ。僕は熊本に残ってもうちょっとバンド活動をがんばりたいと言って、一人暮らしを始めました。1年半ぐらいかな。その間に引きこもりになっちゃってね。引きこもり中には本をたくさん読んだり、曲を作ったり、深夜ラジオもよく聴いてた。NHKの「ラジオ深夜便」は中3の頃から聴いてたけど、そこで特集されていた昔の洋楽とか、グループサウンズとか、そういうものがすごく自分にフィットしたんです。同世代の人とは違う流行というか。この頃から「世の中と合わないな」と思い始めて現在に至りますね(笑)。それでまあ引きこもっているうちに、曲を作っても外に出ないと人に聴いてもらえないという単純なことに気付き、熊本にいても埒があかないだろうと親に言われ、18歳のときに仙台に引っ越しました。

16歳の頃の中田裕二(中央)。左端は、のちに椿屋四重奏メンバーとなる永田貴樹(B)。

16歳の頃の中田裕二(中央)。左端は、のちに椿屋四重奏メンバーとなる永田貴樹(B)。

仙台ではコンビニでバイトしながら、バイト先の楽器やってる仲間と一緒にスタジオ入ったりしてました。当時はRadioheadとか、あとメロコアとか流行ってたんで、そういうのがやりたいと仲間から言われて、自分はどれもちょっと違うなと思ってて。で、夜中の路上で1人で歌い始めたんです。そこで出会った子とまあ話が合って、「バンド組もう」という話になり、楽器屋さんにメンバー募集の張り紙を出してドラムを探して。そして女の子から加入希望の電話があり「よし、このメンバーでバンド組もう」となったのが椿屋四重奏の始まり。いずれ見つかったらもう1人ギターを入れようという余剰を持たせて「椿屋カルテット」と当時は名乗ってましたね。ライブハウスはまだちょっと怖かったので、最初は学生さんたちが企画してたりする野外イベントみたいなのに出てました。

18歳の頃、仙台にて。「椿屋カルテット」結成当時。

18歳の頃、仙台にて。「椿屋カルテット」結成当時。

その頃、The Policeにも影響を受けていて、「ああいう洋楽のサウンドに日本人らしい歌詞を乗せた音楽をやりたい」みたいなことを考えてたんです。そんな中でバンドのMVを紹介している仙台ローカルの深夜テレビ番組で知ったのが、eastern youthNUMBER GIRL。日本語をすごく面白く使っている、すげえ人がいる!と思ってこの2組にはけっこう影響を受けたし、ライブにも行きました。

心に再び火を付けてくれた「安全地帯II」

仙台に住んでいる頃に、とあるメジャーのレコード会社の新人開発セクションの方と知り合いになりまして。その人が東京に戻るからって、その人を頼りにして僕もバンドメンバーと一緒に上京したんです。それが20歳のとき。最初の2年近くは全然パッとしませんでしたね。例のレコード会社の人がバンド活動の面倒を見てくれてたんですけど、その人が原宿、高田馬場、池袋とかでライブをブッキングするんですよ。地域と音楽性が合っていなかったんだと思うんですけど、お客さんが全然増えないので、バンドのメンバー(ベースの永田貴樹、ドラムの小寺良太)が固まった頃に「すみません、下北沢とかで活動したいんで」って、その人とは離れました。

中田裕二(中央)21歳の頃。左が永田貴樹(B)、右が小寺良太(Dr)。椿屋四重奏オリジナルメンバー3人がそろう。

中田裕二(中央)21歳の頃。左が永田貴樹(B)、右が小寺良太(Dr)。椿屋四重奏オリジナルメンバー3人がそろう。

なんかね、「下北沢でやったら売れるんじゃねえか」みたいな自信があったんですよ。そしたら案の定、「すげえ変なバンドがいるぞ」と噂になったみたいで。レーベルの人とかもライブを観に来るようになったんだけど、個性がありすぎたのか、なかなか契約しようと手を挙げてくれるところがなかったんです。で、ようやく声をかけてくれたのがUK.PROJECTでした。そのときには自分たちで焼いてたCD-Rを下北沢のハイラインレコーズっていうインディ専門のお店で取り扱ってもらってまして。今はNothing's Carved In Stoneで叩いてる大喜多崇規さんが当時ハイラインレコーズの店員で、いつもよくしてくれてたんです。で、「ハイラインチャート」(スペースシャワーTVの番組「ハイラインカウントダウン」で紹介されていた、ハイラインレコーズ制作のランキング)でけっこう上位に行くようになって。2003年にUK.PROJECT(DAIZAWA RECORDS)から出た1stミニアルバム(「椿屋四重奏」)は、予想以上の8000枚くらい売れましたね。

