音楽ナタリー

大瀧詠一お別れ会、はっぴいえんど3人が弔辞「またね」

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2013年12月30日に永眠した大瀧詠一を偲ぶ関係者向けのお別れ会が、本日3月21日に東京・SME乃木坂ビルにて行われた。

本日は、大瀧のラストワークとなるアルバム「EACH TIME 30th Anniversary Edition」の発売日であり、1981年に名作「A LONG VACATION」がリリースされた日。その後のカタログもほぼ同日の発売だったように、大瀧が強いこだわりを持っていた日だった。また会場となったSME乃木坂ビルは、地下にレコーディングスタジオがあり、大瀧は晩年ここでほぼすべての仕事を行っていた。仕事場として思い入れのある、彼にとって東京の自宅と言っても過言ではない場所ということでお別れ会の開催地に選ばれた。

会場には、菊、蘭、ユリの花などで彩られた祭壇の上に大瀧の遺影が飾られていた。遺影は1982年(当時34歳)のTBSラジオ「ゴー!ゴー!ナイアガラ」収録時の写真が、遺族の意向によって選定された。会の初めには黙とうが捧げられ、主催者代表としてソニー・ミュージックレコーズ代表取締役の村松俊亮、フジパシフィック音楽出版会長の朝妻一郎が挨拶を行った。

その後、思い出の映像を上映。この中には、1977年6月20日に東京・渋谷公会堂で開催されたライブ「ザ・ファースト・ナイアガラ・ツアー」より「福生ストラット Part2」のパフォーマンス、1976年2月頃に福生45スタジオで撮影されたセッションなど、一般公開されていない貴重なアーカイブが多く含まれていた。

■出席者代表弔辞・遺族代表挨拶

出席者を代表して弔辞を読んだのは、はっぴいえんどのメンバーとして共に活動した松本隆、鈴木茂、細野晴臣の3人。まず松本が「はっぴいえんどが、3人になっちゃいました」という言葉から静かに話を始めた。彼は大瀧との出会いや、初めて自分の詞と大瀧の曲が合体し「春よ来い」と「12月の雨の日」ができた日のことを回想。「時代をかける12月の旅人よ、僕らが灰になって消滅しても、残した作品たちは永遠に不死だ。なぜ謎のように『12月』という単語が忍ばれていたか、やっとわかったよ。苦く、美しい青春をありがとう」と、芸術的な作詞センスを持つ松本ならではの言葉で締める。

ギター&ボーカル担当だった鈴木は、「ゆでめん」(1stアルバム「はっぴいえんど」の通称)のレコーディングを終えて朝日を浴びながらメンバーみんなで一言ふた言交わし別れたこと、アメリカに出かけてエレベーターに閉じ込められた大瀧を全員で助けたことを、柔らかく笑いながら話す。「僕がその中で一番楽しみにしていたのは、ライブ会場の楽屋で毎回新しいアレンジを考えてくる大瀧さんでした。『茂、こういうふうにギターを弾いてくれ』って言われるのがとても楽しみで、それは僕にとってとてもうれしい時間でありました。大瀧さんの魂、思いは、おそらく誰かに、あるいはどこかで受け継がれていくと思います。素晴らしい大瀧さんに会えたことを本当に感謝しています。どうもありがとう」と口にした。

最後は細野。彼は「とにかく、突然逝かれてショックでした。いなくなって初めて、自分の中に大瀧詠一という存在がずっといたんだなと思いました。なぜかと言えば、アルバムを作るたびに『彼はこれをどう聴くんだろう』と、いつもそのことを考えていて。それはいまだに謎なんですけど」と積年の思いを打ち明ける。大瀧の存在については「とても共通したところもあるし、とても違うところもある、バンドの仲間の大事な存在だなと今では痛感します。老後はのんびり細々と音楽の話をもっとできてもよかったんじゃないかなと。僕にとってそういう仲間はもう本当に残り少ない……ですね」と話した。また、細野は去年の秋、はっぴいえんどの再結成を思案していたという。「前の再結成(1985年に国立競技場で行った再結成ライブ)、あのときはぎくしゃくしてましたけど、今ならじっくりはっぴいえんどをもう一度できるんじゃないかなと思ってた矢先でした。一緒にまたやりましょう。またね」と天国の盟友へ言葉を送った。

