映画「
本作はフランス・ブルゴーニュの田舎で一人暮らしをする80歳のミシェルを主人公とする“人生ドラマ”。彼女が秋の休暇を利用して訪れた娘と孫に振る舞ったキノコ料理が引き金となり、それぞれの過去が浮き彫りになっていく。“ある秘密”を守り抜くことを決意するミシェルを
解禁されたメイキング写真には、オゾン、ヴァンサン、バラスコがキノコを囲んで話し合う姿が。物語の鍵となるこのキノコは、オゾンが幼少期の思い出から着想を得たそう。「子供の頃、叔母が自ら摘んできたキノコを料理して振る舞ったのですが、その晩、彼女以外の家族全員がひどく体調を崩しました。叔母だけが無事だったのは、彼女がその料理を口にしていなかったからです。この出来事に私は強く惹かれました。そして、あれほど優しくて思いやりのある叔母が、もしかしたら家族全員を毒殺しようとしていたのではないかと疑いました」と回想する。そして「野生のキノコを料理するとき、私たちは多かれ少なかれ無意識のうちに、誰かを排除しようとしているのではないか? その問いから出発し、一見すると理想的な優しい祖母に見えながら、実は見た目以上に不穏な一面を持つ人物を生み出しました」と語った。
ミシェルとマリー=クロードの話題になるとオゾンは「この“友情”と“姉妹のような絆”というテーマは『私がやりました』にも見られました。あちらは若い女性2人が互いに助け合う物語でしたが、今回はかつて同じ仕事、過去を共有してきた年齢を重ねた2人の女性です。私は、彼女たちがシンプルな時間をともに過ごすことの喜びを映し出したかったのです」と述懐。そして「ミシェルとマリー=クロードはまるで姉妹のようですが、明らかにどちらかがより多くの苦しみを背負っています。マリー=クロードはミシェルのような強さも、罪悪感の欠如も持ち合わせていません。彼女は現実をどう受け止めればいいのかわからず、それがまるで胃に重くのしかかるようです。彼女は息子の苦境を自分の責任だと感じ、母親としてどこで間違えたのかと自問します。一方でミシェルは『私たちはできる限りのことをしたわ』とあっさりとした口調で語ります」と伝えた。
本作でオゾンが目指したのはシンプルで穏やかな演出だという。「しかしその中に、登場人物たちが『正しさ』と『過ち』のはざまで抱える複雑な道徳的ジレンマ、そこから生まれる緊張感とサスペンスを織り交ぜました」と明かし、「何よりも、私はある年齢を超えた女優たちを映し出したいと考えていました。彼女たちの皺にこそ、人生経験と時の流れの美しさが宿っているからです。私は、高齢者が社会やスクリーンからあまりにも早く姿を消していく現状にがくぜんとしています。だからこそ本作では70代、80代の女優たちを起用しました。彼女たちは自らの年齢を誇りに思い、飾ることなく受け入れています。本作の撮影中は、よく『まぼろし』の撮影前を思い出しました。当時、主演のシャーロット・ランプリングはまだ50歳だったにもかかわらず、誰もが口をそろえて『彼女はもう歳を取りすぎている、誰も興味を持たない』と言っていたのです」と振り返った。
さらにオゾンは「私は、高齢化に伴う課題とスリラー要素を組み合わせたかったのです。作中では多くのことが明言されず、あるいは意図的に観客の想像に委ねられています。そうすることで、観る人それぞれが自分なりの物語を作り、登場人物の行動を独自に解釈できるようになっています。特にミシェルと、マリー=クロードの息子であるヴァンサンについてはそうです。ヴァンサンは刑務所を出たばかりで、『若い頃ちょっとしたトラブルを起こした』ことしかわかっていません。時として人生は意図せずに私たちのもっとも暗く深い願望を叶えてしまうことがあります。私たちは高齢者を聖人化し、理想化しがちですが、彼らもまた複雑な人生を生きてきた存在なのです」とコメント。「この映画を通じて観客に問いかけたいのは、もし身近な人が許せない行為をした疑いをかけられたとして、それを証明する確固たる証拠がなかったとしたら自分はどう振る舞うのか?その人を守るためにどこまで行動するのか?ということです。こうした問いは現在の政治的・社会的混乱を踏まえると、特に現代において切実な意味を持つように感じられます」と口にした。
「秋が来るとき」は5月30日より東京・新宿ピカデリー、TOHOシネマズ シャンテほか全国で公開される。
映画ナタリー @eiga_natalie
「秋が来るとき」フランソワ・オゾンが“不穏な祖母”の誕生経緯語る
💬私たちは高齢者を聖人化し、理想化しがちですが、彼らもまた複雑な人生を生きてきた存在なのです
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