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10年前の今日、何をしていましたか? ~ 東日本大震災10年特集 映画ナタリー編

小森はるか、園子温、廣木隆一、宮世琉弥、山谷花純が語る、あの日の記憶

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廣木隆一

廣木隆一

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10年前の今日、僕は実家がある郡山に向かう新幹線の中にいました。地震発生とともに新幹線は宇都宮を過ぎたあたりで急停車しました。その後、詳しい状況も分からずに夕方まで車内におりました。地震が起きたことは分かっていたのですが、その後の津波の情報は避難した体育館までの道すがらに知りました。原子力発電所が爆発したということも避難所で知り、東京に戻ることも郡山に行くこともできずに一晩を過ごすことになりました。

翌朝、やっと見つけたレンタカー屋さんに頼み込んでたまたま空いていた軽自動車を借りて郡山に向かいました。郡山に向かったのは父親の葬儀、告別式があったからです。一度、葬儀の準備をしに郡山に行き、撮影のために東京に戻り、前日実家へ向かってる途中に地震が起きたんです。車で朝出れば式には間に合うだろうと。ところが地震の凄まじさは郡山へ向かう車の中で実感していきました。高速は通行止めで、一般道路は所々アスファルトがめくり上がり、迂回迂回の連続で到着したのは式の最後でした。安全を考慮して住職・親戚の方々には早々に帰宅してもらっていたところだった。

その後、私は4本の映画で福島のことに触れている。当日のこの出来事もそうだがその後知ることになる事実にうまく自分の気持ちがついていけないのを感じる。そんな時「RIVER」という映画で被災地に行った時の感情が蘇る。撮影の準備をしている時に世間ではこんな時に映画なんてという空気が巻き起こっていて、僕の中でも「そうかも知れない」という気持ちが産まれていた。でも、テレビや新聞などで流れてくる情報でしかなく「実際はどうなんだろう?」という気持ちが強くなり、新しく被災地の映像を入れることにした脚本に書き直し、撮れるかどうかもわからないけどとりあえず行こうと、最小のスタッフと共に向かった。

水浸しになった一面が広がる道路に降り立ったことや瓦礫が散乱した漁港の町、無数に広がる民家、その時の感覚は忘れられない。言葉で言い表すことは難しいと思い僕らは次から次へと撮影した。

「それを見た人たちはどう思うのか?」

その時、僕が実感できたのは「映画はそもそも記録ということもできる。そして、そこに立っている撮影者たちの感情までも映してくれるものなんだ」ということです。

プロフィール

廣木隆一(ヒロキリュウイチ)

1954年1月1日生まれ、福島県出身。1982年に「性虐!女を暴く」で監督デビューし、日活ロマンポルノの映画を手がける。1994年にはサンダンス・インスティテュートの奨学金を獲得して渡米。帰国後に発表した「800 TWO LAP RUNNERS」で文化庁優秀映画賞を受賞した。2003年の「ヴァイブレータ」では第25回ヨコハマ映画祭の作品賞を受賞し、その後も「余命1ヶ月の花嫁」「きいろいゾウ」「さよなら歌舞伎町」「彼女の人生は間違いじゃない」「ここは退屈迎えに来て」など多数の映画で監督を務めた。2021年4月15日には、中村珍によるマンガ「羣青」を映像化したNetflix映画「彼女」が配信される。

廣木隆一の記事まとめ

宮世琉弥

宮世琉弥

宮世琉弥

震災があった当時、僕は小学1年生でした。いつも通り学校に行って、クラスメイトと下校の準備をしている最中に地震が起きたのですが、最初は何が起きているかわかりませんでした。幼かったこともあるかもしれませんが、後々あんなことになるとはまったく思っていなかったです。山の上に避難して、津波が引いたあとに家に向かったのですが、すべて流されてしまっていて。その後、避難所の上にあったいとこの家での生活が始まりました。

被災後の生活で印象的だったのは、水の大切さ。食事やお風呂、掃除など生活のすべてに関わってくるので、「水が出ないってこんなに大変なんだ」と痛感しました。水道が復帰したときは本当に感動して、今でも日付がすぐに思い出せるほど鮮明に覚えています。食料品もすぐに品切れになってしまって、水や電気などのライフラインや、今まで当たり前に接してきたものがなんでもかんでも希少になってしまったことも強く印象に残っています。

僕の場合、家族がすぐに全員集合できなかったことが一番不安でした。震災当日は父が出張で近くにいなかったので、離れているだけですごく不安だったんです。少しの時間そばにいなかっただけなのに、ものすごい不安に襲われて、「どうしているんだろう、無事なのかな」とそわそわ、モヤモヤしていました。当時電話の回線もなかなかつながらなかったので、連絡が取れたときの安心感は今でも覚えています。友達とは当時、あえて地震のことを話題にせず、勉強の暗記大会や、将棋、オセロなどをして、楽しいことだけを考えて前向きにいるようにしていましたが、会えない友達はどうしているんだろうという心配も常にありました。そのときの気持ちは今でも覚えています。

今のお仕事をするきっかけとなった出会いも、震災後の生活の中で経験しました。ももいろクローバーZの皆さんが僕の地元でライブをしてくださったんです。「テレビで観ていた人たちが目の前にいる!」という感動ももちろんありましたが、震災で落ち込んでいる中、会場が盛り上がっている様子を見て「こんなにも元気をもらえるんだ」ということに驚いたんです。そのときに「僕もこんなふうに皆さんに元気を与えられるお仕事がしたい!」と思うようになり、その数日後にたまたま今の事務所からスカウトされて入所を決めました。

