朝日新聞社が主催する第28回手塚治虫文化賞の贈呈式が、本日6月6日に東京・浜離宮朝日ホールで開催された。
「プリニウス」か「【推しの子】」か…拮抗した大賞の選考
第28回ではマンガ大賞に
贈呈式では、まず朝日新聞社代表取締役社長・中村史郎氏が挨拶、手塚治虫文化財団代表理事の手塚眞が来賓祝辞を述べ、選考委員の1人である学習院大学の中条将平教授が選考報告を行った。選考の場では早い段階から「プリニウス」と、赤坂アカ・横槍メンゴによる「【推しの子】」の評価が飛び抜けていたという。手塚治虫文化賞のマンガ大賞の選考においては常々、エンタテインメント性を重視するか、芸術・思想性を重視するかという壁が立ちはだかるそうで、それは今回も同様だった模様。個性の強い2人のマンガ家が合作という表現方法を見事に成功させたこと、スケールの大きい異世界を構築することに手塚治虫に通じる思想が感じられた、という意見も挙がり、最終的には審査員全員一致のうえ「プリニウス」が大賞を獲得した。
トーチwebで連載された「神田ごくら町職人ばなし」だが、新生賞の選考にあたっては同じくトーチweb連載作品であるウルバノヴィチ香苗「まめで四角でやわらかで」とで審査員の票が分かれた。「神田ごくら町職人ばなし」は職人芸を見事にマンガの絵として描き出している点などが評価され、画力について「その(絵の)美しさは言葉による説明を超えた」と称賛する選考委員からのコメントも。「ツユクサナツコの一生」は当初マンガ大賞の候補作としても議論されていたが、短編賞にふさわしいのではという声が挙がり、同賞の対象作品となる。軽いエッセイのように日常を淡々と描きながらもそれらの要素すべてがラストへの伏線となっている構成の妙などが評価された。コミティア実行委員への特別賞は、オリジナル作品に限定した同人誌の展示即売会を40年間続け、プロ志望のクリエイターを応援してきた功績を称えて贈られた。
「プリニウス」タッグに古代ローマの力と手塚治虫の“呪い”?坂上暁仁は明日からたたら場へ
合作という表現方法を成功させ、そのコンビネーションを評価されたヤマザキととり・みきだったが、壇上では立ち位置の譲り合いで手間取り苦笑する場面が見られた。ヤマザキは「テルマエ・ロマエ」で第14回手塚治虫文化賞の短編賞を獲得しており、「プリニウス」も同じく古代ローマを舞台にした作品であることから「古代ローマの血が私に働きかけているのか……」とぽつり。現地の人々から「DNAに古代ローマの血が少しも入っていないにも関わらず、なぜそんなにローマのことが描けるのか」と不思議がられることも多いと語る。なお「テルマエ・ロマエ」での短編賞受賞時には息子に「え、あんなマンガでそんな賞取ったの!?」と言われたと明かし、「今回は素直に喜んでくれました。非常に満足しております」と笑った。
マイク前に立ったとり・みきは「この贈呈式の打ち合わせで、マンガ家の方は寡黙な方が多いので、用意された時間より早く終わる可能性があるのでたくさんしゃべってくださいと言われましたが、我々はそんなこと気にしません。むしろ巻きの指示が入るかも」と不敵に笑う。「プリニウス」の企画はかねてよりヤマザキが温めていたものと明かしたとり・みきは、この場に立てているのはヤマザキのおかげだと語る。また幼少期に手塚の「大洪水時代」と「太平洋Xポイント」に魅入られたことから「こうしてここに立っている状況を考えると、決定的な啓示を受けた感じ」と振り返り、作家としての視点では「いろんなギャグマンガ家から影響を受けたんですが、一番影響を受けたのは手塚治虫先生。楽屋落ちというか、メタな笑いに感化されました」とコメント。最後に「思えば私がマンガ家になるときのマンガ賞の選考委員にも手塚先生がいた。幼稚園時代から呪いをかけられたんじゃないかと思います」とジョークを飛ばした。
坂上は「神田ごくら町職人ばなし」を描くうえで、担当編集であるトーチweb編集長・中川敦氏から「画力に振り切った作品を描いてみては」と言われたことを思い起こす。当時の坂上は「画力に振り切ったら、ストーリーもキャラクターも全部抜け落ちますけどいいですか」と問いかけ、「いいですよ」という中川氏のGOサインを受けて執筆にあたった。結果として「桶屋がただ桶を作るだけの話ができた」と笑う。制作するうえで複数の職人への取材や、石川・金沢職人大学校への見学なども行った坂上。「前の金沢市長さんの『伝統もかつては革新からきている』という言葉がすごく好きで。今職人さんのなり手が減っているという話を聞いたんですが、自分の作品で職人さんの世界をエンタテインメントとして描くことができいて、かつその世界に興味を持ってもらえたなら幸甚です」と語る。最後に坂上は「実は明日から島根のたたら場で鉄を作ってきます」と述べ、出席者を驚かせた。
