「ベルセルク」「ふたりエッチ」「3月のライオン」が共存する雑誌、ヤングアニマルに歴代編集長が今、改めて向き合う|Presented by コミックシーモア

マンガ賞の受賞作やTVアニメ化作品など、話題作を次々と輩出している雑誌・ヤングアニマル(白泉社)。「ベルセルク」「ふたりエッチ」「3月のライオン」といった、まったく毛色の異なる作品が一堂に会する雑誌として知られているが、その背景にはどのような編集方針があるのだろうか。

その答えを探るべく、歴代のヤングアニマル編集長4人に集まってもらい、座談会を行った。1992年の創刊から2025年現在までの歩みを振り返りながら、ヤングアニマルという雑誌を紐解いていく。

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取材・文 / 小林聖撮影 / 武田真和

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ヤングアニマル歴代編集長座談会
左から友田亮、中澤章一、永島隆行、荻島真之。

左から友田亮、中澤章一、永島隆行、荻島真之。

座談会の参加者はこの4人

友田亮(トモダリョウ)

1992年入社、同年ヤングアニマル配属。ヤングアニマル副編集長、ヤングアニマル嵐の編集長を経て、2011年より花とゆめ編集長を務めた。現在は役員待遇。

中澤章一(ナカザワショウイチ)

1993年入社。1995年にヤングアニマル配属。ヤングアニマル副編集長などを経て、2012年にヤングアニマル嵐の編集長、2014~2016年にヤングアニマル編集長を務めた。現在はデジタル営業部部長。

永島隆行(ナガシマタカユキ)

2003年入社、同年ヤングアニマル配属。花とゆめ副編集長、ヤングアニマル副編集長などを経て、2018年から現在までヤングアニマル編集長を担当する。

荻島真之(オギシママサユキ)

2007年入社、同年ヤングアニマル配属。2018年よりヤングアニマル副編集長を務め、2025年6月にヤングアニマルZERO編集長に就任した。

創刊直後から現在まで、歴史を見てきた編集長が集合

──皆さん、少しずつ世代が違いますが、入社・配属前のヤングアニマルってどういうイメージでしたか?

友田亮 僕が入社したときはヤングアニマルの創刊直前だったんですよね。1992年4月に(白泉社に)入って、5月にヤングアニマルが創刊。創刊号の校了作業中に仮配属みたいな感じで編集部に入った。だから、ヤングアニマルに対するイメージというのは当然ないんだけど、白泉社に男性向けのマンガ誌があるのは知ってました。(ヤングアニマルの前身となる)月刊アニマルハウスっていう雑誌があって、その前は月刊コミコミ、さらに前が少年ジェッツですね。コミコミは中学生くらいのときに何度か買ってた記憶があります。

左から友田亮、中澤章一、永島隆行、荻島真之。

左から友田亮、中澤章一、永島隆行、荻島真之。

──単行本のレーベルもずっとジェッツコミックスでしたもんね。

友田 つい最近までジェッツコミックスだったよね? ヤングアニマルコミックスに変えたの、章ちゃん(中澤章一氏)の編集長時代でしょ。

中澤章一 そうですね。2016年だからつい最近というほどじゃないですけど。

──入社時は男性向けをやりたいとかあったんですか?

友田 当時は「花とゆめを作るために生まれてきた」くらいに思ってましたよ(笑)。ちょうど花ゆめが第2次黄金期みたいな時代だったんです。「動物のお医者さん」や「ぼく地球たま(「ぼくの地球を守って」)があって、「赤ちゃんと僕」も始まって。女性だけでなく男性読者も多かった。僕も花ゆめの作品は好きで読んでました。男性向けは(アニマルハウスからヤングアニマルに引き継がれた)「ベルセルク」や新谷かおる先生の「砂の薔薇」くらいかな、知ってたのは。

中澤 僕は友田さんの1年後輩とほぼ同世代なので、だいたい同じイメージでしたね。コミコミは読んではいましたし、「アウトランダーズ」とか「エルフ・17」とかやってる雑誌と認識してましたが、やっぱり白泉社といえばどちらかといえば少女マンガのイメージでした。当初の自分としても花ゆめ志望でしたし、実際最初は花ゆめに配属されて2年ほどいました。

