ドキュメンタリー「
トルコ国籍のクルド人である、18歳のオザンと19歳のラマザンを5年以上取材した本作。故郷での迫害を逃れ小学生の頃に日本へやって来た2人が、いつ収容されるかわからない不安を常に感じながら、夢を抱き将来を思い描くさまが映し出される。監督の
予告編には「入管の中で死にたくない」というメッセージや、「将来が見えない」とこぼす青年たちの姿が収められた。映画監督の
「東京クルド」は7月10日より東京のシアター・イメージフォーラム、大阪・第七藝術劇場ほか全国で順次公開。
温又柔(小説家)コメント
さっさと他の国に行けって?
行けるものなら、とっくにそうするよ。
いっそ、たどり着かなければよかった。
──これ以上、この国に、絶望させられませんように。
今日もきっと、誰かが必死に耐えている。
こんな日本で、私たちはいいの?
知らないふりは、もうできない。
せやろがいおじさん(お笑い芸人・YouTuber)コメント
八方塞がりの絶望的な状況においても、僅かな希望に向かって懸命に日々を過ごしている2人のクルド人青年。
そんな2人に向けて、入管職員が放った言葉が耳から離れない。
「帰ればいいんだよ。他の国行ってよ他の国」
この言葉が象徴するのは、入管の「排除の体質」だ。入管が排除の対象にしている「人」がどのような存在なのか。この作品を通じて多くの人に見て、知ってもらいたい。
高谷幸(東京大学教員)コメント
「仮放免許可書」──入管によるたった一片の紙切れが、若者の日常生活のあらゆる側面を規定し、彼らの抱く夢、淡い期待をも蝕んでいく。彼らを追い詰めることで、この国は、そして「私たち」は、何を守ろうとしているのか。
※高谷幸の高は、はしごだかが正式表記
鴇沢哲雄(フリーライター)コメント
差別と無理解、入管行政の厚い壁…。戸惑いと絶望の中でもなお、生きる希望とクルドの誇りを捨てない若い二人。オザンとラマザン。その問いかけは私たちに突きつけられた刃のようだ。
中島京子(小説家)コメント
18歳と19歳。対称的な二人の、けれど等しく理不尽な現在に心を掻き乱される。摘み取ろうとしても、踏み潰そうとしても、明日に向かって伸びていく生のエネルギーは壊せない。彼らの未来を奪おうとする日本という国の試みは、ただひたすら残酷なだけで、そもそもの始めから失敗しているように見える。彼らに在留資格を。日本で生きていく未来を。もし、それができないのなら、滅びるのは彼らではなく、この日本だ。
西森路代(ライター)コメント
ラマザンとオザン。ふたりのクルド人の若者は、前に進んだかと思えばすぐに壁にぶつかる。彼らを立ち止まらせるのはこの国の矛盾だ。映画を見て動くべきは自分たちだと思った。
ハン・トンヒョン(日本映画大学准教授・社会学)コメント
今ここで自由を求めて格闘する2人の姿から見えてくる、この社会の不正義とこの世界の不条理。その壮絶に重ねる傲慢を恥じつつも共振してしまったのは、在留資格はあっても国のない私にも身に覚えのある理不尽さと青春の痛みがそこにあったから。
彼らも、そして大人になった私も、今ここを生きている。
今ここに生きるすべての人が見るべき、痛切な青春映画。
望月衣塑子(東京新聞記者)コメント
まだ若いオザンに入管職員は「他国へ行ってよ。帰ってよ」と平然と刃を突きつける。これが彼らの日常であり、入管対応の現実であることに怒りと絶望しかない。現在を生きる全ての日本人が観るべきドキュメンタリーだ。
森達也(映画監督・作家)コメント
帰ればいいんだよ。他の国行ってよ。入管職員が彼らに浴びせる言葉を聞きながら、僕はこの国に生まれたことが本当に恥ずかしい。苦しい。腹立たしい。観終えて思う。日本国民の半分が、いや10分の一が、いや100分の1でもいい、とにかくこの映画を観てオザンとラマザンの夢と希望を打ち砕く冷酷さを目撃したのなら、きっと気づくはずだ。入管職員は日本国籍を持つ自分たち自身でもあるのだと。
綿井健陽(ジャーナリスト・映画監督)コメント
名古屋の入管施設で亡くなったスリランカ人女性・ウィシュマさんの顔と名前を憶えている人は多いだろう。ならば、この映画に現れるクルド人のオザンとラマザン、そしてメメットの顔と名前も憶えておいてほしい。彼らが日本でどんな扱いを受けてきたのか、彼らがこれから日本でどう生きていけるか。入管の中も外も、日本社会とつながっている。
日向史有の映画作品
リンク
九条 ねぎ @naoki_satoh
申請が通らないなら帰国すれば良いだけ。
真っ当な外国人は30秒で入国できる。
入国できないのは問題のある外国人。
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