益田ミリ「これからも描き続けてまいります」、コミティアは“100年続くイベント”に
益田は開口一番、「デビューをして間もない頃、将来何か賞をいただいたら人前でスピーチをするかもしれないと心配になり、スピーチ教室に申し込んだことがあります」と明かし、出席者を笑わせる。しかし「説明会で毎週1分間のスピーチがあると聞かされ、絶望しました。こういうところは自分が描いているマンガの主人公に似ている気がします」とコメント。幼い頃は勉強も運動も得意な空想の自分をよく描いていたという益田は、手塚による「リボンの騎士」の主人公・サファイアにも憧れていたそう。空想の益田はさまざまな冒険を繰り広げていたそうで、「今でも原稿に向かっていると子供時代の楽しい場所を思い出します」と振り返る。最後に益田は「ツユクサナツコの一生」の中のセリフ「自分の好きや思うことは一生死ぬまで自分だけのものや」というセリフを例に出し、「私も好きなことを続けていられる今に感謝し、これからも描き続けてまいります」と決意を新たにした。
コミティア実行委員会からは中村公彦会長と吉田雄平代表が出席。中村会長は40年前に自身を含む複数のメンバーでコミティアを立ち上げたときのことを思い起こし、「作品発表の場としてやぬにやまれぬ思いでコミティアを作りましたが、始めてみると思いも寄らない現実にぶつかって右往左往していました。でも、そこから生まれるマンガが面白く、自分たちのマンガであることが確信できたので、決してやめようと思いませんでした」と語る。続けて「思えばあっというまの40年で、節目の年にこのような賞をいただけて感謝いたします」と選出に感謝。吉田代表はコミティアの今後について「目標としては“100年以上続けるイベント”。途方もない道ですが、一歩一歩積み重ねた先にこのような賞をいただけたので、着実に積み重ねていって創作をする方に発表の場を提供していきたい。今回の授賞を励みによりがんばっていきたいと思っています」と述べた。
コミティアは卒業ではなく帰ってくる場所
贈呈式後は中村会長と吉田代表、中川氏がコミティアの歴史と存在意義を語るトークイベントを実施。コミティアの黎明期から携わる中村会長は「最初の頃は規模も小さかったし、けっこう赤字で。自腹を切ることも多かったんですが、発表される作品が面白かったんです。そこで作品を発表したいと思ってくれる人が増えたらいいなと思ってやってました」と振り返った。コミティアではさまざまな出版社によるブースで編集者の意見を聞ける“出張マンガ編集部”があり、現在では平均で70から80ほどのブースが設けられている。吉田代表は「世界で一番マンガ編集部が集まるイベントじゃないかと思っていて、この場がなければ誕生しなかった作品もあるんじゃないかと感じます」と述べた。
自身も“出張マンガ編集部”に参加している中川氏は、商業出版に関わる立場として「商業の作家さんも続けていくことがすごく大変。とにかく続けていくために稼いでほしいと思っているんです。コミティアも商業の我々も、“マンガを続けていく”という意味では同志。コミティアが100年続くんだったら、商業の我々も100年がんばらないと」とコメント。また、中川氏は「どんな作家にもインディーズ時代がある。作品を描いて、それを読んでくれたり買ってくれたりする人がいた、みたいな感動が、プロになっても描き続ける原動力になっていると思います。描かずにはいられない、誰か読んでほしいという原動力の延長に、巨匠と呼ばれる先生方もいるんじゃないかということを、コミティアの活動を見ていてい思わされます」と述べた。吉田代表は“100年以上続けるイベント”という目標について「続けることも目標なんですが、コミティアらしさを失わないことも大事にしたいです。また、コミティアはマンガ家にとって卒業する場じゃなくて、いつでも帰ってきて作品を発表する場であるようにがんばって続けていきます」と結んだ。
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楊(やん) @yan_negimabeya
【イベントレポート】手塚治虫文化賞贈呈式、ヤマザキマリ「古代ローマの力が私に働きかけているのか」 https://t.co/J0rSAwJObi