──永島さんが入社した頃にはだいぶヤングアニマルのイメージもできあがってきてましたよね。

永島隆行 そうですね。僕は2003年入社なので創刊から10年以上経っていて、「ベルセルク」の大ヒットも読者として見ていました。ただ、実は僕の最初の志望はCANDyっていうローティーン向けのファッション誌だったんです。入社前の研修もそっちで受けてたんですけど、いきなりヤングアニマルに配属されて(笑)。

友田 永島くんが入ってすぐ(CANDyが)なくなっちゃったしな。

永島 数年はあったんですけどね。いずれにせよ、入社してそのままヤングアニマルに配属されたので、けっこう温度差がありました(笑)。

友田 荻島くんがその少し後だっけ?

荻島真之 はい。2007年、「3月のライオン」が始まるちょっと前の入社です。だから、やっぱり「ベルセルク」「ふたりエッチ」のイメージが強かったです。あと、深夜アニメの印象もありましたね。中高時代、深夜帯のアニメを見ていると、小倉優子さんが「アニマル!」って連呼するCMが流れていたのを覚えています。

毎日が学園祭のようだった草創期

──実際配属されてからの印象はどうですか?

友田 僕が入ったときは本当に創刊間際だから、鉄火場という感じでしたね。人も全然足りてなかったし。最初は自分を含めて7人くらいしかいなかったんじゃないかな?

友田亮

友田亮

中澤 プロパーの編集部員もいたけど、ほかの会社から転職してきた人もいましたよね。創刊したばかりでノウハウもなかったし。僕が入った頃も、とにかくページが埋まってないんですよ。次の号や次の次の号のページの予定が埋まってなくて「さあどうしよう」って。

友田 3分の1くらいしか埋まってなかったりしてね。

中澤 だから、とりあえず埋めなきゃならない。でも、できたばかりの雑誌だから、誰も知らないわけです。「ふたりエッチ」もまだ生まれてない頃なので、ギリギリ「ベルセルク」を知ってる人がいるかな、という程度。新谷かおる先生とか立原あゆみ先生とかが描いてくださっていたけど、作家さんは知られていてもヤングアニマルという雑誌は誰も知らない。そういう状況で「描いてください」とお願いしなきゃいけなかったので、作家さんを口説くのは今より大変だったと思います。鍛えられましたね。

中澤章一

中澤章一

友田 まあ忙しかったよね。時代もまだ昭和の雰囲気が残ってる頃だったし。「24時間戦えますか」(※注:栄養ドリンク・リゲインのCMソングのフレーズ。1989年の新語・流行語大賞にランクインした)なんてCMが流れてた時代で、僕も「戦えるだろ」って思ってたから。人が少ないから入ってすぐいろんなことをする必要があったし、それでいて誰も仕事なんて教えてくれなかった。まだ仕事を教えるなんて発想が誰にもなかったんだと思うよ。新谷かおる先生の担当やってる頃なんかは大変だったよね。俺と章ちゃんが担当してたんだけど、月曜日から金曜日まで新谷先生の家に泊まってたりして。

中澤 手塚治虫先生の“手塚番”(※注:手塚治虫の担当編集者をそう呼んだ)みたいなものですよね。当時は人気作家さんがたくさんの雑誌で連載をしていました。そうすると、作家さんは忙しいから、まず目の前にいる編集者の仕事から片づけていく。逆に編集者が来ないと「まだその雑誌の原稿は待ってもらえるのかな」と思うわけです。だから、編集者は泊まり込んで原稿を待っていた。そうすることで、作家さんとの人間関係も作れましたしね。新谷先生のところも、たくさんの編集者が泊まっていました。友田さんの頃は特にそうでしたよね。僕の頃はだいぶ落ち着いていましたが、それでも2泊3日とかは当たり前でした。