2011年当時の宮世琉弥。

2011年当時の宮世琉弥。

僕の名字は、2年前にファンの皆さんからプレゼントされたもので、「宮城から世界へ羽ばたく」という意味が込められています。ふるさとの宮城を背負って活躍したいという気持ちはもちろん自分の中にあり、「亡くなった方の分まで生きたい」という思いも重なって、とても素敵な名前だと思いました。震災から10年が経過し、あの頃に比べていろんなことができるようになったなと思いますし、特に2020年は本当にたくさんの経験をさせていただきました。あの日見たももいろクローバーZさんたちの姿に、追い付いてはいなくても少しずつ近付けているんじゃないかと思っています。

最後に、このコラムを読んでくださった皆さんにお伝えしたいことがあります。人生は本当に一度きり。自分がこうしたい!と思うことや、叶えたい夢は絶対にあきらめないでください。無理に目標を作ろうということではなく、ときどき「自分は今やりたいことができているのかな?」と振り返るだけでもいいと思います。挑戦してみて、もしも難しい目標であれば少し方向や見方を変えてみてください。僕も、小学1年生だった自分に自信を持ってこれからの姿を見せられるように、たくさんの経験を積んで努力を続けていこうと思っています。

プロフィール

宮世琉弥(ミヤセリュウビ)

2004年1月22日生まれ、宮城県出身。2019年に俳優デビュー。近年の出演作として、映画「夏の夜空と秋の夕日と冬の朝と春の風」、ドラマ「ねぇ先生、知らないの?」「恋する母たち」がある。現在、ドラマ「青のSP(スクールポリス)─学校内警察・嶋田隆平─」「FAKE MOTION -たったひとつの願い-」に出演中。3月14日には初のスタイルブック「RB17 りゅうびセブンティーン」が発売される。

STARDUST - スターダストプロモーション制作3部 - 宮世琉弥のプロフィール
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山谷花純

山谷花純

山谷花純

震災が起きたときの記憶は、今も薄れることなく残っています。当時私は中学3年生になる寸前で、体育館で先輩の卒業式の準備をしていたんです。地震はそのときに起きました。怖くて動けなくなってしまった子の首根っこを先生がつかんで、「逃げろ!」と誘導していたのを覚えています。お母さんが迎えに来てくれたんですが、なぜか正露丸と通帳だけ持って来ていて。焦って家を出てきたようで素足で靴を履いていました。そのとき宮城はすごく寒かったので、羽織るものなどを取りに一度家に戻り、体育館に避難しました。でも、お父さんの安否が確認できていなかったんです。大丈夫かなと心配していたんですが、夜に体育館を歩き回っているお父さんを発見して、無事に家族全員がそろいました。先のことなんて考えられず、家族がけがなく生きていたこと、顔を見られたことに、とにかく安心しました。

避難所で過ごして実感したのは、いろんな人がいるんだなということです。泣いている子供に怒ったり、「明日仕事なのでラジオを切ってください」と言う人がいたり。助け合いももちろんあったんですが、やっぱり信頼し合って手をつなぎ続けられるのは家族だと思いました。

小学6年生のときから芸能の仕事をしていて、実は震災の翌日も新幹線で東京に行く予定だったんです。でも仕事は全部キャンセルになって、学校にも行けず、本当に何もすることがない。心にぽっかり穴が開いてしまいました。避難所から戻ったあとは、地盤が安定しているひいおばあちゃんの家で1週間ほど暮らしました。そこに持って行ったのが、2010年に出演させてもらった「告白」の台本だったんです。ほかに持って行くべきものはたくさんあったのに、無意識に手に取っていた自分がいて。地震が起きた当日は未来のことを考える余裕がなかったんですが、その頃には自分の経験を女優という仕事を通して誰かに伝えたい、勇気や感動を与えたいという思いが生まれていました。

宮城でご近所の方に助けていただいたことは上京した今も忘れられません。携帯は便利ですが、電波がつながらなくなったらただの機械なんです。そんなときに「あそこの銭湯が開いてるよ」といったことを教えてくれた方たちがいました。2019年に「みやぎ絆大使」に就任させていただいたのですが、地元には恩返しをしたいと思っています。「子供の頃に被災したけど今私はがんばっているよ!」ということを、テレビや映画を通して伝えていきたい。新型コロナウイルスの影響で今はできることが限られていますが、今後恩返しになるような仕事を積極的にやっていきたいと考えています。

自分が大きな地震に遭うなんて思っていませんでした。でも、そういう現実が不意に立ちはだかることがある。それを頭に入れておくだけで、いろいろなことが変わってくると思います。防災グッズを準備したり、耐震を気にしたりするだけでなく、昔お世話になった人やしばらく会っていない友達に連絡をしてみたり。「寒いね」とか「今何してるの?」だけでもいいと思います。その一言をきっかけに、しばらくの間断たれていた関係が復活することもあると思うので。

プロフィール

山谷花純(ヤマヤカスミ)

1996年12月26日生まれ、宮城県出身。2007年にエイベックス主催のオーディションに合格し、翌年にドラマ「CHANGE」でデビュー。その後、連続テレビ小説「おひさま」「あまちゃん」、特撮ドラマ「手裏剣戦隊ニンニンジャー」などに出演した。映画「シンデレラゲーム」「フェイクプラスティックプラネット」では主演を務め、「劇場版コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-」「人間失格 太宰治と3人の女たち」「さくら」にも参加している。2021年はドラマ「遺留捜査」第6シーズンや「アノニマス~警視庁“指殺人”対策室~」に出演。3月19日には出演映画「まともじゃないのは君も一緒」の公開を控える。

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ななみん🐵 @nanamiyase_122

琉弥くん生きててくれてありがとう
亡くなった方の分まで長生きしてください https://t.co/nU09umXGBQ

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