会の締めくくりには、遺族を代表して妻の静子さんが挨拶を行い、大瀧の最期の様子を語った。亡くなる2週間前に体調を崩したという大瀧。足腰が弱り「俺、脳が疲れたよ」と言っていたため妻が病院に行くことを勧めたが、3月に仕事のひとつが終わるまで病院に行くのがもったいないと言って、その後症状は快復を見せていた。亡くなる当日の12月30日は、17時頃にスタジオから自宅に戻り、妻と日常会話をしていた。東日本大震災のことが気になっていた大瀧は、新聞を読みながら「少しずつだけど復興してるんだな」と喜んでいたという。

静子さんは「夕食前だからリンゴでも食べるかなと思い皮を剥いていたとき、突然『ママ、ありがとう!』と大きな声で言われました。そんなことを突然言われましたので、びっくりして主人のほうを見ますと、イスにもたれかかり、ぐったりしていました」と当時の様子を克明に語ってくれた。その後救急車に乗せて病院へ行っても、大瀧が息を吹き返すことはなかった。静子さんは続けて「当日会話をしたのは20分ぐらいだったと思います。今では会話のすべてが遺言となってしまいました。本来ならば、12月末は大好きな落語を聴いて、スタジオの整理、片付けをしている姿があったのですが、昨年はありませんでした。亡くなる最後に『ありがとう』と言ってくれたのは、これまで主人を支えて見守ってくださった方々、またファンの方々に私から一言お礼を述べてほしいということだったと思います。この場をお借りしまして、本当にありがとうございました」と深々とお辞儀をした。

■参列者囲み取材

お別れ会に参列した関係者は約250人。主な著名人として、甲斐よしひろ、佐野元春、サンボマスター、佐野史郎、松たか子、清水ミチコ、ウルフルズのトータス松本、ジョンB、サンコンJr.の3人、あがた森魚、泉麻人、糸井重里、杉真理、伊藤銀次、サエキけんぞう、高田文夫らの姿があった。

このうち、ナイアガラ・トライアングルのメンバーだった杉真理はマスコミ陣の取材に対し、「いろんな困難にぶつかっていっても必ず大瀧さんはユーモアで乗り切っていたような気がします。一番、大瀧さんから教わったのが『好きなことをやるのが最終的には残っていく』っていうことですね」とコメント。大瀧にかけたい言葉は?と聞かれると「僕を仲間に入れてくれて本当にありがとうございます。光栄です」と話してくれた。

佐野史郎は15歳ではっぴいえんどの楽曲を初めて聴き、以降熱心なファンに。この十数年間は年1回以上必ず会う仲だったという。彼は「音楽として一緒に演奏したということはなかったんですけれども、森羅万象型で、特に日本映画についてはとても精通してらっしゃいましたから、ときに厳しく叱咤激励していただくこともありました。そういう意味ではやはり師にあたる方だと思います」と、涙をこらえながらも笑顔で思い出を語った。

甲斐よしひろは、大瀧と公での関わりはなかったが、4、5年に一度スタジオで出くわしては長々と世間話で盛り上がっていたという仲。「大瀧さんは『好きなことはなんでもやっていいんだ』っていうことを僕らにずっと言い続けていた人だと思うんですね。お花をあげながらそんな声が聞こえて、相変わらずだなあ大瀧さんは、と思って」と話し、故人と交わした会話の数々を思い出していた。

葬式にも参列したという清水ミチコは、大瀧の存在について「音楽的な偉大な先輩。お笑いもすごく詳しかったので、昔のお笑いについてもたくさん教えてもらいました」とコメント。「大瀧さんは人を驚かすことが好きな方で、いきなり私に写真をくれたんですけど、それが私の実家の飛騨高山に今いるよっていう写真で……」とユーモラスなエピソードも披露してくれた。なお、大瀧は清水がレギュラー出演しているラジオ番組「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」のファンで、清水のライブにも足を運んでいた。

■思い出の品展示

この日、会場の地下にある「幸せな結末」や「恋するふたり」が録音されたスタジオには大瀧のゆかりの品を展示。ここには、本人所有のジュークボックス、使用したギター、「ゴー!ゴー!ナイアガラ」収録時に使用されたターンテーブル、直筆の譜面、これまで受賞した音楽賞の盾、歴代の販促ポスターなどが飾られていた。また本人の仕事部屋を再現したブースも用意され、愛用のマイク、ミキサー、天眼鏡などを関係者も興味深く鑑賞していた。

なお参列者には、会葬御礼品として式典限定ボックス仕様のアルバム「EACH TIME 30th Anniversary Edition」が配られた。

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