──それも、新谷先生だけ担当しているわけじゃないですもんね。

友田 いっぱい(担当を)やってたね。

中澤 だから、作家さんとかから新谷先生の仕事場にFAXを送ってもらったりしてましたね。

友田 そうそう。それを見て作家さんに電話してね。

永島 先輩方がそんなふうにハードに働いていたのは「雑誌がなくなると困る」という気持ちがあったからだ、とよく聞きました。今みたいに雑誌が安定している時期じゃなかったから、何がなんでも原稿をもらって、雑誌を作らないといけないという意識が強かったと。

友田 僕自身はけっこう楽しくもあったんだよ。毎日学園祭をやっているような感じでね。でも、これがずっと続くのもヤバいなっていう気持ちもあった。だから、新谷先生の作品に代わるようなヒット作をなんとしても出さないとっていうのは、強烈なモチベーションだったね。

ヤングアニマル編集部、野蛮なだけじゃなかった

──そういう草創期を経て、永島さんや荻島さんが入った頃はどうでしたか?

永島 僕が入った頃は「ベルセルク」に加えて、「ふたりエッチ」や「藍より青し」が大ヒットしていて、雑誌の知名度も上がっていました。「VF -アウトサイダーヒストリー-」や「ホーリーランド」もあって、エロ・バイオレンス色がけっこう強いイメージでしたね。だから、さぞ野蛮で怖い人たちが作ってるんだろうと思ってました(笑)。

──実際はどうでした?

永島 案の定たたき上げの怖い人たちが(笑)。

一同 (笑)。

永島 ただ、最初の印象は単に「怖い人たち」だったんですけど、一緒に仕事をしてみるとすごく知識が豊富な人たちで驚きました。マンガに限らずいろいろなことを知っていて。

友田 (入った当初の永島氏は)ものを知らなかったもの。

永島 (笑)。

永島隆行

永島隆行

友田 その割にはトガっててさ、「俺はフランス帰りだ」みたいな感じで。だから、まず価値観をいったん更地にしてね(笑)。

永島 自分探しとかしちゃう感じの若者でしたから。いい感じに更地にしてもらいました(笑)。「この人たち、野蛮なだけじゃないんだ」っていうのは衝撃でしたね。

荻島 僕はそういう永島さんたちが先輩だったので、「たたき上げの方にたたき上げられた先輩がいる」という感じでした(笑)。雑誌自体も永島さんが担当していた「デトロイト・メタル・シティ」が「このマンガがすごい!2007」のオトコ編1位に選ばれて、2008年には映画化。さらに、入ってすぐに「3月のライオン」が始まったり、すごいところに入ったなという気持ちでした。どの書店に行ってもあるような作品を手がけてる先輩方ばかりだったので、かなり緊張していたのを覚えてます。

荻島真之

荻島真之

友田 雰囲気悪かったよな、今思うと(笑)。

──(笑)。それはどういう……。

友田 なんだろ? 上が怖かったからじゃない? みんな寝不足だったし。

永島 皆さん、会社の隣のホテルによく泊まってましたよね?(笑)

友田 泊まってた。翌日朝から会議があるんだけど、前日夜中の2時くらいまで飲んでるからさ。帰って寝ると会議に間に合わないから、泊まるかって。

中澤 ホテルがいっぱいだとサウナ行ったりしてね。

友田 行ったなあ。

──よく遊び、よく働く、古きよき編集者という感じですね。

永島 よく……はないんでしょうけど(笑)。今はまた違います。

友田 変わったということで言えば、自分自身は変わったつもりはないんだけど、永島くんが言うには花ゆめに行ったときの僕は別人になってたらしい(笑)。

──友田さんは2011年に花とゆめの編集長に、その1年後の2012年に永島さんがやはり花ゆめに異動されていますよね。そのときですか。

友田 そう。そのときの僕は多重人格者じゃないかと疑うくらいだったって(笑)。

永島 1年前まであんなに怖かった先輩が、花ゆめでは笑顔で会議をしていて(笑)。「郷に入れば、とはこういうことか……!」と思いました。

友田 人から見ると変わったらしいんだよね。でも、やっていることは同じだったよ。