ミニアルバムが予想以上に売れて、非常に幸先がよかったんですが、8カ月後に1stフルアルバム「深紅なる肖像」を出したあと、ちょっと行き詰まっちゃったんです。「やべえ、曲ができない! このままだと終わるぞ」と思って。そのとき、心に再び火を付けてくれたのが安全地帯の「安全地帯II」(1984年発表のアルバム)。話をさかのぼると、仙台に住んでた頃のある日、父親がカーステレオで「安全地帯II」を流してたことがあったんです。安全地帯はちっちゃい頃から父親がよくレコードをかけてたので親しんでたんだけど、そのとき改めて「すげえいいな」と思って、こういう音の、こういう世界観の音楽がやりたいと思った。そのときの興奮がね、またよみがえって爆発したんですよ。「こういう色っぽい、二枚目な音楽をやりたい」と思い、見た目に関しても髪を伸ばし始めてイメチェンしました。そこからだんだん理想の、二枚目な音楽をやっていく……って言っても、無理してやってましたね。性格がもともとそうじゃないから(笑)。そのくせ憧れは強かったんで、ステージからバラを投げてみたりとかしてました。

ギター安高拓郎(右端)が加入し、4人体制となった椿屋四重奏。

ギター安高拓郎(右端)が加入し、4人体制となった椿屋四重奏。

2008年12月、東京・赤坂BLITZで開催された椿屋四重奏のライブの様子。

2008年12月、東京・赤坂BLITZで開催された椿屋四重奏のライブの様子。

80年代の陽水さんみたいな自由なスタンスで

椿屋ではインディで約4年、それからメジャーに移って4年近く活動して。メジャーでの3枚目、最後のアルバムを出すときにはもう、ギター中心のロックバンド形態でやるっていうことに限界を感じてましたね。打ち込みとかも始めてたし、「シンデレラ」(2009年のアルバム「CARNIVAL」のリード曲)ぐらいから「ポップスがやりたい」「ブラックミュージック的な要素も忍ばせたい」などと思うようになりました。その頃、めちゃめちゃ聴いてたんでね。椿屋でもやりたいことには挑んでたんですけど、コーラスをもっと厚くしたいとか、曲作り自体がロックバンドのフォーマットで考えられなくなっていました。

椿屋四重奏ラストツアーより。

椿屋四重奏ラストツアーより。

ソロになってからその思いを解放して、やりたいことを突き詰めようとしています。Original Love田島貴男さんの作品づくりは参考にしてましたね。Original Loveは「Desire」(1996年発表)というアルバムを発売当時よく聴いていました。田島さんはアルバムごとに違ったアプローチをされていて、その姿勢を見習いたいと感じたんです。

2011年、ソロ活動をスタートした中田裕二。

2011年、ソロ活動をスタートした中田裕二。

ソロになってからはホント、リスナーとしてものすごくたくさんの音楽を聴くようになって。それこそシンガーソングライター系の人、ジェームス・テイラーとかね。あとはAORだったりクラシックソウルだったり。トム・ウェイツなんかは昔から好きだったけど、彼に憧れてピアノの練習を始めたりしました。そういった音楽をひと通り聴いてきて、最近よく聴くのはジャズですね。ビル・エヴァンス、チェット・ベイカー、アート・ファーマー、マイルス・デイヴィス……そのあたりをひたすら。リスナーとしてはそんな感じなんですけど、それを自分の音楽でまんまやろうとは思ってなくて。ソングライターとしては、またちょっと新しい感じをつかみたいなと思っているところなんですけど、なかなか参考になる人がいない。ただ、井上陽水さんのようなことはしてみたいかな。ジャンルに縛られず、全体的にちょっと大人っぽい、80年代の陽水さんみたいな自由なスタンスで活動していきたいです。

※Motley Crueの「o」と「u」はウムラウト付きが正式表記。

中田裕二を作った10曲

中田裕二(ナカダユウジ)

1981年生まれ。熊本県出身。2000年に宮城県仙台にて椿屋四重奏を結成する。2003年にインディーズデビューを果たし、2007年にはメジャーシーンへ進出。歌謡曲をベースにしたサウンドでファンを獲得したが、2011年1月に突然の解散を発表した。同年3月に楽曲「ひかりのまち」を中田裕二名義で配信リリースし、本格的にソロ活動を開始。最新作は2023年4月発表のアルバム「MOONAGE」。椿屋四重奏のデビュー20周年を記念し、2023年の夏限定で、「椿屋四重奏二十周年」の名の下に“椿屋四重奏ライブ”を開催する。

椿屋四重奏二十周年記念公演 “真夏の宵の夢”

2023年8月27日(日)東京都 昭和女子大学人見記念講堂 ※チケット完売

椿屋四重奏二十周年記念公演 “続・真夏の宵の夢”

2023年9月4日(月)大阪府 GORILLA HALL OSAKA ※チケット完売

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永田 貴樹 @uoshige

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